◆第一集 詩
【秋の悲歎】
▼
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄
は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あ
れらのこんもりした貧婪な樹々さへも闇を
招いてはゐない。
私はただ微かに煙を擧げる私のパイプに
よつてのみ生きる。あのほつそりした白陶
土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻
をも惜しみはしない。今はあの銅色(あか
がねいろ)の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光澤
のない非道な存在をも赦さう。オールドロ
ーズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に
沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要り
はしない。風よ、街上に光るある白痰を掻
き亂してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都會を夢みはしない
――土瀝青(チャン)色の疲れた空に炊煙
の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸
を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐ
らゐは食へただらうか、それも知らない。
黒猫と共に残る残虐が常に私の習ひであつ
た・・・・・・
夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友
である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞
を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を、
私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女
の髪の中に挿し入つた私の指は昔私の心の
支へであつた。あの全能の暗黒の粘状體に
觸れることがない。私たちは煙になつてし
まつたのだらうか? 私はあまりに硬い、
あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?
繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みか
ら生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジ
オ・ノミー)をさへ點檢しないで済む怖ろ
しい怠惰が、今私には許されてある。今は
降り行くべき時だ――金屬や蜘蛛の巣や瞳
孔の榮える、あらゆる悲惨の市にまで。私
には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝
生の堅い斜面に身を委せよう。それといつ
も變らぬ角度を保つ錫箔のやうな池の水面
を愛しよう・・・・・・
私は私自身を救助しよう。
1924.10
+------------+
(編集部註)
■土瀝青(チャン)=どれきせい=アスファルト
チャンは中国語の青のこと
■性相(フイジオ・ノミー)=万物の真実の本性
本体である性と、現象として現れる姿である相。存在の二面。
【焦燥】
▼
母親は煎薬を煎じに行つた
枯れた葦の葉が短いので。
ひかりが掛布の皺を打つたとき
寢臺はあまりに金の唸きであつた
寢臺は
いきれたつ犬の巣箱の罪をのり超え
大空の堅い眼の下に
幅びろの青葉をあつめ
棄てられた藁の熱を吸ひ
たちのぼる巷の中に
青ぐろい額の上に
むらがる蝿のうなりの中に
寢臺はのど渇き
求めたのに求めたのに
枯れた葦の葉が短いので
母親は煎薬を煎じに行つた。
推定1925.3
+------------+
(編集部註)
■寢臺=旧字=寝台
【遺産分配書】
▼
わが女王へ。決して穢れなかつた私の魂よりも、
更に清浄な私の両眼の眞珠を、おんみの不思議な
夜宴の觴(さかづき)に投げ入れられようために。
善意ある港の朝の微風へ。昨夜の酒に濡れた
柔かい私の髪を。――蝋燭を消せば、海の旗、陸の旗。
人間は悩まないやうに造られてある。
わが友M***へ。君がしばしば快く客となつてくれた
私のSabbat洞穴の記念に、1本の蜥蜴の脚を、すなはち
蠢めく私の小指を。――君の安らかならんことを。
今日もまた、陽は倦怠の頂點を燃やす。
シエヘラザードへ。鳥肌よりもみじめな一夜分の私の歴史を。
S港の足蹇(あしなへ)へ、私の両脚を。君の両腕を
断つて、肩からこれを生やしたまへ。私の血は想像し
得られる限り不純だから、もしそれが新月の夜ならば、
君は壁を攀(よ)ぢて天に昇ることが出来る。
***嬢へ。私の悲しみを。
賣笑婦T***へ。おまへがどれほど笑ひを愛する被造
物であるかを確かめるために、両乳房(ちち)の間に
蠍のやうな接吻を。
巖頭に立つて黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢を。
――紫の雨、螢光する泥の大陸。――ギオロンは、
夜鳥の夢に花を咲かす。
母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。
幼年時を被ふかずかずの抱擁(だきしめ)の、沁み入る
やうな記憶と共に。
泡立つ春へ。Pang! Pang!
推定1925.4
+------------+
(編集部註)
■Sabbat=安息日
■ギオロン=バイオリン
■Pang=苦痛、激痛、心痛、激情
◆第二集 詩(習作時代)
【夜の讃歌】
▼
地は定形なく曠空しくして黒闇淵の面にあり
神の靈水の面を覆ひたりき ―― 創世記(01:02)
暗闇(やみ)の潮、今満ちて
晦冥の夜ともなれば
假構の萬象そが閉性を失し
解體の喜びに醉ひしれて
心おのゝき
渾沌の母の胸へと歸入する
窓外の膚白き一樹は
扉漏(とぼそ)る赤き灯(とぼし)に照らされて
いかつく張つた大枝も、金屬製の葉末もろ共
母胎の汚物まだ拭はれぬ
孩兒(みどりご)の四肢の相(すがた)を示現する。
かゝる和毛(にこげ)の如き夜は
コスモスといふ白日の虚妄を破り、
日光の重壓に、
化石の痛苦味ひつゝある若者らにも
母親の乳房まさぐる幼年の
至純なる淫猥の皮膚感覚をとり戻し、
劫初なる淵(わた)の面より汲み取れる
ほの黒き祈り心をしたゝらす・・・・・・
おんみ、天鳶絨の黒衣せる夜、
香油(にほひあぶら)にうるほへる、おんみ聖なる夜、
濕りたる我が双つの眼(まなこ)を
おんみの胸に埋むるを許したまへ。
1921.9.4
+------------+
(編集部註)
■晦冥=かいめい=
■假構=旧字=仮構
■閉性=原本は門(もんがまえ)に亥を書いて
“とじる”と読む字を使用している
■重壓=旧字=重圧
■劫初=ごうしょ=この世の初め
■天鳶絨=ビロード
■濕りたる=旧字=湿りたる
【ゆうべみた夢(Etude)】
▼
花の散つてゐる街中の櫻竝木を通つてゐ
た。灯ともし頃であつた。妙な侘しさに追
ひ立てられるやうな氣持で、足早に歩いて
ゐたやうだつた。
道の左手に明るいカフェが口を開いてゐ
た。入口に立つて覗くと、酒を飲んでしや
べつてゐる群の中に知つた顔が二三人見え
た。あまり會ひたくもない人たちだつたの
で、僕はしばらくそこに立つたままでゐた。
そのとき奥の勘定臺のわきの壁に倚りか
かつてゐたNが眼に入つた。中學のとき同
級で、海軍兵學校に入つてゐるうちに肺炎
か何かで死んだ男だ。むかうでも僕をみつ
けたものと見えて、むかしした通りに、頑
丈なからだを少し前のめりにし、新兵のや
うに二の腕をぶらぶら振りながら、うれし
さうにこつちへやつて来た。僕もへんにう
きうきした氣持になつて、いきなりその胸
の厚いからだを抱きしめて額に接吻した・・・
突然、豫期しない不快な感覺を顔面に覺
えて手を放してみると、Nの半面は髪の毛
から眼の下へかけて一面に褐色のどろどろ
した液體で被はれてゐる。しかしその液體
の不快な觸感を顔に感じてゐるものはたし
かに僕である。夢の中ではこのことが少し
も不自然ではなかつた。Nは僕の顔にその
液體を吐きかけたのでもなければ、僕の口
から出たその液體を吐きかけられたのでも
ないやうに、平静な顔に、うれしさうなう
す笑ひを浮べてやつぱり僕をみつめてゐる。
しかし僕はもう一度彼を抱きしめる氣にな
れずに、ぼんやりそこに立つたまま、よご
れた彼の顔を眺めてゐた。
1922.4
+------------+
(編集部註)
■櫻竝木=旧字=桜並木
【無題】
▼
幾日幾夜の 熱病の後(のち)なる
濠端のあさあけを讃ふ。
琥珀の雲 溶けて蒼空に流れ、
覺めやらで水を眺むる柳の一列(ひとつら)あり。
もやひたるボートの 赤き三角旗は
密閉せる閨房の扉をあけはなち、
暁の冷氣をよろこび舐むる男の舌なり。
朝なれば風は起ちて、雲母(きら)めく濠の面をわたり、
通學する十三歳の女學生の
白き靴下とスカートのあはひなる
ひかがみの青き血管に接吻す。
朝なれば風は起ちて 濕りたる柳の葉末をなぶり、
花を捧げて足速に木橋をよぎる
反身(そりみ)なる若き女の裳(もすそ)を反(かへ)す。
その白足袋の 快き哄笑を聽きしか。
ああ夥しき欲情は空にあり。
わが肉身は 卵殻の如く 完く且つ脆くして、
陽光はほの朱(あか)く 身うちに射し入るなり。
1922.11.27
+------------+
(編集部註)
■ひかがみ=膕=引き屈み=膝の後ろのくぼんでいる所
【警戒】 C.M.に
▼
醉ひ痴(し)れて、母君の知り給はぬ女の胸に
あるとき「ここにわが働かざりし双手あり」の句
を君の耳もとにささやき、卒然と君の眼の中に、
母君の白き髪と額の皺とを呼び入れるものは何で
あるか。心せよ、これこそ、世界の構成の最下層
から突き出でて、君の心臓の内壁にまで達する、
かのへらへらとした氣味あしき觸手の、節奏なき
運動の効果なのである。人はこの觸手の存在に氣
付くことがあまりに少なく、しかもそれらのため
に「ちよろりとやられてしまふ」ことがあまりに
多いのである。されば友よ、(君は尊敬すべき生
活の殉教者だ)、まづ空間を横ぎるそれらの黒い
線條の存在に注意しよう。そして、卑しむに堪へ
たるかれらの機能に對して、心からの敵意を以て
警戒しようではないか。
1923.5
【熱情的なフーガ】
▼
七月の日光の
多彩なるアラベスク。
七月の日光の
覆された坩堝。
白晝の星より
女人の肉(しゝむら)は墜つ。
このロココ宮殿の
脚を斷て。
赭(あか)き肉は
宙宇に倒(さかしま)なり。
大理石(ためいし)の噴泉の
唇を噛め。
多彩なるアラベスク。
覆された坩堝。
立ちならぶ電柱は
火を發す。
1923.5
+------------+
(編集部註)
■アラベスク=イスラム美術の装飾文様。
偶像禁止の教義により植物の蔓・葉・花の図案化、
星形の展開など、対称性に富む文様が発達した。
【俯瞰景】
▼
溝ぶちの水たまりをへらへらと泳ぐ高貴
な魂がある。かれの上、梅雨晴れの輝かし
い街衢の高みを過ぎ行くものは、脂粉の顔、
誇りかな香りを放つ髪、新鮮な麦藁帽子、
氣輕に光るネクタイピン・・・・この魂にとつ
て、一日も眺めるのを缺くべからざる物ら
の世界である。さて、かれは、これらの物
象の漸層の最低底に身を落してゐる。輕装
の青年紳士の、黒檀のステツキの石突と均
しく位してゐる。しかも、かれは、この低
みから、すべての部分がかれの上に在るあ
の世界をみおろすことのできる、不思議な
妖術を學び得た魂である――この屈從的な
魂は。
1923.7
+------------+
(編集部註)
■街衢=がいく=衢は“ちまた”とも読む
【手】
▼
おまへの手はもの悲しい、
酒びたしのテーブルの上に。
おまへの手は息づいてゐる、
たつた一つ、私の前に。
おまへの手を風がわたる、
枝の青蟲を吹くやうに。
私は疲れた、靴は破れた。
推定1924.7
【橋の上の自畫像】
▼
今宵私のパイプは橋の上で
狂暴に煙を上昇させる。
今宵あれらの水びたしの荷足(にたり)は
すべて昇天しなければならぬ、
頬被りした船頭たちを載せて。
電車らは花車(だし)の亡靈のやうに
音もなく夜の中に擴散し遂げる。
(靴穿きで木橋を踏む淋しさ)
私は明滅する「仁丹」の廣告燈を憎む。
またすべての詞華集(アンソロジー)とカルピスソーダ水とを嫌ふ。
哀れな欲望過多症患者が
人類撲滅の大志を抱いて
最期を遂げるに間近い夜だ。
蛾よ、蛾よ、
ガードの鐵柱にとまつて、震へて
夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。
咲き出た交番の赤ランプは
おまへの看護(みとり)には過ぎたるものだ。
1924.7
+------------+
(編集部註)
■自畫像=旧字=自画像
■荷足=荷足り船。河川や港湾で荷物の運送にあたった小船。
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