白須孝輔

しらすこうすけ(1905-1943)

東京日本橋生まれ。


詩集『ストライキ宣言』

 

詩集『ストライキ宣言』 ―後記―

 ここに収められた詩十篇は、昨年の春から現在までの約一ヶ年半にかけて作ら
れたものの大部分である。
 いま、それらを一冊にまとめあげてみて、その餘りにも僅かな量に驚く、と、
ともに、この一ヶ年半に於ける僕の所謂「詩」を作る時間の少なかつたのに比例
して、他のそれと等しい、或はもつと重要な仕事のために費やされたことに思ひ
至るとき、せめてもの慰めを感じる。
 まことに、この一ヶ年半は、僕個人にとつても、僕の属する全日本無産者藝術
團體協議會(ナツプ)の闘爭の歴史にとつても、そして一般的には日本の無産階
級解放運動にとつても、過去の數年間に匹敵する多忙さと、しかも決定的な問題
を正しく解決した時期であつた。
 漸く、われわれのあらゆる闘爭が、むきだしに、曾つてなかつた激しさを以つ
て展開されやうとするとき、今後われわれの詩が、かかる詩集としての形をもつ
て世に送りだされるか否かはすこぶる疑問である。
 既に「詩」を作る以外の仕事が、僕をわれわれの部署にまちもうけてゐる。
 では、

 終りに同志
藏原が多忙のなかから、わざわざ序文を寄せてくれた勞を深謝する。

    1929.12                         白須孝輔


「日本プロレタリア文学集38・プロレタリア詩集1」より

【がっしりした泥だらけの草鞋は食いこむ】

きみ達は行く!

凍てついた雪の山道を
裸畑を
広野のまんなかを
きみ達は泥だらけの草鞋をひきずり
あるときは山道で
あるときは広野のなかで
あるときは小さな部落で
きみ達は草鞋をひきずりひきずり、戦って行く


雪はさんさんときみ達の行手をさえぎり
肌に凍てつく山国の風はきみ達の全身におおいかぶさる
きみ達は灰色の空の下に まっ白な息をふきかけ
きみ達はきみ達をまつ山国の会場に急ぐ


まくしあがる吹雪をけって
きみ達は次の停車場に向う
きみ達の行くさきざきは
冷たい吹雪の山道と
計劃的な官憲の暴圧だ

しかしきみ達の泥草鞋は
雪の山道に
広野のまんなかに
山国の部落に
がっしり食いこむでゆく。

『前衛』 1928年4月号に発表


【おっ母さん】

    ――職場からの便り――

おっ母さん
わら半紙の手紙は、今日こっちへ届いた
全く読みづれえ手紙だった
が、言われるまでもねえ
身体だけしか持たねえ俺のことだ
これだけは大切に使っているぜ。

ほんとに早えもんだ
こっちへ来てから半歳になるんだから
だのに俺ときちゃ情ねえ話だが
まだ気の利いたストライキひとつ起せねえ有様だ
が、おっ母さん
ここのやまはちっとばかりでけいんだ
ここをおとすにゃ、あと半歳や一年はかかるだろう
見てて呉んねえ
見てて呉んねえ!

ほいほい
俺のことばかり並べすぎたようだ
手紙ん中の金は、たしかに貰ったぜ
いつも、いつもすまねえ
今度こそ、眼鏡のひとつ位送りてえと思いながら
こっちの仕事に追われちゃってるんだ
そう、そう
俺がそっちで働いていた時分
弾圧でやられた俺を貰い下げに来て呉れたとき
――真面目に働きゃいい稼ぎ手になれるだろう、とは
警察の石の門から聞かされた言草だった
 してみると、俺もあんまりいい稼手じゃねえようだ

ところで、おっ母さん
しばらく会わねえ裡に、すっかりいじけちゃったようだが
もっと元気を出して呉んねえ
送った新聞と雑誌には
ぜひ読ませてえ話が載ってるんだ
ほら
三月の検挙でさ
うまくずらかって呉れたとばかり思ってた
俺達の渡政がよ
倒頭やられてしまったんだ
その渡政にゃ、丁度おっ母さんと同じ歳のおふくろがあるんだ
見て呉んねえ、そのおふくろの顔を
 読んで呉んねえ、そのおふくろの言葉を
――どうか伜に負けないようにやって下さい
――どうか伜の仇をとって下さい
おふくろは唇を噛んでこう言っているんだ

なあ、おっ母さん
このでけえやまをおとすまで
あんまりいじけねえで待ってて呉れよ
俺達は俺達の渡政のためにも
畜生!
ここの煙をふっとめねえでおくものか!
やまがでかけりゃ俺達だってはりがあると言うものだ
えっ、おっ母さん
そのときゃ赤飯(こわめし)を焚いてお祝いだぜ。

『戦旗』 1929年3月号に発表


【獄窓通信】

     1
――山吹が咲いた
まる、一年…………

あとは
墨で塗りつぶされた第一信、

     2
裁判は、どう進められたか

じいっと眼をすえて
おれは、見た、

     3
暗から暗へ
四年の足枷とさるぐつわ

これが
やつらのせいいっぱいの仕打!

     4
ふまれ
けられ

よし、殺されようと、

     5
日程は

豪勢なしかえし!
ただ、これだけ

(秋田の同志 石黒周一君に 1930.4)
『プロレタリア文学』 1930年6月号に発表


【再建への道】

   ――突如行衛不明になった同志仁木二郎に、こ
   の拙き詩をおくる。きみのおばあさんは云う、
   みなさんのおためにすこしはなったのでしょう
   か、……と、彼がいなくなってから俺達の新聞
   が出なくなった。(たったひとときではあった
   が)彼は俺達の無新のために彼のすべてを投げ
   だしていたのだ。

政府(おかみ)の法律(おきて)が
二郎(あのこ)を縛り
政府の法律が
二郎を牢屋につなぐ

二郎が拘引(しょっぴ)かれた五六日のち
記事解禁が出た
あの日からもう六十日経ったけれど
二郎は戻らない。
が、わたしは諦めている
わたしは六十二日の今日の日まで
はっきり、この眼で覚えこんできた
政府には権力(ちから)がある
政府には無理が利く
ことを、

それにしても
二郎は一体どんな仕事をしていたのだろうか
なんでもわたしには話す二郎が
仕事のことだけは、ついぞわたしにも話(あか)さなかった
二郎はいつも急がしそうだった
そう、そう、
どしゃ降りの晩だった
ぐしょぬれにぬれた二郎の洋服(きもの)に
カギ裂きがいくつもあったのを繕ってやったのは……
あの晩
二郎はわたしのそばで
血走った眼で腕組みしながら
せわしげな息づかいでなにか一生懸命考えていたっけ……

ああ!
二郎の顔がいまでも眼に映るようだ!
……いまは、
赤い煉瓦の厚塀が
二郎とわたしの身体をよせつけまいとさえぎってはいるけれど……

暁(あけがた)
二郎の枕時計(めざまし)がなるかならぬうち
ピストルを先頭に
二郎を縛りにきた
二郎は
二郎は……
淋しそうに笑っていた、
――おばあさん、じきに帰りますからね……
二郎は、それっきりなにも言わなかった。

どしゃ降りの晩から十日も経ったのちだったろうか……
二郎がいなくなってからにわかに寒くなった
もう六十日
毎朝
枕時計は、わたしに二郎が拘引(しょっぴ)かれたときを告げる
ときだ!
ときだ!

が、二郎はまだ戻らない

一体、あの二郎はどんな仕事をしていたのだろうか
わたしは、それを知りたい!

みなさん!
二郎は労働者農民のおためにすこしはなったのでしょうか?

*「無新」は日本共産党の合法機関紙『無産者新聞』のこと。
1929年9月から『第二無産者新聞』にかわった。

『1931年版日本プロレタリア詩集』より


【戦争は何も残してくれなかった】

    ――或る少女の手記――

「早く大きくなつてお呉れ」
母は半身不随の床のなかから
かさかさな聲でいつも涙ぐむ

父は
東鶏冠山の中腹で
機関銃の弾丸で胸いたを十三発射ぬかれたまま
決死隊の白襷を鮮血に染めて倒れた
それから
十何年かの月日がながれた

年に三百圓たらずの恩給――私には恩給と言ふ言葉が癪にさはる――で
母と私は生きつづけた
私達が軍人の遺族であるためにではなく
私達がそれ以外には食べられない軍隊のまつくろなふやけきつた残飯を食べつづけて
私は段々と大きくなつたけれど
母は日毎に痩せおとろへてゆく

父は忠義のために戦死したかも知れないが
私はまた孝行のために、そして私達母子のために
どれだけ生きなければならないのか
私は毎日半里(みち)もさきの
靴下工場に通つて
一日三十二銭づつの手間賃を稼いでゐる。

北國の蒲團までじめじめと濕める十一月頃になつて
一日二百足を作(こし)らへる靴下を
せめて半身不随にふるへてゐる母に
一足だけでも買ふには
私は三日間も夜業をしなければならない

自家(うち)では空腹になつた母が
軍人の妻であるために
しのびにしのむでのたうつてゐる身體を
私は物も言はずに叩いてやらうと急ぐ

藥はおろか、火にしてやるボールの一片もない馬小屋の片隅では
火の出るやうに叩くのが
母にも、私にも、一番暖かくなる火だ

さうです
僅かばかりの、それもいまは高利貸の手にある恩給を
いつまでも、いつまでも貰ふのには
殺さないやうに母を叩くことが私にできるたつた一つの孝行なのです

が、
或る朝、お櫃の米が凍りついた朝
私が一生懸命に叩きつづけたのに
母は
戦地からの父の最後の
「眠むい」「眠むい」と書いてある手紙をみつめながら
母の眼はぎよろりと動かなくなつてしまつた。

――高利貸の所からと、役場からの印刷にした手紙が届いた。
戦争は私に何も残しては呉れなかつた。

1928.10
日本現代詩大系 第八巻」より