詩集『果樹園』より
【雪の上】
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幽かに雪ふりいで、
月徐(おもむ)ろにのぼる。
嵐はいづこよりかおこり、
雪のなかをはるかに……
はるかなる地平線の上を、
雪のなかの月、
粉(こ)のごとく煙のごとく、
圏をゑがきて呼吸す。
われら影のふたりの恋のなきがら、
夜のなかにいつまでもあひ倚りて、
うねりゆく雪ふる月の韻律を、
足おとつゝましくふみてゆくなり。
【喪失】
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樹立のむかうの空、
疲れた私の心へ
うすくひかる空。
鳥がひとつ
はてもなく
空のなかへ、けむりのなかへ。
私の心は、
さみしくとりつくろひながら、
そらを、鳥を、のぞみを、
いつしらず喪(うし)なつてゆく――。
【暮れゆく空へ】
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暮れのこる空のなかに
あかるくさみしく
私の心をみつめる色がある、
私の心の涙ぐみきたるを
思ひやり深くみつめてゐる色がある。
私は穏やかに歩を運びつゝ
靜かに衰へた心のなかに
熱い思のいつしらず湧くを覺える、
私はしみじみと哀しく
優しい暮れの空のなかに涙をおとす。
暮れのこる空のなかに、
たよりなく、されどはてもなく明るく遠く、
私の心をみつめる色がある。
【弱りし身】
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白き臥床(ふしど)にほしきは
優しき薔薇色の洋燈(ランプ)のみ、
暁の目覺めにほしきは
靜かなる雨のひゞきのみ。
心弱くもなりしかな。
われいつよりか女を怖れはじめき。
【夏】
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緑が雪のやうに降る……
薄色のリキウルに、
ふたりのさみしい瞳が、
逢つて、また、わかれる。
風のなかに、
冷たい指環(リング)が、
ほんのりと手の汗にくもり――
そしらぬかほで、
苺を、乳のなかで、そつとつぶす。
いつか、ふたりの「春」も死んだ。
緑が雪のやうに降るなかに、
噴水が、遠い空の希望(のぞみ)が、
ちらちらと燦(きらめ)きます。
【小さき手】
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わが両手のなかに埋めしこともありしかの小さき手よ。
白き翅のごとくピアノの上をはしりては
わが若き夢の韻律をうみたりしかの小さき手よ。
かの日の追憶は側のピアノのなかより燦(きらめ)きたり
柔らかにして靭やかなる君が手は薔薇色のなかに浮びいづる。
かの手に導かれいかに靜けくも快き旅をば続けたりけむ。
藍色の夢優しげに微風にもつれて渦巻き
わが胸はつねに甘えながらも軽らかに舞踏せり。
かの小さき手の播きゆきし種子よりぞ
わが良き心の上には好もしき花不断に散り布(し)き
わが肉体にもいろさまざまの夢の花脣(くち)をひらけり。
別れし人よ。思ひ出に堪へがたき胸の苦しさ。
あゝわれには焦心のつかれ痙攣して面輪を掠め去る。
側に立てる女の手は、逝きし日の君が手の如く
ピアノの上を滑らかに走れども、
味よく醸されしかの日の夢は、再びよみがへることなし。
雨は涼しく降り灑(そそ)ぎてうれひのみ増してゆく部屋……
側の女よ。ピアノの大なる蓋を閉ぢよ”
雨ふる庭に姿さみしく消えてゆくわが夢!
【樹木】
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夜の風に吹かれ、
掌を樹木の肌に押しあてながら、
冷たき悲しみのそがなかに波うつを聽く。
月はあり。
その光は遠くして幽かなれど、
世界はそことしもなき朧ろの銀色。
われに絶望の来ることなし、
そは わが世はいづこか朧ろにして樂しければ・・・
されどわれは夜の風のなかにありて、
掌に波うつ樹の悲しみを深く聽く。
わが心は夜の風に靡きつゝ沈みゆくなり。
【洋燈】
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賑やかなる會話をかはせる友は
夜の深きにおどろきて歸りゆけり、
あとにはわれと安らかに燃ゆる洋燈(ランプ)と。
なつかしき洋燈、
しづかなる部屋にあるは
僅かにわれと汝とのみなれば
しみじみとさみしげに
わが瞳は汝にむかへる・・・
安らかに燃ゆる洋燈に、
やがてうすき煙のごとく懐かしく心もとなく、
わが心ほのかなるしめりを帶び、
そこはかとなきため息に暮れてゆくとき、
聽け!あゝ靜かにひゞく雨の音は、
遠方の樹立を濡してきたれり。
【十一月】
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白く煌(かがや)きて煙の如く太陽は落ちんとし
公園の蘇鉄のかげもうすらさむし。
襟巻(ボア)深く頬うづめたる女よ、
われらの別るゝ時はきたれるなり。
小さく踏める靴の音のすげなさは
真白き襟巻(えりまき)にふるへては沁みてゆく、
女よ。女よ。十一月の恋のわかれ。
「憎(にくみ)」と「憐(あはれみ)」とは落葉のごとく散り布(し)き、
われらの別れを飾るべき太陽は、
ベンチも寒く薄情に落ちゆく……
冷たき指環にも汝(な)が手にも、
今ぞこゝろよき別れなれど、
煙草の煙はうすくかなしく指の間をのがる。
ベンチに散れる落葉のごとく
いざ別れなむ、襟巻の女よ。
見よ。太陽は十一月の冷たきわかれにかゞやく。【十一月】
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白く煌(かがや)きて煙の如く太陽は落ちんとし
公園の蘇鉄のかげもうすらさむし。
襟巻(ボア)深く頬うづめたる女よ、
われらの別るゝ時はきたれるなり。
小さく踏める靴の音のすげなさは
真白き襟巻(えりまき)にふるへては沁みてゆく、
女よ。女よ。十一月の恋のわかれ。
「憎(にくみ)」と「憐(あはれみ)」とは落葉のごとく散り布(し)き、
われらの別れを飾るべき太陽は、
ベンチも寒く薄情に落ちゆく……
冷たき指環にも汝(な)が手にも、
今ぞこゝろよき別れなれど、
煙草の煙はうすくかなしく指の間をのがる。
ベンチに散れる落葉のごとく
いざ別れなむ、襟巻の女よ。
見よ。太陽は十一月の冷たきわかれにかゞやく。
【虎】
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嵐が紆(うね)つて、
だんだんと色が濃くなる。
嵐のなかに、ちらと現はれた獣――
獣の黄斑(くわうはん)の皮膚の上を
渦をなして来る嵐、
嵐のなかにつきすゝむ獣
はてもなく拡がる嵐――
新らしい太陽が、
嵐のなかから、一杯の力でのぼる!
【月の粉】
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月の粉の薄い紫が、
世界の上にやはらかな渦をまく。
しめやかに地平のはてを歩みゆく獣の群
それらのおとなしき獣のすぎゆく音を、
私は心のなかできく、遠い心のなかできく。
女性の手が圓(まる)く私を抱きはじめる、
私は地球のやうにまんまるく重たく汗ばむ、
あゝ! 私の肉体にさし入つた空の光――
しかし、私の顔は そつと波うち、
そろそろと伸びあがる樹木とともに
しのびやかな横眼を使ひはじめる。
私は煙のやうに伸びあがつて
なま温い月の粉をむさぼる、
獣は 蹲(うづくま)つて固い大地をくつてゐる――
月はそつとかくれ、
遠い地平線のかげで、
青い幽霊がしんなりとよろめく。
【時】
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時の音なきながれのなかに、
ふたりは いつとはなしに よりそひしが
また いつとはなしに はなれゆきけり。
時のながれのなめらかさに、
われら傷むなく うかびゆかむのみ。
日は空にかゞやき、
小鳥のかげ しづかに 砂にうつる……
【言葉】
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われは言葉を愛す、
火の上に渦巻ける焔の言葉を、
果樹園のうへを吹く微風の言葉を、
愚かなる言葉を、賢き言葉を、
熱き言葉を、むなしき言葉を、――
げにわれは一切の言葉をば愛す。
われはかの良き仏蘭西語を愛す。
なめらかなる波をはらみて
飛沫ゆく情熱を、眞實を――
われはまたさびたる英吉利斯語を愛す、
しぶけれど賑やかなる英吉利斯語を、
はた拉丁(ラテン)語を伊太利亜語を、
熾んなる言葉、死にし言葉、
かゝる一切の形象(かたち)なき美術品をわれは愛す。
言葉はひそかに心をあざむき
心はまたひそかに言葉をあざむく、
かくもつれあふ煙のなかに
眞實と偽りとは美くしき綾織をなす、
あゝ、われはかゝる故に、
一切の良き言葉を、悪しき言葉を愛す。
言葉は把へがたなき微笑のごとく、
焔のごとく、風のごとく、
幽かなれども強く明るく、
強く明るけれど、影のごとく幽かなり。
われは言葉を愛す。
輝ける、曇れる一切の言葉を愛す。
【惡しき曙】
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遠方の地平線より
ほのく暁はくる……
疲れたる床をいづれば
汗ばみし額かなしく
影に似し雨の靡(なび)けり。
魂の疲れし上に
力なくきたる曙、
たへがたきながき恨みも
憎みにも飽きはてし身は
こゝろ憂く今ぞほろびむ。
されどわれ仄かに煙る
暁をつくづくと見て
われかつて此世に生れ
味ひし憂愁(うれひ)は胸に
いと深く根ざせしを知る。
暁は靜かなれども
白き影のひたせる
肉體のしきりに重く
うすくもる明りのなかに
心いま惡しく悩めり。
草の葉の靡けるなかに
曙は煙のごとく
纏(まつは)りてつきてはなれず
あゝ夜は明けなむとして
ほのき雨の亂るる。
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『柳澤健詩集』より
【海水浴】 ―本牧所見―
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人々簇(むらが)りて海に入り
快き午後(ひるすぎ)の水浴をたのしむ。
輝く、搖るる黄金(きん)、波を切る微風、
人々水にありて一樣に歡笑す。
桃色(ピンク)の幼兒は水の面を貝殻のごとく光り、
花のごとくましろき母の裸身にまつはる。
おゝ、母の裸身を激しくゆするは誰ぞ?
うねり來る波か、まつはる幼兒か、
かたはらの父の微笑か。――
たゞ赭くして強きもの、勇健なる年の群。
するどく波上に泛(うか)び、歡呼してまた沈む。
腕(かひな)を組みて泛べるは花の處女(おとめ)。光の處女、
き水上に、そと開きそと消(け)ぬる柔らかき百合……
かたはらを走りゆく快艇(ヨット)、おゝ、
帆のかげにありて潮風に吹かるるは、
亞麻色の髪と麥稈帽子(ストロー・ハット)、
微笑む眼(まなこ)に熱(ほて)れる唇(くち)。
このとき、ひときわ高き笑、ほがらかに輝き、
裸身の處女、いそぎ羞ひてみだす花束。
快艇は遠のき、處女そとためいきしあと見送れる、
吹けよ風、寄せよ波、冷せよ胸、處女の肉體(からだ)
火焔(ほのほ)のごとく燃えたり。
火焔のごとき處女の肉體、さゞめく微風に燃えたつ白百合。
熱きおもひ、さみしき心、やさしき愛撫。
おゝうつむく顔にしぶく波……
泳げ、泳げ、冷たき波に打たせよ肌(はだへ)、
さらせよおもひ、
海上の七月、――あらゆるもの黄金に光りて皆笑へり。
【和蘭船】
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和蘭船のゲンテル號のカピタンと
手を握つて軟かい仏蘭西語で話しかけるとき、
横濱港の春霞はいつしか重く雨となり、
海鳥の白き翼も物哀しくギヤマンの窓に映りくる。
ジヤバの土人は淡い紅茶を銀皿にのせて
カピタンと予(われ)とのまへに置き、黙々として退く。
春雨のなかを重たいスリングの音、
和蘭水夫の懸聲――カピタンは一寸耳を聳てる。
パアサーの肥つた爺さんと美しい顔の事務長と、
カピタンの部屋にぱつとした光線(ひかり)と短かい
和蘭語とを投げこむ。
「日本(ジヤポン)はこれで二度、いつも美しい」
カピタンは窓の外を見ていふ、
軟かい雨、重い雨、横濱港の午後の雨。
窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル、
山の上の風景は佛蘭西人コンシユール館の薄霞。
靜かな雨、白い海鳥、ジヤバの紅茶、
カピタン室の空氣の重さ、軟かさ。
窓の外なる横濱港の春の雨
絶えまなく、絶えまなく……
+------------+
(編集部註)
■和蘭=オランダ
■カピタン=キャプテン=船長
■ギヤマン=ガラス
■ジヤバ(Java)=ジャワ=インドネシアの中心の島
■スリング(sling)=海洋用語で、吊り鎖(英)のこと
■パアサー(purser)=客室乗務員の長
■コンシユール館=領事館
【夕景】
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遠き林、黄金(きん)色の灰に煙り、
騎士の乗れる馬は、かすかにも地平に見ゆ。
白き月のぼるとき、
楡の樹蔭に腰を下し、涙とともに笛吹けるは誰ぞ、
その肩の上、空は優しき紫粉を果てしなく雪降らすなり。
見よ、かなたの宮殿はいまし美しき焔のなかにありて、
朧ろ朧ろなる鐘の音(ね)をしきりに生みいだす。
されど、いつしか靜まれる景色のなかに、
霧は落ち、宮殿は沈み、
白き魚の姿さみしく空に泛(うか)べり。
あゝわれはいづこにさまよふべき!
音もなく降りくる雪、古里のしづかなるしづかなる鐘の音……
供者(とも)よ、銀色の小さき騎馬に鞍を置け、
われは地平に消えにし騎士あとを、いざ、急ぎ追はん!
【海景】
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水に浮んだ白いボート。
日が射した五月の海上。
白いボートのうへの薄桃色のパラソル。
パラソルのかげの眞Kな眼。眞赤な唇。
い水の燦(きらめ)きが、ちらちらあなたの顔にうつる。
何といふ美くしい色合。眩ゆさうに私を見るその瞳(め)。
ね、あの山の上の建物が、佛蘭西コンシュール館。
ぴちぴちする三色旗(トリコロール)――さあ、一つマルセエーズを歌つて御覧。
いゝ聲。しかし、發音がすこしいけない。
おや、大變な海鳥。まるで新らしい鹽(しお)のやうに眞白。
五月の海上に、あの眞白い海鳥の群を見る快さ。
あゝ、あのに映るあの雪白――、あなたの半襟よりたしかにいゝ模様。
睨んではいけない、オールを持つてゐるのは私。
兎に角この海では、私の方が強いんだから。
桟橋の大きな船は、私の好きなエム・ルシア。
おの形姿、あの色合。あの釣合、まるで壮麗な軍艦のやう。
私は、あゝした船を見ると、胸が一杯になる。
おゝ、大城郭(グラン・シャトー)! 海の幻! 巨きな彫刻!
風が止んだね。すこし温かすぎるね。あなたの小鼻にもうすい汗。
オールを握つてゐた私の手にも、そら、ずゐ分の汗。
漕がうか。兎も角も海堡まで行つて見よう。
あそこから、横濱を眺めよう。ふたりの横濱を。
なに、あなたが漕ぐ? 間違つてはいけない。
こゝは海だ。深い海だ。まあ、あなたの花車(きやしや)な腕を御覧。
そら、うつかりすると水路だ、汽船の通る路だ。
黄金色(きんいろ)が海面に眩ゆいので、私でさへも眼が迷ふ。
いゝ氣持。貴婦人のまへだが、私は上衣を脱ぎます。
微笑む太陽、さゞめく微風、それなのに、睨んでゐるあなた。
そら、まああそこを御覧。野毛山の噴水のやうに湧き立つ新緑。
あの續きの高臺には、あなたの別荘(ヴィラ)。そのむかうが私の家。
それから手まへの埠頭(ワーフ)の側には、ユニオン・ジャックの英國領事館。
そのかげが外國郵便課。それから米國領事館の星條旗に白煉瓦の三井物産。
海堡までは、もうすこしだが、手も疲れ口も疲れた。一寸オールをとゞめて――
さあ、持つて來たメロンを一つ願ひます、それともなんならあなたのbaiserを……
あつと一揺れ――高い波。
(午後の太陽は、海景一面に眩ゆき金粉を散らす)
【春の小唄】
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しなやかなあなたの頬に、
樹かげを洩れた日光が、
桃色(ピンク)の環をつくつてさゞめく。
綺麗な頬の上の桃色の斑點、
動いて止まない日光の笑ひ、
私の心は樂しい。
蝶の黄色い翅の粉が、
眩ゆい日光の笑ひに融ける、
卵いろの日光、高「ろの日光、すぐかはる朱色(ヴァミリオン)・・・
そこにあるは色の音樂
私はきゝ惚れる、まして、
あなたの頬に甘えてゐる桃色の顫音(トレモロ)を・・・
私を見てあなたは微笑む、
あなたを見て私も微笑む、
微風が通る、ふたりの顔をながめて、笑つて通る。
【続古代頌】
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たくましき両の腕(かひな)を持ちあげしは、純金の大聖盃、
いま、きらびやかなる太陽にむかひても湧き立つ薫酒を献ぐ!
肉体(からだ)をたゝいて頌歌し、
高く伸びあがりて祈る古人の群、
そが上に、燦として輝く大聖杯、
五月の焔は、はげしき息を吹きかけたり。
青に混じる金、金に混じる紫緑、
はげしき息に輝く虹、
はてしなき色の揺曳、熱き波濤のなか、
溺るゝ声か、溺るゝ手か、簇(むらが)りてそこにあり。
おゝ、突如、崩れ落つるは何物ぞや?
のしかゝる煙の波に、息もなく姿もなく、
頌歌は焦げ、祈祷はながされて、
たゞ、崩れ落つるもの、のしかゝるもの……
太陽神ぞ、黄金の洪水にのりて来たれ!
捧げたる大聖杯は、五月の風に砕け、
古人の裸群は、白き森のごとく腕を伸ばす、
溺れたるこの裸群の上を、太陽神ぞ酒を注げ!
太陽神は、かぎりなく裸群のなかに酒を注ぐ、
五月の黄金(きん)に塗(まみ)れたる酒を、よろこびを、
空は燃えたり、大地はふるへ、樹は歡語(くわんご)す、
そのなかにありて、若く美しき神太陽神は、声高く笑ひつゝ酒を流す……。
【寧樂(なら)】
▼
疲れて足をつゝましく投げ出してゐるあなた、
五月の輕い散歩のあとで、
菜の花の匂ひが、森の匂ひが、
柔らかな獣の匂ひが、薄い汗の匂ひが、
あなたの顔のネルの着物に一杯に匂うてゐる。
御覧なさい、あの夥しい牝鹿の群を、
天鵞絨(あをびろうど)のうへの玩具のやうな牝鹿を、
寧樂の五月、明るい午後(ひるさがり)、
しのびやかに動いてゐる小さな牝鹿!
私たちが今しがた歩いてきた道を
二匹づれで駆けてゐる牝鹿、
優しい獣、二匹はふと立ちどまつて、
芝生の上を緩やかに動く雲の翳(かげ)を見入つてゐる。
夢のやうに恍(ほ)けてゐる藤の花、
そのうへを噴水のやうに亂れかゝる燦びやかな若葉、
そのかなたに春日神社の鳥居が
鳩の脚のやうに朱くけむつてゐる。
あの鳥居のそばで、
きれいな蝶を見付けたのはあなた、
追ひかけるあなたの手を逃れて
かるくあなたのいネルにとまつた蝶。
あなたの微笑、逃れぬ蝶、寄りくる牝鹿、
くゞる鳥居、ふと見た嫩(わか)草山の圓い横顔、
どこからかひゞいてきた花車(きやしや)な流、
それらがみんなあの熾(さか)んなる新高フなかに!
寧樂の五月、
音もない午後
日射をさけた部屋のなかにあなたとふたりの微笑。
+------------+
(編集部註)
■寧樂(なら)=やすらかに楽しむの意味、
「安楽」と同じ。&奈良。
■花車(きやしや)=華奢とともに、風流なという意味もある。
ここでは‘どこからかひゞいてきた花車な流’と
なっているので どこかから聞こえてきた風流な歌
という意味だろう。小唄や都都逸か?
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