柳澤 健

やなぎさわけん(1889-1953)

福島県生まれ。1915年東大仏法科卒。在学中より詩作に励み、1914年、象徴派の拠点「未来」の同人となり
12月に詩集『果樹園』を刊行。のちに自己の詩の基調を「センチメンタルとあいまいな神秘主義の混淆」と
顧みる柳澤は、このころ三木露風を支持して、「黒猫」に北原白秋批判の文を掲載。続いて「文章世界」に
「輓近の詩壇を論ず」を発表して白秋を攻撃、萩原朔太郎の反論をよぶ。1918年、北村初雄・熊田精華と詩
集『海港』を刊行。1919年「詩汪」創刊。1921年新詩会を興し、1922年『柳澤健詩集』刊行。一方、大学卒
業後は外務省に入り仏大使館書記官、ポルトガル代理公使等を経験、退官後は評論家として活躍した。
                                    /「日本現代詩辞典」より


詩集『果樹園』より

【雪の上】

幽かに雪ふりいで、
月徐(おもむ)ろにのぼる。

嵐はいづこよりかおこり、
雪のなかをはるかに……

はるかなる地平線の上を、
雪のなかの月、
粉(こ)のごとく煙のごとく、
圏をゑがきて呼吸す。

われら影のふたりの恋のなきがら、
夜のなかにいつまでもあひ倚りて、
うねりゆく雪ふる月の韻律を、
足おとつゝましくふみてゆくなり。

【喪失】

樹立のむかうの空、
疲れた私の心へ
うすくひかる空。

鳥がひとつ
はてもなく
空のなかへ、けむりのなかへ。

私の心は、
さみしくとりつくろひながら、
そらを、鳥を、のぞみを、
いつしらず喪(うし)なつてゆく――。


【暮れゆく空へ】

暮れのこる空のなかに
あかるくさみしく
私の心をみつめる色がある、
私の心の涙ぐみきたるを
思ひやり深くみつめてゐる色がある。

私は穏やかに歩を運びつゝ
靜かに衰へた心のなかに
熱い思のいつしらず湧くを覺える、
私はしみじみと哀しく
優しい暮れの空のなかに涙をおとす。

暮れのこる空のなかに、
たよりなく、されどはてもなく明るく遠く、
私の心をみつめる色がある。


【弱りし身】

白き臥床(ふしど)にほしきは
優しき薔薇色の洋燈(ランプ)のみ、
暁の目覺めにほしきは
靜かなる雨のひゞきのみ。

心弱くもなりしかな。
われいつよりか女を怖れはじめき。


【夏】

緑が雪のやうに降る……
薄色のリキウルに、
ふたりのさみしい瞳が、
逢つて、また、わかれる。

風のなかに、
冷たい指環(リング)が、
ほんのりと手の汗にくもり――
そしらぬかほで、
苺を、乳のなかで、そつとつぶす。

いつか、ふたりの「春」も死んだ。

緑が雪のやうに降るなかに、
噴水が、遠い空の希望(のぞみ)が、
ちらちらと燦(きらめ)きます。


【小さき手】

わが両手のなかに埋めしこともありしかの小さき手よ。
白き翅のごとくピアノの上をはしりては
わが若き夢の韻律をうみたりしかの小さき手よ。

かの日の追憶は側のピアノのなかより燦(きらめ)きたり
柔らかにして靭やかなる君が手は薔薇色のなかに浮びいづる。

かの手に導かれいかに靜けくも快き旅をば続けたりけむ。
藍色の夢優しげに微風にもつれて渦巻き
わが胸はつねに甘えながらも軽らかに舞踏せり。

かの小さき手の播きゆきし種子よりぞ
わが良き心の上には好もしき花不断に散り布(し)き
わが肉体にもいろさまざまの夢の花脣(くち)をひらけり。

別れし人よ。思ひ出に堪へがたき胸の苦しさ。
あゝわれには焦心のつかれ痙攣して面輪を掠め去る。

側に立てる女の手は、逝きし日の君が手の如く
ピアノの上を滑らかに走れども、
味よく醸されしかの日の夢は、再びよみがへることなし。

雨は涼しく降り灑(そそ)ぎてうれひのみ増してゆく部屋……
側の女よ。ピアノの大なる蓋を閉ぢよ”
雨ふる庭に姿さみしく消えてゆくわが夢!


【樹木】

夜の風に吹かれ、
掌を樹木の肌に押しあてながら、
冷たき悲しみのそがなかに波うつを聽く。

月はあり。
その光は遠くして幽かなれど、
世界はそことしもなき朧ろの銀色。

われに絶望の来ることなし、
そは わが世はいづこか朧ろにして樂しければ・・・
されどわれは夜の風のなかにありて、
掌に波うつ樹の悲しみを深く聽く。

わが心は夜の風に靡きつゝ沈みゆくなり。


【洋燈】

賑やかなる會話をかはせる友は
夜の深きにおどろきて歸りゆけり、
あとにはわれと安らかに燃ゆる洋燈(ランプ)と。

なつかしき洋燈、
しづかなる部屋にあるは
僅かにわれと汝とのみなれば
しみじみとさみしげに
わが瞳は汝にむかへる・・・

安らかに燃ゆる洋燈に、
やがてうすき煙のごとく懐かしく心もとなく、
わが心ほのかなるしめりを帶び、
そこはかとなきため息に暮れてゆくとき、
聽け!あゝ靜かにひゞく雨の音は、
遠方の樹立を濡してきたれり。


【十一月】

白く煌(かがや)きて煙の如く太陽は落ちんとし
公園の蘇鉄のかげもうすらさむし。
襟巻(ボア)深く頬うづめたる女よ、
われらの別るゝ時はきたれるなり。

小さく踏める靴の音のすげなさは
真白き襟巻(えりまき)にふるへては沁みてゆく、
女よ。女よ。十一月の恋のわかれ。

「憎(にくみ)」と「憐(あはれみ)」とは落葉のごとく散り布(し)き、
われらの別れを飾るべき太陽は、
ベンチも寒く薄情に落ちゆく……

冷たき指環にも汝(な)が手にも、
今ぞこゝろよき別れなれど、
煙草の煙はうすくかなしく指の間をのがる。

ベンチに散れる落葉のごとく
いざ別れなむ、襟巻の女よ。
見よ。太陽は十一月の冷たきわかれにかゞやく。【十一月】

白く煌(かがや)きて煙の如く太陽は落ちんとし
公園の蘇鉄のかげもうすらさむし。
襟巻(ボア)深く頬うづめたる女よ、
われらの別るゝ時はきたれるなり。

小さく踏める靴の音のすげなさは
真白き襟巻(えりまき)にふるへては沁みてゆく、
女よ。女よ。十一月の恋のわかれ。

「憎(にくみ)」と「憐(あはれみ)」とは落葉のごとく散り布(し)き、
われらの別れを飾るべき太陽は、
ベンチも寒く薄情に落ちゆく……

冷たき指環にも汝(な)が手にも、
今ぞこゝろよき別れなれど、
煙草の煙はうすくかなしく指の間をのがる。

ベンチに散れる落葉のごとく
いざ別れなむ、襟巻の女よ。
見よ。太陽は十一月の冷たきわかれにかゞやく。


【虎】

嵐が紆(うね)つて、
だんだんと色が濃くなる。

嵐のなかに、ちらと現はれた獣――

獣の黄斑(くわうはん)の皮膚の上を
渦をなして来る嵐、
嵐のなかにつきすゝむ獣
はてもなく拡がる嵐――

新らしい太陽が、
嵐のなかから、一杯の力でのぼる!


月の粉

月の粉の薄い紫が、
世界の上にやはらかな渦をまく。

しめやかに地平のはてを歩みゆく獣の群
それらのおとなしき獣のすぎゆく音を、
私は心のなかできく、遠い心のなかできく。

女性の手が圓(まる)く私を抱きはじめる、
私は地球のやうにまんまるく重たく汗ばむ、
あゝ! 私の肉体にさし入つた空の光――

しかし、私の顔は そつと波うち、
そろそろと伸びあがる樹木とともに
しのびやかな横眼を使ひはじめる。

私は煙のやうに伸びあがつて
なま温い月の粉をむさぼる、
獣は 蹲(うづくま)つて固い大地をくつてゐる――

月はそつとかくれ、
遠い地平線のかげで、
青い幽霊がしんなりとよろめく。


【時】

時の音なきながれのなかに、
ふたりは いつとはなしに よりそひしが
また いつとはなしに はなれゆきけり。

時のながれのなめらかさに、
われら傷むなく うかびゆかむのみ。

日は空にかゞやき、
小鳥のかげ しづかに 砂にうつる……


言葉

われは言葉を愛す、
火の上に渦巻ける焔の言葉を、
果樹園のうへを吹く微風の言葉を、
愚かなる言葉を、賢き言葉を、
熱き言葉を、むなしき言葉を、――
げにわれは一切の言葉をば愛す。

われはかの良き仏蘭西語を愛す。
なめらかなる波をはらみて
飛沫ゆく情熱を、眞實を――

われはまたさびたる英吉利斯語を愛す、
しぶけれど賑やかなる英吉利斯語を、
はた拉丁(ラテン)語を伊太利亜語を、
熾んなる言葉、死にし言葉、
かゝる一切の形象(かたち)なき美術品をわれは愛す。

言葉はひそかに心をあざむき
心はまたひそかに言葉をあざむく、
かくもつれあふ煙のなかに
眞實と偽りとは美くしき綾織をなす、
あゝ、われはかゝる故に、
一切の良き言葉を、悪しき言葉を愛す。

言葉は把へがたなき微笑のごとく、
焔のごとく、風のごとく、
幽かなれども強く明るく、
強く明るけれど、影のごとく幽かなり。

われは言葉を愛す。
輝ける、曇れる一切の言葉を愛す。


【惡しき曙】

遠方の地平線より
ほのく暁はくる……
疲れたる床をいづれば
汗ばみし額かなしく
影に似し雨の靡(なび)けり。

魂の疲れし上に
力なくきたる曙、
たへがたきながき恨みも
憎みにも飽きはてし身は
こゝろ憂く今ぞほろびむ。

されどわれ仄かに煙る
暁をつくづくと見て
われかつて此世に生れ
味ひし憂愁(うれひ)は胸に
いと深く根ざせしを知る。

暁は靜かなれども
白き影のひたせる
肉體のしきりに重く
うすくもる明りのなかに
心いま惡しく悩めり。

草の葉の靡けるなかに
曙は煙のごとく
纏(まつは)りてつきてはなれず
あゝ夜は明けなむとして
ほのき雨の亂るる。

  『柳澤健詩集』より

【海水浴】 ―本牧所見―

人々簇(むらが)りて海に入り
快き午後(ひるすぎ)の水浴をたのしむ。

輝く、搖るる黄金(きん)、波を切る微風、
人々水にありて一樣に歡笑す。

桃色(ピンク)の幼兒は水の面を貝殻のごとく光り、
花のごとくましろき母の裸身にまつはる。

おゝ、母の裸身を激しくゆするは誰ぞ?
うねり來る波か、まつはる幼兒か、
 かたはらの父の微笑か。――

たゞ赭くして強きもの、勇健なる年の群。
するどく波上に泛(うか)び、歡呼してまた沈む。

腕(かひな)を組みて泛べるは花の處女(おとめ)。光の處女、
き水上に、そと開きそと消(け)ぬる柔らかき百合……

かたはらを走りゆく快艇(ヨット)、おゝ、
 帆のかげにありて潮風に吹かるるは、
亞麻色の髪と麥稈帽子(ストロー・ハット)、
 微笑む眼(まなこ)に熱(ほて)れる唇(くち)。

このとき、ひときわ高き笑、ほがらかに輝き、
裸身の處女、いそぎ羞ひてみだす花束。

快艇は遠のき、處女そとためいきしあと見送れる、
吹けよ風、寄せよ波、冷せよ胸、處女の肉體(からだ)
 火焔(ほのほ)のごとく燃えたり。

火焔のごとき處女の肉體、さゞめく微風に燃えたつ白百合。
熱きおもひ、さみしき心、やさしき愛撫。
おゝうつむく顔にしぶく波……
泳げ、泳げ、冷たき波に打たせよ肌(はだへ)、
 さらせよおもひ、
海上の七月、――あらゆるもの黄金に光りて皆笑へり。

【和蘭船】

和蘭船のゲンテル號のカピタンと
手を握つて軟かい仏蘭西語で話しかけるとき、

横濱港の春霞はいつしか重く雨となり、
海鳥の白き翼も物哀しくギヤマンの窓に映りくる。

ジヤバの土人は淡い紅茶を銀皿にのせて
カピタンと予(われ)とのまへに置き、黙々として退く。

春雨のなかを重たいスリングの音、
和蘭水夫の懸聲――カピタンは一寸耳を聳てる。

パアサーの肥つた爺さんと美しい顔の事務長と、
カピタンの部屋にぱつとした光線(ひかり)と短かい
 和蘭語とを投げこむ。

「日本(ジヤポン)はこれで二度、いつも美しい」
 カピタンは窓の外を見ていふ、
軟かい雨、重い雨、横濱港の午後の雨。

窓から覗けば、赤い建物は
グランドホテル
山の上の風景は
佛蘭西人コンシユール館の薄霞。

靜かな雨、白い海鳥、ジヤバの紅茶、
カピタン室の空氣の重さ、軟かさ。

窓の外なる横濱港の春の雨
絶えまなく、絶えまなく……

+------------+
(編集部註)
 ■和蘭=オランダ
 ■カピタン=キャプテン=船長
 ■ギヤマン=ガラス
 ■ジヤバ(Java)=ジャワ=インドネシアの中心の島
 ■スリング(
sling)=海洋用語で、吊り鎖(英)のこと
 ■パアサー(purser)=客室乗務員の長
 ■コンシユール館=領事館


【夕景】

遠き林、黄金(きん)色の灰に煙り、
騎士の乗れる馬は、かすかにも地平に見ゆ。

白き月のぼるとき、
楡の樹蔭に腰を下し、涙とともに笛吹けるは誰ぞ、
その肩の上、空は優しき紫粉を果てしなく雪降らすなり。

見よ、かなたの宮殿はいまし美しき焔のなかにありて、
朧ろ朧ろなる鐘の音(ね)をしきりに生みいだす。

されど、いつしか靜まれる景色のなかに、
 霧は落ち、宮殿は沈み、
白き魚の姿さみしく空に泛(うか)べり。

あゝわれはいづこにさまよふべき!
音もなく降りくる雪、古里のしづかなるしづかなる鐘の音……

供者(とも)よ、銀色の小さき騎馬に鞍を置け、
われは地平に消えにし騎士あとを、いざ、急ぎ追はん!


【海景】

水に浮んだ白いボート。
日が射した五月の海上。

白いボートのうへの薄桃色のパラソル。
パラソルのかげの眞Kな眼。眞赤な唇。

い水の燦(きらめ)きが、ちらちらあなたの顔にうつる。
何といふ美くしい色合。眩ゆさうに私を見るその瞳(め)。

ね、あの山の上の建物が、
佛蘭西コンシュール館
ぴちぴちする三色旗(トリコロール)――さあ、一つマルセエーズを歌つて御覧。

いゝ聲。しかし、發音がすこしいけない。
おや、大變な海鳥。まるで新らしい鹽(しお)のやうに眞白。

五月の海上に、あの眞白い海鳥の群を見る快さ。
あゝ、あのに映るあの雪白――、あなたの半襟よりたしかにいゝ模様。

睨んではいけない、オールを持つてゐるのは私。
兎に角この海では、私の方が強いんだから。

桟橋の大きな船は、私の好きなエム・ルシア。
おの形姿、あの色合。あの釣合、まるで壮麗な軍艦のやう。

私は、あゝした船を見ると、胸が一杯になる。
おゝ、大城郭(グラン・シャトー)! 海の幻! 巨きな彫刻!

風が止んだね。すこし温かすぎるね。あなたの小鼻にもうすい汗。
オールを握つてゐた私の手にも、そら、ずゐ分の汗。

漕がうか。兎も角も海堡まで行つて見よう。
あそこから、横濱を眺めよう。
ふたりの横濱を。

なに、あなたが漕ぐ? 間違つてはいけない。
こゝは海だ。深い海だ。まあ、あなたの花車(きやしや)な腕を御覧。

そら、うつかりすると水路だ、汽船の通る路だ。
黄金色(きんいろ)が海面に眩ゆいので、私でさへも眼が迷ふ。

いゝ氣持。貴婦人のまへだが、私は上衣を脱ぎます。
微笑む太陽、さゞめく微風、それなのに、睨んでゐるあなた。

そら、まああそこを御覧。野毛山の噴水のやうに湧き立つ新緑。
あの續きの高臺には、あなたの別荘(ヴィラ)。そのむかうが私の家。

それから手まへの埠頭(ワーフ)の側には、ユニオン・ジャックの英國領事館。
そのかげが外國郵便課。それから米國領事館の星條旗に白煉瓦の三井物産。

海堡までは、もうすこしだが、手も疲れ口も疲れた。一寸オールをとゞめて――
 さあ、持つて來たメロンを一つ願ひます、それともなんならあなたの
baiserを……

あつと一揺れ――高い波。

 (午後の太陽は、海景一面に眩ゆき金粉を散らす)


【春の小唄】

しなやかなあなたの頬に、
樹かげを洩れた日光が、
桃色(ピンク)の環をつくつてさゞめく。

綺麗な頬の上の桃色の斑點、
動いて止まない日光の笑ひ、
私の心は樂しい。

蝶の黄色い翅の粉が、
眩ゆい日光の笑ひに融ける、
卵いろの日光、高「ろの日光、すぐかはる朱色(
ヴァミリオン)・・・

そこにあるは色の音樂
私はきゝ惚れる、まして、
あなたの頬に甘えてゐる桃色の顫音(トレモロ)を・・・

私を見てあなたは微笑む、
あなたを見て私も微笑む、
微風が通る、ふたりの顔をながめて、笑つて通る。


【続古代頌】

たくましき両の腕(かひな)を持ちあげしは、純金の大聖盃、
いま、きらびやかなる太陽にむかひても湧き立つ薫酒を献ぐ!
肉体(からだ)をたゝいて頌歌し、
高く伸びあがりて祈る古人の群、
そが上に、燦として輝く大聖杯、
五月の焔は、はげしき息を吹きかけたり。

青に混じる金、金に混じる紫緑、
はげしき息に輝く虹、
はてしなき色の揺曳、熱き波濤のなか、
溺るゝ声か、溺るゝ手か、簇(むらが)りてそこにあり。
おゝ、突如、崩れ落つるは何物ぞや?
のしかゝる煙の波に、息もなく姿もなく、

頌歌は焦げ、祈祷はながされて、
たゞ、崩れ落つるもの、のしかゝるもの……

太陽神ぞ、黄金の洪水にのりて来たれ!
捧げたる大聖杯は、五月の風に砕け、
古人の裸群は、白き森のごとく腕を伸ばす、
溺れたるこの裸群の上を、太陽神ぞ酒を注げ!
太陽神は、かぎりなく裸群のなかに酒を注ぐ、
五月の黄金(きん)に塗(まみ)れたる酒を、よろこびを、
空は燃えたり、大地はふるへ、樹は歡語(くわんご)す、
そのなかにありて、若く美しき神太陽神は、声高く笑ひつゝ酒を流す……。


【寧樂(なら)】

疲れて足をつゝましく投げ出してゐるあなた、
五月の輕い散歩のあとで、
菜の花の匂ひが、森の匂ひが、
柔らかな獣の匂ひが、薄い汗の匂ひが、
あなたの顔のネルの着物に一杯に匂うてゐる。

御覧なさい、あの夥しい牝鹿の群を、
天鵞絨(あをびろうど)のうへの玩具のやうな牝鹿を、
寧樂の五月、明るい午後(ひるさがり)、
しのびやかに動いてゐる小さな牝鹿!

私たちが今しがた歩いてきた道を
二匹づれで駆けてゐる牝鹿、
優しい獣、二匹はふと立ちどまつて、
芝生の上を緩やかに動く雲の翳(かげ)を見入つてゐる。

夢のやうに恍(ほ)けてゐる藤の花、
そのうへを噴水のやうに亂れかゝる燦びやかな若葉、
そのかなたに春日神社の鳥居が
鳩の脚のやうに朱くけむつてゐる。

あの鳥居のそばで、
きれいな蝶を見付けたのはあなた、
追ひかけるあなたの手を逃れて
かるくあなたのいネルにとまつた蝶。

あなたの微笑、逃れぬ蝶、寄りくる牝鹿、
くゞる鳥居、ふと見た嫩(わか)草山の圓い横顔、
どこからかひゞいてきた花車(きやしや)な流、
それらがみんなあの熾(さか)んなる新高フなかに!

寧樂の五月、
音もない午後
日射をさけた部屋のなかにあなたとふたりの微笑。

+------------+
(編集部註)
 ■寧樂(なら)=やすらかに楽しむの意味、
   「安楽」と同じ。&奈良。
 ■花車(きやしや)=華奢とともに、風流なという意味もある。
  ここでは‘どこからかひゞいてきた花車な流’と
  なっているので  どこかから聞こえてきた風流な歌 
  という意味だろう。小唄や都都逸か?