島崎藤村

しまざきとうそん(1872-1943)

筑摩県第八大区五小区馬籠村(現長野県木曽郡山口村馬籠。2005年の合併後、岐阜県中津川市馬籠)生まれ。本名春樹。
1881年上京。91年明治学院を卒業。同校在学中にキリスト教の洗礼をうけた。1893年には、北村透谷らによる「文学
界」の創刊に参加。当初は、劇詩を書いたが、やがて明治時代の代表的浪漫詩集「若菜集」を刊行、新体詩人として
の名声を高めた。以後、「一葉舟(ひとはぶね)」、「夏草」、「落梅集」の詩集を世におくりだした。1899年に教師
として信州の小諸義塾に赴任した頃から散文を志すようになり、のちに「千曲川のスケッチ」としてまとめられる写
生文を書いている。同時に小説執筆にもとりかかり、被差別部落出身の主人公、瀬川丑松(うしまつ)の苦悩と告白を
えがいた「破戒」を自費出版し、最初の本格的な自然主義の小説として激賞され、作家としての地位を確立した。そ
の後自伝的な小説「春」「嵐」などを発表。また、幕末維新期の歴史と木曽の自然を背景にしながら、父正樹をモデ
ルにした大作「夜明け前」を完成させた。さらに「東方の門」の連載をはじめるが、未完のまま脳溢血で死去した。
                                        /「
つれづれの文車」より

『落梅集』より……1901年刊行第4詩集。藤村最後の詩集

【小諸なる古城のほとり】

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色はづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れゆけば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざようふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

【黄昏】

つと立ちよれば垣根には
露草の花さきにけり
さまよひくれば夕雲や
これぞこひしき門辺なる

瓦の屋根に烏啼き
烏帰りて日は暮れぬ
おとづれもせず去(い)にもせで
蛍と共にこゝをあちこち


【拷A】

枝うちかはす梅と梅
梅の葉かげにそのむかし
鶏は鶏とし並び食ひ
われは君とし遊びてき

空風吹けば雲離れ
別れいざよふ西東
青葉は枝に契るとも
緑は長くとゞまらじ

水去り帰る手をのべて
誰れか流れをとゞむべき
行くにまかせよ嗚呼さらば
また相見んと願ひしか

遠く別れてかぞふれば
かさねて長き秋の夢
願ひはあれど陶磁(すゑもの)の
くだけて時を傷みけり

わが髪長く生ひいでゝ
額の汗を覆ふとも
甲斐なく珠(たま)を抱きては
罪多かりし草枕

雲に浮びて立ちかへり
都の夏にきて見れば
むかしながらのみどり葉は
蔭いや深くなれるかな

わかれを思ひ逢瀬をば
君とし今やかたらふに
二人すわりし青草は
熱き涙にぬれにけり


【罪】

罪なれば、物のあはれを
こゝろなき身にも知るなり
罪なれば酒をふくみて
夢に酔(ゑ)ひ夢に泣くなり

罪なれば親をも捨てゝ
世の鞭(むち)を忍び負ふなり
罪なれば宿を逐(お)はれて
花園に別れ行くなり

罪なれば刃に伏して
赤き血に流れ去るなり
罪なれば手に手をとりて
死の門(かど)にかけり入るなり

罪なれば滅び砕けて
常闇の地獄のなやみ
嗚呼二人抱きこがれつ
恋の火にもゆるたましひ


【胸より胸に】

其五 吾胸の底のこゝろには

吾胸の底のこゝには
言ひがたき秘密住めり
身をあげて活ける牲とは
君ならで誰かしらまし
 
もしやわれ鳥にありせは
君の住む窓に飛びかひ
羽を振りて昼は終日
深き音に鳴かましものを
 
もしやわれ梭にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を
その糸に織らましものを
 
もしやわれ草にありせば
野辺に萌え君に踏まれて
かつ靡きかつは微笑み
その足に触れましものを
 
わがなげき衾に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
 
口唇に言葉ありとも
このこゝろ何か写さん
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ伝ふべきなれ


【椰子の実】

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月

旧(もと)の樹は生いや茂れる
枝はなお影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂

海の日の沈むを見れば
滾(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々
いづれの日にか国に帰らん


【千曲川旅情のうた】

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日のみを思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を静かに思へ
百年(ももとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁を繋ぐ