過去のご法話 | |
2月 常例法座 | |
講師 米田 順昭 先生 | |
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講師からのコメント
親鸞様は「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ。」 |
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聖人の常の仰せには、 『弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。 さればそれほどの業を持ちける身にてありけるを、 助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。』 (歎異抄より) 阿弥陀さまはお慈悲のお方です。 お寺にお参りし聴聞すると、「立派な人じゃね。」という人がおりますが、 でも、私が立派な人になるお話しではなく、愚かな凡夫で先を見通す力もなく、 大きな不安を抱えている私であるという姿に気づかせて頂くのです。 あるお寺のご住職さんが、雪道で転んでお尻から出血し、 係り付けの病院へゆくと、大学病院を紹介されて、 組織検査で悪性と分かりもう手が付けられんと知らされ、 不安一杯で国立がんセンターへ行くと先生に、 「大丈夫切り取れる」という言葉はにほっとされた。 この大丈夫!という言葉で救われた。日頃からビハーラ活動をされて、 いろんな場面を経験されているご住職さんでも、「大丈夫。」は嬉しい言葉。 老いて死んでゆかねばならないと知っていても、受け止められますか? 受け止められん悲しみを頂きながら生きているのが我々の姿です。 仏様の慈しみの心というのはどこで味わうか。いつでも届いていますから、 楽しい時も、嬉しい時も、愚かさや悲しみの中でこそあじわっていく世界がある。 それが、親鸞聖人が見てゆかれた世界。 法然上人のお弟子に、禅勝房という方がおられ、故郷へ帰られる時、 上人は法語を手土産にもたされた。「聖道門の修行は智慧を極めて生死を離れ、 浄土門の修行は愚痴に帰りて極楽に生まる。」と。 また当時、良寛さんという有名な禅のお坊様がおられ、 晩年は他力の心にひかれてゆかれた。その方の「災難逃れの妙法」は 『災難に会う時は会うがよき候。死ぬ時節には死ぬるが候。これが災いを逃れる妙法にて候。』 災難や死が嫌だと言ってうろたえるから、災難になる。 そのものを受け止めて行けば、何事もスーと受け止めてゆくことが出来る。 冷淡に見るのではなく、これが本当に乗り越えてゆく妙法であると。 親しい方との別れ、愛別離苦、この娑婆の生活の中で 受け止められん我が身の所に阿弥陀さまの救いは届いて下さる。 だから、仏様の温もりを悲しみのど真ん中で聞くがいいよ。 お母さんと呼んで 涙する 涙したくて 母さんと呼ぶ その涙の中に出会ってゆく世界。 悲しみの中に響きわったてくださる命の深みがある。 そういう世界観を大事にしながら、我が人生に景色を開いて下さる。 それが浄土真宗のおみのりの特徴ではないだろうか
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聴聞の心得 |
一、このたびのこのご縁は初事と思うべし |