西暦2000年、介護保険の実施は
「傾国」の政策ではないのか

メディカル・クオール NO51 1999年2月号 特別編

 この制度は老人を幸せにしない 「介護者保険」以外の何者でもない

 介護保険が、いよいよ来年から実施されることが確実になってきた。一部にはまだ、議論を引き戻そうという動きもあるようだが、基本的には行政のスケジュール通り実施されるであろう。
 しかし、スケジュール通り介護保険を実施することの是非を問われれば、私は即座に「否」と答える。その理由はさまざまだが、第一には行政や一部の学者と、患者に一番近い距離にいる臨床医や医療関係者との介護保険に対する認識の違いがある。どのような認識の違いがあるのかといえば、医療現場の視点では「あれは介護保険ではなく介護者保険だ」ということになっている。要介護者に対する保険ではなく、介護をする側のマーケットに対して、その労力やサービスの費用をばらまく保険であるという見方だ。法律の本来の趣旨からすると、要介護者のための制度でなければならないのだが、家族介護に対する報酬がセットアップされていないから、結局は介護者のための制度になってしまっている。
 たとえば、アメニティや満足度といった基準のもと施設要件は設けられている。しかし、それが意味をなすのは要介護者が施設に入所したあとのことで、それ以前に本人の選択が最重要視されなければならないが、本人が当事者的意識をもっていないケースが圧倒的に多いため、そうなると家族の判断が求められることになる。
 しかし、家族介護は評価されない仕組みになっているため、家族は介護を外部の人間にまかせなければならない。この点について厚生省の高官は、時々「老人介護が辛くて自殺しようと思うことがある」といった内容の家族の談話が活字になったりするため、「家族に辛い介護を強いることはできない」というが、本当にそうなのだろうか。親と子の関係というのは、親は子を育て、子は親が老いると面倒をみるという親子の情義を積み重ねてきた。また、昔は老人の体を拭くだけでも薪から火を起こして、お湯を沸かさなければならなかったわけだが、今は瞬間湯沸かし器もあれば、家の中は冷暖房が効いている。
 これだけ簡便な住環境が整備されているわけで、そのなかで子が親の体を拭いたり、身の回りの面倒をみることは親子の情義であったり、肉親の愛情表現は家族文化の歴史である。それを全面的に否定して「ゴールドプランで施設を整備したから入って下さい」「居宅サーピスの利用料は払いますけど、現金給付はしません」では、介護者保険以外の何物でもない。いずれ介護保険のサービス給付内容が発表されたならば、介護保険市場周辺の供給体制が膨張し、それが介護保険の費用を拡張させるに違いない。

 しかし、それはおそらく老人に幸せをもたらしたりはしない。要介護の対象となる老人は現在の環境であるならば、医療制度は変化しているとはいっても、とりあえずは医師が常勤している病院に入院していられる。医療の特性である緊急性によって命は守られる。しかし、病院に入院している患者が、介護保険制度のなかで福祉や介護の対象に分類された場合、緊急性が損われ、制度の間で命を落とすことも考えられる。
 また、ケアプランというのは「命の計り売り」であるわけで、これによって医療のもう一つの特性である個別性も損われることになる。医療ならば、自分の希望やニ−ズを話さない99%の老人の内面にある気持ちを推し量ることができるが、介護保険は介護を受ける人の意見を反映せず、介護を提供する人の意見ばかりで制度が作られているため、老人はお仕着せの制度を着せられることになる。

   しかも、それでサービスの質が上がるのならばまだしも、医師の員数も、看護の質も、医療の質も落ちるのである。施設サービスでは少しばかり住環境が整備されるというが、住環境が大切なのはそれを満喫できる生活感をもっている間のことであって、介護を受けなければならないような人はアメニティのある住環境を満喫することなどできない。何よりも重要なのは、長年住み慣れた自宅にいて、妻や夫、子供や孫に囲まれて生活することであり、これは絶対的な日本の医療文化だ。それを施設を作ったからといって強引に入所させるというのは、強制収容のようなものだ。私は以前このことを、老人簡易収容所への収容と表現していたが、今回は老人医療刑務所への収容といいたい。老人の医療が刑務所的拘束のなかで、レギュレーションが強かったり、あるいはあらかじめ家族との話し合いで徘徊した場合にはベッドに手足を縛りつけてもいいとか、いろいろな同意書を取られることがあるかもしれないのである。

いよいよ、老人を生業の対象とする問題だらけの制度が見切り発車する

 これらの結果、介護保険の国民負担は増大する一方で、要介護者は医療からどんどん遠ざけられていく。今から老人の悲鳴が聞こえてくるようだ。老人介護の世界には、さわやか福祉協会の掘田力さんのように純粋に老人保健や老人介護を論じておられる方もいるが、介護保険のメカニズムではその主張のようにはならないのである。
 なぜなら、介護保険というのはいよいよ国が老人を生業の対象として位置づけ、市場メカニズムのなかに組み入れたものであるからだ。たとえば、介護サービスの分野では企業の参入、大資本の参入が論じられているが、それが経営者の信念として、生涯の哲学として参入するのならば何もいうことはないが、その大半は収益性を求めて、老人市場を見詰めて企業原理に基づいて参入してくる。
彼らは老人を商売の対象としかみないから、おいしそうな儲かりそうな老人だけを選択して収益確保を図る。一方、医療機関のほうでも急性期医療を提供する能力がないから老人医療に切り換えるとか、あるいは急性期の患者だけでは病床が満床にならないからケアミックスにして老人向けの病棟も設置しておこうとか、安直に老人に対する医療を考えている。そして、これを制度がバックアップしているわけだが、老人に対してこんなに無礼なことはない。
 そして、何よりも悲しむべきことは老人福祉の専門家といわれる人たちから行政官に至るまでが、介護保険のシステムが正しいもので、それが老人を救う政策だと錯覚していることだ。ボタンを掛け間違った政策は老人を救うどころか、効率的に老人を収容できる箱の中に彼らを追いやってしまうことは介護保険がはじまる前から十分に予測できることなのに、まったく気づいていない。

 老人保健施設、療養型病床群、特別養護老人ホーム、それから在宅支援センター、訪問看護ステーション、デイケア、ショートステイ‐まるで福祉の山盛り、ばらまき政策のようにみえるが、その原点にあるのは老人医療費の抑制であり、老人の病気は加齢的変化によるものだから治療して社会的復帰させなくてもいい、後はターミナルケアだという発想だ。結局は介護の市場を作り、ポリシーのない箱を作っただけで、誤解を恐れずにいうとその箱の中で老人は精神病院にいるのと同じような発言権を封じられた環境に置かれることになる。
 また、医療や福祉、介護の世界がマーケット・メカニズムに毒されるくらいならば、国が老人福祉事業団のようなものを作って、国が老人本位の介護を提供したほうがはるかにましというものだ。
 実は、かって在宅医療がはじまった時、素晴らしい制度だと思った。在宅補助のシステムができた時も素晴らしい制度だと思った。介護というものは、本来、介護がどこで行われているかが大切なわけで、理にかなった介護システムが生まれるかもしれないと考えたからだ。
 ところが、その後の動向をみていると新ゴールドプランで28万べッドの老人介護施設を作るなど、方向性が変わってきている。在宅介護にしても、老人がどういう生き様をしてきたのか、生き方をしてきたのかということなど考慮せず、現在発生している要介護度のレベルだけでケアの程度を決め、それもその人と一日たりとも暮らしたことのない人が周辺の情報だけでケアプランを決めるという。効率性ばかりを求めて、ケアの本質を忘れてしまっている。
 ケアというのは褥そうの清拭をしたり、表面的な身体障害の世話をするだけではなく、精神的な苦しみを理解し、その人の人生観を尊重してケアしてこそ、老人の尊厳や生きがいを大切にしているといえるのである。個別性を無視し、一貫性・統一性だけのケアを提供しても老人は決して幸せにはならない。介護保険は老人を幸せにする制度ではないのである。

 と同時に、医療保険の大改革が同時並行的に行われているが、これも医療メカニズムを破壊していく。その最たるものが、平成12年以降導入されるであろうDRG/PPSによる疾病別の定額払い制だ。
 なぜかといえば、医療の世界には「病気を診ずして病人を診ろ」という言葉があることを思い出していただきたい。医療というのは病人とのかかわりであって、「病気を治しても病人を治せなければ治療ではない」という言い方をする。ところが、DRG/PPSは疾病別に医療費用を決定するシステムで、患者の個別性への配慮はなされない。医師をして患者の「計り売り」をしろということだ。
 そして、DRG/PPSに対応するために、病院はクリティカル・パスという作業スケジュールの作り方を導入すべきだという。これまで病院が行ってきたカンフアレンスという予行演習ではコスト管理が十分にできないから、今度は作業時間を計測したり、スケジュールの管理を厳密にしたり、要するに医療の定量化を図るということだ。この手法は経営的視点からみると、間違いなく重要なものだが、その一方で医療のもっている定性という特徴を損うことになる。それは、患者へのサーピス・パフオーマンスの喪失を生むわけで、病院は患者本位の医療ではなく、行政本位の医療を行うことになる。介護保険同様、これも患者のためになるものではなく、医療の周辺産業を潤わせるだけのものにすぎない。

 同じことが20年ほど前にもあった。医療機関へのコンピュータの導入だ。当時、コンピュータ業者は「業務の省力化になる」とか「診療支援のシステムだ」などといって、医療界にコンピュータを売り込んだ。その結果どうなったかというと、事務部の職員も減らず、医師の診療も楽にはならなかった。ハードウエアだけで、ソフトがなかったからだ。
 結局、コンピユータ産業が儲けただけだ。そして、今また同じようなことが起きようとしている。なのに、医療審議会や医療福祉審議会では何の審議もされない。その理由は明白で、審議会の委員になっている財界人からみると、医療や介護は会社の福利厚生部門のようなもので費用の抑制しか頭にないからだ。
 しかし、今行われている改革は医療の地殻変動であって、単なる制度の見直しではない。特に介護保険の創出などというのは国民皆保険の登場と同じくらいの変化をもたらすものだ。国民一人ひとりの医療行動や、医療に対する認識を大きく変えるほどのものだ。
 それを国民の意見、介護を受ける側の意見も聴かず、費用抑制の発想だけで、行政の都合だけでタイムリミットを決めて、問題だらけのまま見切り発車しようとしているのである。
 まして、今の政治環境、経済環境をみれば誰でもわかることだが、これほどの改革を行うにはあまりにも状況が悪すぎる。改革を断行した結果、国が傾くという危険性さえある。机上論だけの、いかにも中央官庁らしいやり方といえばそれまでだが、現場を知らずして介護保険に突人するというのは無謀といってもいい。
 正月早々、悪夢のような原稿になり恐縮だが、私にはこれが暴論とは思えない。ただただ、これが正夢ではなく杞憂に終わることを祈るのみだ。


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