『豌豆になつた女』
【ヘリオトロープの匂ひ】
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―a Monsieur Tsunemi Maji― (ムシュウ 間司つねみ)
夜の銀座は
マロニエの花の樣な
可愛い令嬢(まどまぜる)の微笑です。
夜の銀座には無數の夢がおちてをります。
若い人生の撮影監督見習(あつくすたんとでりんた)――が
抱く夢想の片ぺんです。
――貧しい詩人は、それを拾ひ集めるのです。
然しその夢は不思議に、銀座のあの
華麗(はなやか)なアーク燈の届かぬ處には落ちてゐないの
です。
みんなあのあかるい飾電燈(がんどりゑ)の下で夢見るから
でせう。
銀座の夢は、可愛い令嬢(れいぢやう)のヘリオトロープの
匂です。
【悲哀】
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皮を剥いだ蟹の
柔かな感情を抱いて
街をだまつて行く。
そして――誰にも呼びかけられないやうに――と願ひながら
若し荒々しい人間の聲で
「おい君!」と
呼びかけられたら
私の心は竹紙のやうに震へて何と答するか。
このいたいたしい感情を抱いて
なぜ街から街へと彷徨ひ歩いて行かなければならないのか
脆い罌粟の葩の生命を抱きながら。
【水底の魚の生活】
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水底の魚となり寒々と沈默(もだし)ゐる私達二人の生活に
水の心が時々冷やかにすげないことがある。
――生活苦の礫が投げた波紋かも知れない
そんな時
私を鞭うつのは私の妻である。
妻は臨月に近く
憂ひは水藻の樣に明日の糧と生れ出る幼児の晴衣に流れる。
私は、
一篇の作詩に昨日も今日も水底の石にさへかぢりつく。
この二つの相異はやがて
やがて魚の生活に寂しい蔭影(かげ)を作り
水の心に左右あれる時が來るであらう。
『半島の歴史』より
【半島の歴史】
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半島にひとつの入江がある。山につゝじの咲くころ。若葉
のむげにかほり。水苔のあたりぜんまいがひらき。こがく
れに入江がのぞく。白い帆舟の水脈をひいて。
トロッコが終日山からくだり。埋立地に土工のむれがひし
めきひしめいた。
海の中に何萬町歩の水田をゆめみる地主。
日傭の金に海をおしげもなく埋める村人。
海を奪はれ生活にあえぐ漁師。
村はまんぢにあけくれた。
よごと、銘酒屋に、島田くづしのぢごくが若い衆のふとこ
ろをねらう。
娘がつぎつぎにてゝなしごを生んだ。
工事なかばに、測量技師が人妻と駆け落ちし。つぎつぎに
不正が露(ば)れ。村の分限者がばたばたと、没落した。
壊れたトロッコのそばに月見草が咲いた。
それから――。
いくとせ――。
山につゝじの咲くころ。若葉のむげにかほり。水苔のあた
り。ぜんまいを摘む。いくたりかのてゝなし兒が入江を見
下してゐる。
――つかれた村の向ふに入江が淺くにごつてゐる。
【ポートレート】
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――PAUL WOLFの作品――
君の帽子にはヒサシがない。
君の帽子は地下水に汚れてゐる。
陽のめを見ないで腐される帽子のよごれめは想像できない
ものがある。
君のひたひのしわは地球の皺のやうに溝が深い。
君のひたひのしわには、廢坑の汚水がたまつてゐる。
羚羊(かもしか)の耳のやうな両開きの扉に君の宿命がある。
たえず地球のぢなりに怯え、――くらがりで動きださうと
する耳。
君の過去に幾百幾千のなかまが、うめきながらこの扉の中
に消えて行つた怯え。
あゝ耳は君の恐怖のバロメーター
世紀の塵を拂ふ銀線の下に君のおちこんだ眼球がある。
目、目、明るいものを見る目ではない。
くらがりに地球の年輪をかぞへる目
層の下に層があり、そこに蠢く人間どもを見るだけの目。
君の目は、地下のくらがりに通ずる脈。
呪詛にのみ開く三白眼。
呪つてもやまないものを呪つてゐる目。
その方向に敵がある。
發掘された土器のやうに汚れてゐる鼻。
地すべり。倒壊。君の過去がすりむけてゐる。
死んだ男の爪でひつかいた最後の記録が讀めない君の両頬
の皺。
口は閉るためにある意志力。
最後の叫びにのみ開く坑道。
それでゐて、君の過去を、雄辯にサウンドする。
君の髭は鼻孔を吸つてきたなく白い。
白いもののきたならしさをしらしめる君の髯(ほほひげ)。
深い渓谷をかくしてゐる嶺のやうに、劃然とした輪郭の頤
の下に、君の生命の地下水が逆流してゐる。
土管のやうに君の首はかつ色に汚れ、破衣の上にある。
破衣は貝殻のボタンで首根をしめ。
破衣は君の肩、馬の腹帶のやうなバンドで釣られ。このズ
ボン吊りの下に、君の家族がぶらさがつてゐる。
炭坑夫――。
君の最後のポートレートが、倒壊した炭坑の發掘された土
砂の中から發見された。
【峠】
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馬車がそこまでくると御者はいつものやうに、鞭を持つ
つまゝ跳び下りた。「すまんが、おりてくらつさい。この
峠を越すには、あんさんがたが、乗つていちや、馬が可哀
想で」馬だけが、びつしよりと汗をかいて、喘ぎ喘ぎ登つ
た坂だけに、ひとびとはほつとして、いさぎよく馬車から
下りた。
馬はガツガツと羊腸たる山徑を登つた。
展かれた限界。俯瞰する渓谷。湯女の招く温泉村。人々
は展望に涼を入れた。
馬が道路のまん中で、氣持よさそに放尿(いばり)した。
ホップくさいあぶく、急激に坂を下つて流れ。しぶきが四
散した。「あれ、こんちきしよう。いきすかんても」乗合
の酌婦(をんな)が、すとんきような聲で叫んだ。「いきす
くやうなでかいのではないか」――誰やら、旅のひとがか
らかつた。「あらや〜だ。このしとなにをいふのやら」み
だらな應酬にすばやく、今宵の客を釣る。
「さあ、乗つて貰ふべいか」御者は、ひとびとをうなが
し、――かつての日、この峠を泣いて下つたあの娘が、も
う、あんなにたつしやになつたか――と感心しつゝ一鞭い
れた。
馬はいつさんに坂を下つて駈け出した。
尾根から尾根をガラスのやうな、澄みきつた空に、轍の
音がきんきんと山彦(こだま)して行つた。
【孤貧】
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―A Widow―
そこには都會の路次が眠つてゐた。嘘のやうに眠つてゐ
る。路次の両側に家々が眠つてゐる。
喰ひ足りないで泣いて眠つた子供の姿は淋しいものであ
る。母は夜だけ安堵した。たとへ貧が川を遡流潮のやうに
ひしひしと迫つてきても、どこの家々もしめし合せたやう
に、夜は眠つてしまふからである。
工場ですりむいた指先の傷口がうずいた。
母は破れた子供の靴下の穴を毛糸で編む。
母親の着物の裾に深い夜氣がしのびこむ、冷え冷えとし
のびこむ。
隣のラヂオ・ニュースは海の底の物音のやうにときどき、
ききとりにくくなることがある。それでゐて、隣のラヂオ
にききみゝたてるのは、底冷えのせいではない。
誰しも、一度、驚愕に値する報(しらせ)は二度と聽きた
くない。
聽きたくないのに、聽かないでゐられないのは、ニュー
スにおびえてゐるからである。
おひつくらうことの出來ない、いたましさに、糸の針の
先がうごかないでゐた。
うずく、血のしみた繃帶の指先に、世界の端のある街の
砲聲をかんじ。
母はひよつとすると、今宵もまた眠れないではないかと
思ふた。
【都會的非都會人の憂鬱】
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僕の今ゐる所は蒼い空の下の麥畑
僕は終日、土の香を嗅いで畑の中に蹲(うずくま)る。
都會の激情(パツシヨン)は僕の心の侏儒(こびと)を情慾に
踊らす。
僕の生活は平衡を失つて鰈の遊泳に似てゐる。
感情は一つの凋びた筍であらうか――
――然しこれは又、節と節との連接がない。
(刹那に僕の感情の委託)
汚れた體は、どくだみの汚濁な香りの發散。
都會は今刹那主義的感情の洪水
刹那の情慾、感情、せつなの享樂に汚れた都會への投影の
中に僕は嫌厭すべき自分の姿を發見した。
僕は呪ふべきこの都會の汚濁な生活から避れようと、
蒼い蒼い天(あま)が下の麥畑の中に
終日虫のやうに土の上を這つてゐる事がある。
【獲物】
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瞬間銃を構へた。
白雪上の遠い獲物。
足もとに熊笹の散る雪
尾根にはねかへるエーテル。
獲物の命と、挑み獲らうとする者の生命が積雪上に繋ぐ一線。
視覺に擴大するけだものの貌(かたち)。
ぬすみする心に似る愉悦。
緊張の連鎖を一瞬にくだく勝負。
すばらしくぶつぱなした音波の輪廓大。
煙硝のにほひ。
OVERLAD――怒る獣族(けだもの)。
はるかに遠のく獲物の遁走。
追ひかける銃丸。
獲物(けだもの)の忿怒。野蠻なる殺意。追撃。銃音。獣。
蹴りたてる皚々(がいがい)たる雪。逸足と追走の眞劒なる斜面。
「詩散文年鑑詩集」より(1931年)
【空の感情】
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雀色時の空に俺は空の感情の縺れを觀た。
それは三羽の鴉の執拗な喧嘩であつた。
翼でうち喙で相噛む執拗な空の喧嘩であつた。
鴉の感情はあかはだに剥がれた赤蛙の生々しい血肉に等し
い縺れ
彼等は打ちつ解れつつ空の感情を揉みくちやにし、遥な虚
空に遠のいた。
俺は觀てゐて、その執拗な喧嘩に空の感情を讀む事が出來た。
この地上に充満する不平不満が空に反映しない譯がないのだ。
過去の詩人が詠嘆した空の感情は、夢であり、美であり感
激の天國であつた。
そんな美的感情は、遠の昔に百舌鳥の舌端で死刑されてゐ
る筈だ。
地上から吹き上げる忿怒
そんなものが、空に流れこむと
空の感情はキリキリと
空飛ぶ小鳥の群まで傷めつける。
人間の感情をいちはやく官能する鴉の群が
ぐんぐんぐんと壓へきれない忿怒に動き出しのだ。
喧嘩しないではゐられない激情に爆發したのだ。
「文藝大學」より(1948年)
【雪崩】
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春先の山は危険だと
スキーヤーがかへり
ゲレンデの小舎から番人が去つた日
私は、雪の斜面を仰ぎ見た。
空はきはまりなく晴れ
雪の山は肩をそびやかして
非情に私を招く。
私は
高い塞閉の雪の壁を
がんぢきもつけないで、爪をもつて
雪に爪たて、攀ぢ攀じ登つた。
山陵の積雪の分裂する音が
尾根から尾根にひびき亘ると
雪は悲しく山から手を離した。
崩れかかる活荷重に、雪は身をゆすぶり
みるまに轟き、喚き渓谷に崩れかかつた。
雪崩。崩れる雪の斜面に
小さな斑點、凍れる私の生命が
太陽を背にして、煌き煌き
渓に向つて堕ちて行くのであつた。
「現代詩」より(1948年3月)
【ガス燈】
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その頃、夜が來ると、街角から、不意に脚立を持つた男が
あらはれて、軒ごとに、ぽーっとふくらむ、あの、あを
白い、炎の袋 ガス燈に灯を入れて行つた。
ぢぢぢーっと羽蟲の群のとぶやうな、あの幽音をたてて、
茄子紺色の闇に、夕顔花のやうな光を開くあのガス燈。
その灯が點ると、街の人々は、なにかしらほつとして、ほ
のぼのと心をあたためられ、湯上りのやうな愉しさでそ
れを眺め入つてゐた。
それなのに、私は、うらぶれた悲しい氣持で、蝙蝠のやう
に、ガス燈のとどかない暗い露次に、ぴたぴたとどぶ板
を踏みしめて歸らなければならなかつた。
殺伐たる夜の部屋で、冷飯に白湯をかけて、さらさらと夕
食をすます侘しさに、とても起きてゐられなく、すぐに
冷たい布團のなかにもぐりこんだ。
郷愁にいく夜眠れなく、いつも私は、床の中で遠い友に手
紙を書いたことか。
ああ、そんな風に、私の青春が消耗され、私のやうな寄宿
人を置いてゐた露次の裏町も今は、さだかに探すことの
出來ない荒寥たる焼野原になつてゐる。
想ひ出のなにものかも失はれた街。壊れた亙。亙の土留の
あたりに、ひこばえの菜種の花ず細々たる莖に支へられ
て黄色く咲いてゐるのは寂しい極みだ。
うらぶれ、荒地の中に埋れてしまつた想ひ出の街よ。今は
夜になつても蝙蝠もとばないであらう。
ああ、それにしても、今日の
天はいささか快晴すぎる。
「健康會議」より(1949年4月)
【旅】
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白いシーツの上に横たはる。
私の旅が終りをつげる。
私の脳漿のなかに陷ちこむ宿の背後の瀧。
一夜 私は瀧壺の波紋のやうに
ぐるり ぐるりもてあそばれて眠りに這入つた。
「日患情報」より(1950年)
【馬と花】
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峠を越えて來た馬はたてがみに一輪の水仙をさしていた。
(馬子の風流であらう)
しかし馬は自からを慰めるすべを知らない。
荷駄の重みは、この一輪の水仙となんのかかりあいがあろう。
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