アンネのいとこ
バディ・エリアスさんのお話 
「アンネとわたし」



T.はじめに
コンニチワ。今日このつどいで皆様のアンネに対する深い愛情を感じています。それは言葉では表現できないほどのものです。今日もしアンネが私たちと共にいたなら、きっと皆さんに涙ながらに心から感謝の言葉を伝えることでしょう。「日本の皆さん、心から愛しています」アンネはきっとこう言うことでしょう。

U.隠れ家に入るまでのアンネとわたし
わたしは家族と共にヒトラー台頭前にスイスへ逃げることができましたので、いとこのアンネとは異なる運命をたどりました。ホロコーストを生き延びることができたのです。
ヒトラーがドイツで台頭し、ナチスがドイツにいたオットー・フランク家の前を行進しはじめ、「ユダヤ人を皆追い出せ」などと叫びはじめたころ、オットー・フランクは家族と共にオランダへ移住することを決めました。
アンネたちがオランダに移住してからしばらくは幸せな日々が続きました。学校が休みの時にアンネはスイスのわたしたちのところへ遊びに来ました。一緒に遊んだ楽しいことをよく覚えています。アンネはとても楽しくておかしな、元気な性格の女の子でした。
アンネの姉マルゴーはどちらかといえばおとなしい性格でした。オランダにもナチスが来て、もうアンネはわたしたちのところに来ることができなくなりました。しかし、しばらくの間手紙のやりとりはできました。ここで一つアンネから手紙を一つ皆様に紹介したいと思います。1941年に書かれたものです。
わたしの名前について少しはじめに説明しますが、「バディ」というのは兄が私が生まれてすぐわたしにつけてくれたニックネームです。アンネは日記の中で私のことを「ベルント」と呼んでおりました。それでは手紙を紹介します。

「親愛なる皆さんへ 今日わたしはベルントから手紙を受け取りました。ベルントが手紙を書いてくれてとってもうれしいです。本当にありがとう。
時間があればわたしはいつでもスケート場に行ってアイススケートの練習をしています。レッスンを受けて、ちゃんとフィギアスケートができるように練習しています。ワルツを踊ったり、それからジャンプしたりできるように一生懸命練習しています。
皆さんはお元気ですか? わたしのことばっかり書いてごめんなさいね。でもそのことで頭がいっぱいなんです。いつかわたしもベルントと同じくらい上手になれればいいなと思っています。
学校でもすべて順調にいっています。一週間学校が忙しくてあまり時間がないけれど、でも時々風邪を引いて休んだりしてしまうこともあります。月曜日と水曜日と木曜日にわたしはフランス語の授業を受けています。そして夜は6時まで家に帰りません。火曜日と金曜日にわたしは宿題があるので、スケートの練習は土曜日と日曜日だけです。ベルントといつか一緒にスケートができる日が来るといいなあと思っています。でもそのためにはわたしは本当に上手になるように練習しないといけません。
それでは愛を込めて アンネより」

1941年アンネはユダヤ人であるという理由でスケートもできなくなりました。そればかりではなくユダヤ人は映画館にも行くことができない、プールに行くこともできない、様々な禁止事項が定められました。
事態はますます悪く、危なくなるばかりです。オットー・フランクは事態を冷静に受け止め、家族と共に隠れ家に潜む計画をたてはじめます。

V.アンネの家族、隠れ家から収容所へ
1942年7月5日マルゴーがゲシュタポから、翌日ドイツの収容所へ行くようにとの呼び出し状を受け取ります。7月6日オットーは家族と共に隠れ家に身を潜めました。2年余りアンネは一度も外へ出ることはできませんでした。
1944年8月4日隠れ家が見つかり、アンネたち家族は収容所へ送られます。ベステルボルク収容所を経由してポーランドのアウシュビッツ収容所へ送られます。アウシュビッツへ着くと男性と女性は別々に分けられましたので、これがオットーにとって妻や娘との最後の別れになりました。
その2ヶ月後、アンネとマルゴーは母エディットから引き離され、別のベルゲン・ベルゼン収容所に送られます。突然二人を失った母エディットは悲しみにくれて絶望し、食欲もなくなり、そこで餓死しました。

W.生き延びたオットー
アウシュビッツを生き延びることができたのはアンネの父オットー・フランクだけでした。1945年1月27日アウシュビッツから解放され、5ヶ月かかって、オットーはロシアを経由してヨーロッパへと戻りました。
オットーはオランダへ戻る途中、妻が亡くなったことを目撃した人から聞きましたが、2人の娘には生きて会えるはずだと大きな希望をもっていました。
オットーがアムステルダムに戻ってすぐに、スイスにいる母に宛ててこのように書いています。

「わたしはオランダに着きました。今事務所にいます。すべてが悪夢のようです。一体何が起こったのか自分でもはっきり理解することができません。今はこれ以上多くを書くことはできません。でも簡単にこれまで何が起きたか説明しましょう。
1942年7月6日マルゴーがドイツの収容所への呼び出し状を受け取り、もちろんわたしはマルゴーを一人収容所に送り出すことなどできませんでした。だから身を隠すことにしたのです。
わたしがあなたに宛てて書いた最後の手紙からもしかしたら隠れ家生活をはじめたことを薄々感づいていたかも知れません。私たちは借りた事務所の別棟に身を置きました。ファン・ペルス(ファン・ダーン)家族3人とそれから、歯医者のプフェファーさん(デュッセルさん)が後に加わり私たち8人がこの事務所の片隅に身を寄せ、危険を冒しながらもスタッフが隠れ家生活を支えてくれました。
この隠れ家生活2年の間にアンネは日記を書いたのです。
けれども結局私たちは裏切られてゲシュタポに逮捕されました。オランダにしばらく収容されその後ポーランドのアウシュビッツ収容所へと送られました。今日はこれ以上書くことはできません。
9月2日、エディットと娘たちとの最後の別れとなりました。彼女たちはビルケナウにしばらくいて、その後娘たちは10月ドイツのどこかの収容所へ労働のために送り出されたと聞いています。娘たちが今どこにいるのかわたしはわかりません。でもどうか娘たちが無事でいますように、そのことがどうしてもわたしの頭から離れません。
1944年11月、わたしは非常に体力を消耗して、強制労働から体を壊してしまいました。そのためアウシュビッツの病棟へ送られ、オランダ人医師の介護を受けていました。そこで何とか体力を戻すことができ、そして1945年1月27日ソ連軍によって解放されることができました。
その解放の前日、実は私たちは皆アウシュビッツの看守によって外に出され、まさに射殺されるという危険が身に迫ってきました。けれども彼らは私たちを殺す前に立ち去ったのです。わたしは奇跡的に命を救われることができました。まだ体力が残っていた人たちはドイツ兵と共に死の行進へと向かわされました。
残された私たちは幾らかの食料を与えられてそこから、ポーランドを通ってオデッサ、マルセイユそしてオランダへの長い道のりにつきました。
エディットはもっと辛い体験をしたに違いありません。話に聞くと彼女は日に日にやせ衰えそして娘たちが連れ去られるとすっかり力を落とし、そして1月6日に亡くなりました。わたしはたったひとりぼっちになってしまいました。これ以上どうわたしの気持ちを伝えればいいでしょう。
早くみんなに会いたい。どうか甥たちがどうしているかわたしに教えてください。みんなからの便りを待っています。わたしは弟のロバートにも手紙を書きました。今はまだわたしは物事をきちっと把握できる状態ではないのですべてをここに書くことができません。体の方は何とか元気にやっています。でもとにかく彼女たちが元気で帰って来てくれることをただそれだけを願っています。でもしばらく待つしかありません。どうか返事を下さい。愛を込めて オットーより」

X.アンネの最期
オットーはそれからというもの、娘たちの所在を確かめようとあちらこちらに聞いて回りました。赤十字に問い合わせ、聞いて回りました。ところがある日、掲示板にある張り紙を見て二人の死亡を知らされます。オットーはそれからも、最期を知る人々を探し続けました。そしてとうとう一人、ベルゲン・ベルゼンに送られた後のアンネとマルゴーを知る人物を見つけることができました。彼女からの証言を紹介したいと思います。

「ベルゲン・ベルゼンで、私たちは労働のため集められました。靴はもうぼろぼろで少しの石けんが与えられて、そして少しのパンも与えられました。でも私たちの手は傷つき出血して、膿み始めていました。アンネとわたしはもう痛くてどうしようもありませんでした。マルゴーは何とか辛抱して耐えていました。
12月のある日、私たちは特別にチーズそしてマーマレードを与えられました。見張りの女たちは何かお祝いをするために私たちを残してどこかへ行ってしまいました。ちょうどクリスマスでした。マルゴーとアンネと私たちは一緒にこの日をお祝いしました。聖ニコラスのお祝い、ユダヤ教のハヌカのお祝い、そしてクリスマスのお祝いを私たちのやり方でお祝いしました。
友だちのジャニーが看守の台所で働いていたハンガリー人の女性を知っていたので、台所からこっそりジャガイモの皮をもらってくることができました。アンネもセロリーのような野菜を調達してきました。それから私たちは看守の女性の前で踊ったり歌ったりして見せて、その女性から少しのキャベツをもらうことができました。
その後、ジャニーと私は別のバラックへ移動しました。私たちはマルゴーとアンネも一緒に来るようにと言いました。けれども、そのころマルゴーがとてもひどい下痢にうなされていたのでそこを動くことができませんでした。アンネは一生懸命姉のマルゴーを看病していました。
その後、私たちはアンネとマルゴーを訪ねて行きました。少し食べ物が手に入ると届けました。3月ごろだったと思います。雪が溶けはじめている頃でした。私たちはびマルゴーとアンネに会いに行きましたが、もうそこにはいませんでした。
アンネとマルゴーが病棟に移っていました。私たちはアンネたちに言いました。『あきらめては絶対にだめ。』アンネは言いました。『ここに二人で横たわっていることができればそれでいいの。一緒に死ねればそれでいいの。』マルゴーはほんのかすかな声しかあげることはできませんでした。ひどい高熱にうなされていました。
翌日再び私たちはアンネとマルゴーに会いに行きました。マルゴーが棚から落ちてもう意識をほとんど失っていました。アンネも少し熱があるようでした。でも彼女は私たちが来たことをうれしいと言ってくれました。『マルゴーはよく眠っているの。彼女が眠っていれば、私も体を休めることができるわ』とアンネは言いました。
数日後私たちはアンネとマルゴーのもとを訪ねます。でももうそこは空っぽでした。それが何を意味するのか私たちはすぐにわかりました。バラックの後ろのほうに私たちは彼女たち二人を見つけました。彼女たちのやせ細った体を、毛布でくるみ、包んであげました。それが私たちにできるすべてのことでした。」

Y.アンネの日記
家族全員を失ったオットーの気持ちを、皆さん想像してみてください。
オットーは2年間自分たちを支えてくれたミープのもとへ行き、そして娘たちが帰らないことを告げます。ミープはアンネたちが捕まったあと勇敢にも再び隠れ家へ行き、床一面に散らばっていたアンネの日記を見つけたのです。ナチスの警官が一家を捕まえたとき、警官はオットーのかばんを開けました。中に日記が入っていましたが、警官の関心をひかなかったため、床一面に落とされたのでした。ミープはそれを拾い上げ、大切に自分の机の中にしまっていました。アンネが再び帰って来たときに日記を返してあげようと考えていました。
ミープはその日記をオットーに手渡します。「これがあなたの娘アンネが残した遺産です。」オットーはそれを受け取るとそっと部屋に入りドアを閉じ、そして日記を読み始めました。しかし、一日に2ページ、3ページ、それぐらいしか読むことはできませんでした。日記を読み終えて、オットーは言いました。「これを読んで初めて自分の娘のことがよくわかったようだ。」そうオットーは言いました。最初オットーは、娘の日記を出版するということは全く考えていませんでした。けれどもふとアンネの夢を思い出しました。「いつか、どこかで私の書いたものが出版されるかもしれない。」アンネは作家になりたかった…オットーはその夢の願いを叶えてやろうと思うようになりました。そして今では3500万部75カ国語でこのアンネの日記は読み続けられています。

Z.アンネとホロコースト記念館
日記が出版されてから、何千人という人がこの日記を読み、オットーのもとへ行き、そしてこう聞きました。「私たちは平和のために何をすればいいでしょうか。」オットーは言いました。「どうか平和のために働く人になってください。」しかし、その何千人ものうちのほとんどの人々は結局何もせずに来ました。けれどもその中で、一人、彼の友人で行動した人がいました。それはこの福山の地にあるホロコースト記念館の大塚館長です。わたしは言葉では表現できないほどの感謝の気持ちを、大塚館長とその友人たちに対して抱いています。皆様も私と同じように、大塚館長のことをどんなにか誇りに思われることでしょう。またもしここにオットーとアンネがいたなら、何だかここにいてくれているような気がしますが、きっとアンネも大塚館長に心からのお礼の言葉を伝えることでしょう。ホロコースト記念館10周年のこの日に大塚館長と記念館を支えてこられた皆様方に心からお礼の言葉を申し上げたいと思います。ホロコースト記念館で行われている教育というものはまさに世界が必要としている教育です。
さて、大塚館長、ここできっと記念館で役立てていただけるのではないかと思い、アンネ・フランク財団から、私と妻のゲティからのプレゼントをもって来ました。
わたしはこれまで世界中であらゆる博物館というものを見てきました。
大塚館長率いるホロコースト記念館はとても小さな記念館ですが、しかしわたしはこんなにすばらしい記念館を今日まで見たことはありません。ホロコースト記念館を訪れた人は訪れる前とその展示を見た後、皆さん「人生が変わった」というような体験をしてきたことでしょう。
ここに大塚館長に贈りたいのは、オットー・フランクがアウシュビッツ収容所から解放されたその日にアウシュビッツからスイスの母親に宛てた手紙のレプリカです。

「親愛なる母へ
この手紙が無事にあなたのもとに届くことを願っています。わたしが元気でいるというニュースがあなたのもとに、愛する人々のもとに届きますように。わたしはソ連軍によって助けられ、体は大丈夫で、精神力も残っています。看病もしてもらっています。エディットと子どもたちがどこにいるのか、わたしにはわかりません。1944年9月5日に別れてそれきりです。ドイツの収容所に送られたらしいということだけしかわかりません。彼女たちの元気な姿に会えるのをあきらめずに待つしかありません。どうかオランダにいる親戚や友人たちに私が助けられたことをお伝え下さい。皆さんに早く会いたくてなりません。一日も早く会えますように。皆さんが元気でいることを心から祈っています。あなたからの便りを早く聞くことができますように。心より愛を込めて 
あなたの息子オットーより」



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