上田 敏
◆
うえだびん(1874-1916)
◆
| 東京築地生まれ。祖父は福沢諭吉らと渡欧。父も渋沢栄一らと渡欧。叔母は1871年に渡米したわが国初の女 子留学生のひとり。1897年東大英文科卒業後、大学院で小泉八雲の指導を受けた。1905年夏目漱石らと共に 東大講師となる。1909年から1年間、欧米諸国を歴遊の後 1907年京大教授となる。1892年18歳の時、バイロ ンの訳詩を発表したのをはじめ、翌年にはゴーゴリの翻訳を発表するなど頭角をあらわす一方、平田禿木を 通じて「文学界」同人に親しみ有力な執筆者となった。東大入学後は「帝国文学」の発起人となり、ヴェル レーヌをいち早くわが国に伝えた。が、上田敏自身の創作詩は少なく独創的というようなものはみられない。 /「日本現代詩辞典」より |
<上田敏 自作詩>
| 【牧羊神】 ▼ 阜の上の森陰に直立ちて 牧羊の神パアン笙を吹く。 昼さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。 天青し、雲白し、野山影短き 音無の世に、ただ笙の声、 ちよう、りよう、ふりよう、 ひうやりやに、ひやるろ、 あら、よい、ふりよう、るり、 ひよう、ふりよう、 蘆笛の管の簧、 震ひ響きていづる音に、 神も昔をおもふらむ。 髯そそげたる相好は、 翁さびたる咲まひがほ、 角さへみゆる額髪、 髪はららぎて、さばらかに、 風雅の心浮べたる ――耳も山羊、脚も山羊―― 半獣の姿ぞなつかしき。 音の程らひの揺曳に、 憧れごこち、夢に入るを きけば昔の恋がたり、 「細谷川」の丸木橋、 ふみかへしては、かへしては、 あの山みるにおもひだす、 わかき心のはやりぎに 森の女神のシュリンクス 追ひしその日の雄誥を。 岩の峡間の白樫の 枝かきわけてラウラ木や ミュルトスの森すぎゆけば、 木蔦の蔓に絡まるる 山葡萄こそうるさけれ。 去年の落栗毬栗は 蹄の割に挟まれど、 君を思へば正体無しや、 岩角、木株、細流を 踏みしめ、飛びこえ、徒わたり、 雲の御髪や、白妙の 肌理こまやかの肉置の 肩を抱めむと喘ぎゆく。 やがてぞ谷は極まりて。 蔦尾草の濃紫 にほひすみれのしぼ鹿子、 春山祇の来て遊ぶ 泉のもとにつきぬれば 胸もとどろに、かの君を 今こそ終に得てしかと 思ふ心のそらだのめ。 浅沢水の中島に 仆れてつかむ蘆の根よ。 あまりに物のはかなさに、 空手をしめて、よよと泣く 吐息ためいきとめあへず、 愁ひ嘯くをりしもあれ、 ふしぎや、音のしみじみと、 うつろ蘆茎鳴りいでぬ、 蘆響き鳴りいでぬ。 さては抱けるこの草は 君の心のやどり草 恋は草、草は恋。 せめてはこれぞわが物と 笙にしつらひ、年来の つもる思を口うつし 移して吹けば片岡に 夫呼ぶ雉子の雌鳥も、 胡桃に耽ける友鳥も、 原ににれがむ黄牛も、 牧に嘶く黒駒も、 埒にむれゐる小羊も、 聞惚れ見惚れ、あこがれて、 蝉の連節のどやかに、 蜥蜴も石に眠るなる 世は寂寥の真昼時、 蘆に変りしわが恋と おのれも、いつか、ひとつなる うつら心や、のんやほ、のんやほ、 常春藤のいつまでも うれし愁にまぎれむと、 けふも日影の長閑さに、 心をこめて吹き吹けば、 つもる思も口うつし、 ああ蘆の笛、蘆の笙の笛。」 日はややに傾きて、遠里に 靄はたち、中空の温もりに、 草の香のいや高き片岡、 夢薫り、現は匂ふ今、 眠眼の牧羊神、笙を吹きやみぬ。 森陰に音もなし、 村雨ははららほろ、 山梨の枝にかかれば、 けんけんほろろうつ 雉子の鳴く音に覚まされて、 磐床いづる牧羊の神パアン、 胸毛の露をはらひつつ 延欠して仰ぎ見れば、 有無雲の中空を ひとり寂しく鸛の鳥、 遠の柴山かけて飛ぶ。 かへりみすれば、川添の 根白柳を濡燕、 掠め飛び交ふ雨あがり、 今、夕影のしるけきに、 生のこの世の忙しさよ、 地には蟻のいとなみを、 空には蜂の分封を つくづく見れば、宿命の かたき掟ぞいちじるき。 水の面に映りたる おのが姿に恋じにの 玉玲瓏の水仙花、 花は散りてし葉の上を、 蟻は斜に、ましぐらに ――なに営のすさびなる―― 生の力に駆られたり、 またある時は糧運ぶ いそしき業のもなかにも。 蟻塚近き砂の上、 二疋の蟻の足とめて、 なに語りあふ、たゆたへる 遇ふさ離るさのみち惑、 虫の世界のまつりごと、 健気にも、はた傷ましや。 空は今何の反橋ぞ、 天馳使わたらすか、 東の山に虹かかり、 更に黄金の一帯の 霓わたせるけしきにて、 鹿とり靡く弓雄が 鳴鏑射放つ音たてて、 蜂の巣立の子別に 父蜂さそふ細工蜂、 七歩ばかりの後より、 やや高く飛ぶ女王蜂、 たとへば修羅の巷にて、 乱飛、乱廻、虎走、 勇猛たぐひ無き兵も、 パアンふと脅しぬれば 人崩つきて、人馬落ちかさなり、 惑ひ、ふためき走るごと、 大騒乱のわたましや、 生の力の仕業なる。 遥に山のあなたには、 人の築きし城のうち、 国富み栄え、民繁き 都はあれど、ものみなは かたみにつらき犠牲の 鬮のさだめを免れあへず、 青人草の細工蜂、 黄泉の坂路のさがしきに、 とはに磐石押し上ぐる シシュフォス王の姿かな。 種とり蜂のふところ手、 夢の浮世のぬめり男の しやらり、しやらりとしたる身も、 子別過ぎし初秋の 朝の命を知らざるや、 イクシオオンのたえまなく 車輪に廻るあはれさよ それにひきかへ王蜂の 満ち足らひたる幸は こよなき物と見えながら ウラノスはクロノスに、クロノスは 其子ジウスに滅され、 ジウスの代さへ危きを プロメエチウスは知るといふ 流転の世こそ悲しけれ。 噫勢力の強くとも 命の掟になに克たむ。 理を知る心深ければ 悲さらに深まさる。 慰はたゞこの笙の笛、 牧羊神の笛の音に、 世の秘事ぞかくれたる。 名に負ふパアン吹く笛の音に、 この天地のものみなは、 挙りて群れゐふくまれて、 身も世も忘れ、処、時の 弁別も無き酔心地、 夢見る心地誘ふなる 不思議の笙の笛の声、 悠やかに、朗かに、あんら、緩やかに、 森の泉に来て歎く 谺姫さへほゝゑませ、 谷の八十隈吹き靡け、 人里遠く伝はれば、 牧人杖を擲ちて、 羊踊りをひとをどり、 生の悦みちわたる 面にしばし夕づく日、 耀ふみれば宿命の 覊絆はいつか解かれたり。 をちこち山の影長く、 夕の空の艶なるに なほも笛吹く牧羊神。 雲の湊の漁火か、 ちろり、ちろりと、長庚は 朝が散らせるよき物を、 羊を、山羊を集むるか、 母の乳房に髫髪児を 呼びかへすなるひとつ星 あゝ二つ星、三つ星と 数添ふ空の縹色、 深まさり行く夕まぐれ、 羊の鈴の音も絶えて、 いづこの野辺の花垣か、 燕の妹、雉子の叔母、 舌を絶たれし弟姫の あの容鳥の歌の声、 間無く繁鳴く恨さへ、 和らぎたりや、この夕。 こゝにパアンも今はとて、 さらばの音取、末長く、 「さらば明日参らう。 うえうちり、たちえろ」 白樺木立わけ入れば 東の阜に月はのぼりぬ。 【汽車に乗りて】 【ちやるめら】 ――『牧羊神』より―― 【蹈繪】 ――『牧羊神』より―― +---------+ 【さかほがひ】 ――『牧羊神』より―― +---------+ 【愁のむろ】 |