過去のご法話
十二月常例法座
講師 阿部 智史 先生 

講師からのコメント

 皆様のお仏壇におられる仏様はどのようなお方でしょうか。 「絵像」「木像」「御六字名号」いずれの仏様も 私のところに至り届いていることを知らせんがために働いて下さっています。 私が仏様に合わせるのではなく、仏様が私にぴったり合わせて 他力念仏のお救いをまわしむけて下さいます。
 お念仏申すたびに阿弥陀様とご一緒であったと 安心して喜ばせて頂くばかりです。
                   南無阿弥陀仏

  南無の言は帰命なり
  帰命は本願招喚の勅命なり
   (教行信証行巻)
 皆様、「良い事をしたら良い世界に行き、悪い事をしたら悪い世界に行く」 と言われると分かり易いと思いませんか?しかし、人はそれぞれ違う罪を背負っています。 もしこのような世界であれば、皆行き先が変わってしまいます。 「死ぬと二度と逢うことが出来ない」ということではないでしょうか? このような世界を自力聖道門の道といいます。 しかしながら、浄土真宗の教えは他力の教えです。 阿弥陀様が全てを仕上げて下さっており、私はお任せするだけになります。 そのため、また逢える世界があります。
 世の中には様々な姿をした阿弥陀様がいます。 鎌倉の大仏や平等院鳳凰堂、そして私の地元光市の県指定重要文化財に なっている「黒仏」は皆座った阿弥陀様であります。 これは座った阿弥陀様の所に私が逢いに行くことを現しており、自力の教えとなります。 一方、浄土真宗の阿弥陀様の姿は、足を揃えて立っている姿と決められています。 これは阿弥陀様が私たちを救うために立ち上がっておられる姿になります。 更に足が揃っているのは、既に私に救いの働きを届けて頂いていることを現しています。
 私には義兄がいました。がんで余命4ヶ月と言われ、家族で最後の食事をする機会がありました。 今まで化学治療など頑張っていて、もうこれ以上頑張れる状態ではありませんでした。 こういう時、浄土真宗の教えはいいなと思います。どういう状況であっても 阿弥陀様のお慈悲の中に生かさせて頂き、常に一緒にいらっしゃるので安心でいられます。 このように慶べる世界があることに感謝したいと思います。原口針水和上は阿弥陀様を次のように歌われました。
  我称え 我聞くなれど 南無阿弥陀仏
  連れて行くぞの 親の呼び声
南無阿弥陀仏
聴聞の心得

一、このたびのこのご縁は初事と思うべし

一、このたびのこのご縁は我一人の為と思うべし

一、このたびのこのご縁は今生最後と思うべし