【夜】
▼
私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象に
出遇つた。
私は不図この光景を、未だ見知らぬこの道を、嘗てこ
の位置で、この洞窟にもまして暗い道の上で、経験した
ことがあるやうに思へる。
なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れ
た町に墜ち込んでゐる。私が顔をあげると鶏が羽を落し
て行く。軍鶏のやうな男が私を追越す。私はこの男を別
に気に留めなかつたが、と思ひながら私は更に歩いてゐ
た筈だ、と考へて歩いてゐる私の眼前に、突然、それら
の現象が一塊となつて現れたのだ。私は鏡でも撫でるか
のやうに前方を探ぐつた。
未だある! 未だある! そうして秒間を過ぎると、
私は更に驚異すべき発作に撃れる。それはといふと、こ
の道の先で一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、
私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、
私の指尖よりも遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなけ
ればならない筈だ。片目眇の少年に。少年は凶器を握ぎ
つてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひがつる
さがつてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかける
のだ、戯れると見せかけるのだ。
私はさつと苔を生じた。苔を生じた石のやうに土を噛
むだ。
【赤氷】
▼
山間からの氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共
に氷流だ。ドツと押し寄せる赤氷だ。
新国境の壁に粉砕される赤氷だ。赤氷から生えてゐる掌
形の花。
山間に於ける数年間の閉塞と雖も、脂の乗つた筋肉のや
うな茎だ。が然し、新国境の壁には何ものも咲かせざる
如く一滴の水以下だ。
赤氷よ新国境の壁を貫け、太陽の背には更に新しい太陽
の燃焼だ。燃焼だ。
【肉薄】
▼
沛然たる豪雨の一端が傷口のやうな柱脚を掘り返へし
て行つた。そうしてとりとめのない雲が二三と、太陽は
壁の中へ墜ちかかつてゐた。
突如、颱風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に
殺到した。
柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出
してゐるのだ。
群集に群集する群集。原野の炎は群衆の眼に拡大した。
彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場
所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!
+---------+
(註)
■沛然(はいぜん)=雨が盛んに降るさま
【失脚】
▼
私は運河の底を歩いてゐた。この未成の運河の先きに
は必ず人間の仕事がある。私はたゞその目的に急いでゐ
る。
太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判ら
ない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ
明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つ
た。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じ
た。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。
私の行手僅かの地点で歓喜の声が振動してゐるのだ。
私はたゞ走ることによつて慰ぐさめるより仕方がない。
私の背後には大海の水が豪落と迫つてゐるに違ひない。
私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざ
る絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水
の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら
昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。
【失脚】
▼
私は、私の想像を二乗したやうな深い溝渠の淵に立つ
てゐた。その溝渠の上には、溝渠から吹きあがつたやう
な雲が夕焼を映して蟠(わだかま)つてゐた。
不意に人のけはひがしたので雲から目を落すと、そこ
に一人の少年が私と同じやうな姿勢で、雲から目を落し
て私を発見(みつけ)た。彼は自分の油断を狙はれて了つ
たかのやうに溝渠の半円へ遠ざかりはじめた。それは宛
然、鏡面から遠ざかる私自身ででもあるかのやうに、少
年の一挙一動は私のいらだたしいままに動いた。一体こ
の溝渠の底に何があるのか、私は知らない。次の瞬間、
少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りは
じめた。ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れ
ない数人のむ男が加つた。然し溝渠の底は依然として暗
く何物もみとめられなかつた。
突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚ろいた
ことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかり
であつた。私の顔はなんともいへない不愉快な犬のやう
に、私の命令を求めてゐた。気がついて見ると、その顔
顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮し
ながら、なんにみない溝渠の周囲をぐるぐる這ひ廻つて
ゐた。
+---------+
(註)
■宛然(えんぜん)=そっくりであるさま
【発作】
▼
私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象を
目撃した。それが実際私に墜ちかかつてゐやうとは、が
私は不図この光景を嘗てこの洞窟にもまして暗い道の上
で、経験したことがあるやうに思へる、なぜなら、この
道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んで
ゐる。
私が顔をあげると鳥が羽をおとして行く、軍鶏のやう
な少年が私を追越す、私はその少年をとりたてて気にし
なかつたが、と思ひ乍ら私は更に歩いてゐた筈だ、と考
へてゐる私の眼前に、突然、それらの現象が一塊となつ
て現れたのだ。
私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。未だあ
る未だある、そうして秒間を過ぎると私は更に一段と驚
異すべき発作に撃たれる。それはといふとこの道の先で、
一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、私の親切
な指尖がある一点を刺した時、老人の姿は私の指尖より
も遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなければならない
筈だ。片眇の少年に。少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器
の尖には人形の首とナマリの笑ひが吊下つてゐるのだ。
その少年は私に戯れると見せかけるのだ! 戯れると見
せかけるのだ!
【足】
▼
私の両肩には不可解な水死人の柩が、大盤石とのしか
かつてゐる。柩から滴たる水は私の全身で汗にかはり、
汗は全身をきりきり締めつける。火のないランプのやう
な町のはづれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者
のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさが
り、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを
散らした。それから祭のやうな騒ぎがその間に勃つた。
柩の重量が急激に私の一端にかかつて来た。私は危く身
を建て直すと力いつぱい足を張つた。その時図らずも私
は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に
私の水理のやうな秩序は失はれた。私は確に前進してゐ
る。しかるに私の足は後退してゐるのだ。後退してゐる
に拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。私はこの
奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人
の柩を投げ出すと、墜力が死のやうな苦悩と共に私を転
倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。そ
の時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。
【海】
▼
一人の男が、流木にしがみついたまま、海の上で眠つ
てゐた。次いで現はれたのは水平線上の白い塊だつた。
雲足にしては余りに早い速力だつたので、尚ほ凝視して
ゐると、それは紛ぎれもない一団の鳥であつた。鳥は既
に眠つた男の真上にまで来た。すると突然鳥の一羽が眠
つた男をみつけると、一層羽音を高めてその眠つた男を
強襲した。一羽二羽と続いた。眠つてゐた男は一唸りす
ると、パット眼を見開いた。流木の上に立つた。無数の
鳥との無惨な格闘はかなり長い間続いた。しかし一際大
きく唸ると男はそのまま流木の上に斃れて了つた。羽ま
でを赤く染めた鳥共が、再び一団となつた時、男の死骸
は海底へ斜めに下りて行つた。軍港をとりまいた山の上
では、巨大な潜望鏡が雲の動静をうかがつてゐた。
【誘ひ】
▼
1
爛漫たる桜の樹の下で、一人の男が絵を描いてゐた。
男の眼は半ば眠つてゐるかのやうにどろんとしてゐた。
男は時時画布から首を擡(もた)げては犬のやうにあたり
を嗅ぎ廻つた。次の日、私はやはり桜の樹の下で、桜の
幹に抱きついて、幹の匂ひを熱心に嗅いでゐるその男を
見た。三日目には、画布だけが桜の樹の下に建てられて
あつた。不審に思つてゐる私の頭上で、突然、桜の花び
らが一散に落ちて来た。驚ろいたことには、昨日の男が
桜の枝の上で昏昏と眠つてゐた。実は、眠つてゐると思
つたが、そうではなく、男は桜の匂ひの中で全く困乱に
陥入つてゐたのだつた。そうしてまた私はその男の姿に
魅せられて了つたのだつた。その夜、私は桜の上の男が、
悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとる
ものも取敢へづ現場へ急行した。果せるかな画布は昨日
の姿勢のままで置かれてあつた。男の姿は遂ひに発見す
ることが出来なかつた。が然し桜の根方に夥しい血滴が
はじまつて、池の方に続いてゐた。池には蓮の葉が油ぎ
つた舌嘗をしてゐた。その日、初めて私はその画面を熟
視することができた。画面はまるで解剖図のやうに、触
るとずるずる崩れて了ふのではないかと思へた。それか
ら二日経つても三日経つても、男は再び桜の樹の下へ現
れて来なかつた。私は意を動かして、その画布を家へ持
ち帰へつた。その翌日から私に不思議なある慾望が勃り
はじめた。半日を費して、私はピアノを庭園へ運んだ。
そこで私は思ふ存分鍵盤を擲ぐつた。私は軽い暈ひと痙
攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩
いてゐた。
2
その男は、あらゆる音響を字体に移植しようと考へた。
この研究に斃れても、自分は決して犬死ではない、むし
ろ歴史的な事業ではないか、と考へるに至つた。そこで
【善戦】 ―菱山修三君に―
▼
敵だ。敵がゐる。私にそう遠くない所だ。敵の正体に
は根がない。ただもやもや浮動し屯してゐるばかり、一
度たりと私に攻勢を執つたことはないのだ。が然し、少
くとも私に眼を着けてゐるといふことは否めない事実な
のだ。いはんや敵は不思議な自信の中に私を獲へて放さ
ないかのやうな威嚇を示してゐるのだ。そこで私は密に
物物しい武装に取掛つたが、武装意識が私よりも敵の大
きさを強からしめた。それが私を過らした最初だつた。
果せる哉敵は堂堂と意識の上に攻め込んで来た。次いで
早くも敵の触手は私の面上を掠めた。
追撃――追撃は極つた。私の茫然たる眼前には暗い泥
海が盛りあがつてゐた、と思つた時は既に遅く私の胴体
はその泥海の上を風のまにまに流れ、私の背後にうねつ
た夜明の方へ少しづつ動きはじめた。それから夢のやう
な苦しみが肉体を刺しだした。私の全身は泥の中へめり
込んでゆく。私の周囲の泥の上には草が生えぐんぐん伸
びる。火のやうな太陽がカツカツと昇る。全身の下降が
止つた。すると泥海はみりみり音をたてながら太陽の下
で固つて行くのだ。その時だ。かの怖るべき敵は、大敵
は私の無視の下に消失して了つたのだ。続いてその時、
一大亀裂が私を再び地上へ投げあげたのだ。
【死岩(デッドロック)】
▼
私の前には、死岩が顔を霧の中に埋めて立つてゐる。
私は知つてゐる。しかし、私が彼に手をあてるまで、私
は実に雄然と対立してゐた。死岩をとりまく霧は、渦巻
いて私の手を払ふ。私がぴたり死岩に手をあてると、サ
ツと彼はその毅然たる姿を現した。私は彼の動かぬ姿の
中から、動かぬ速力の激流を感じた。それが真向から墜
落して来た。はづみをくつて私はよろよろした。高さ!
高さの下で痛めたのは羽ばかりではない。私は浮ぶこと
も沈むこともできなくなつた。高さは私の腕の長さでは
ない。黙然と佇立してゐると、霧は起つて、私は遠くへ
流されてしまつた。圏外。そこでは私に軽軽と安堵が向
うてゐた。然し死岩の前から姿を消したとて、私には眼
が見える。蟻のやうに登つて行く人々の足音がきこゑる。
足音をきいてゐるうちに、私の身はいつのまにか、死岩
に向つて歩いてゐる。私にかくまで喰ひ込んでゐる死岩
の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めな
ほすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこ
だ。
【忘れられた猫】
▼
忘れられた猫は、すみてのない舟の底に、忘れられた
女よりも艶艶と生きてゐた。潜むが如く、その青い舟底
に魔物の發作を燒印して、上目使ひに花片の舌を軋らす、
その舌尖にありありと、しかも火の如くどよむ可憐な渇
命。その可憐な渇命に映るは、あるひは虎よりもすさま
じい幻影である。
私の知るところとなつた、青い舟底の猫は、いつか月の
下で耀いてゐた。孤獨の壁の中で、化石せる忘れられた
猫は、この夜陰に見事な白珊瑚となつて、眞晝の如く煌
々と月夜の青い舟底に秘むでゐた。
【寫眞】
▼
殺戮された男の上には曠(むな)しい野天がある。その
折の野天が蜘蛛のやうに、祖先の背に組着いてゐる。眉
間のあたりに針が刺さつて、腐敗瓦斯に脹れあがつた蛞
蝓(なめくじ)の泥面。鳥の足のやうな青く萎びた手を
出して。むづかゆい蟲の觸覺を押しつけて行くこの惡臭
を放つ一葉。
私は花のやうな残忍さの中で、顔を失つた。
【保護色】
▼
僕は豫々その赤館の壁に衝動を撃込まれてゐた。が斷
じて僕はその赤館に投石したのではないのだ。小心だつ
たから。
石は赤館の裏の沼地に放たれたのだ。それが狂ひのな
いコントロールであつた事は、今にしても充分な理由が
ある。
ところが意外にも赤館の壁から走り出した軍鶏のやう
な男。男は忽ピンと反返へつた。沼地へ滑り落ちた。
僕が走りよつて見ると、石榴のやうな頭部を曝して斃
れてゐた。眼球を剥いて、この男は眼を開いてゐたから
いけなかつたのだ。
【壁】
▼
壁は透明を慾する。透明な壁の中には美しい人間がゐ
る。泥化せる壁の中に脅えた眼がある。眼は壁の外を模
索してゐる。壁を貫通するものは惡業のみである。壁の
汚物は傷孔の如くに、消えはしない。二重三重の壁の中
には更に恐るべき所業がある。
【失脚】
▼
黄塵の壁は唸つてゐる。
高梁の開地だ。
華かな馬市は埃の中の埃のやうな人間達によつてひら
かれ、そして終らふとしてゐた。
一頭の軍馬の脚下。砂塵は既に老人の膝を没してゐた。
落日は遠い斷崖にかかつてゐる。老人の眼はそれよりも
先に閉ざされ、枯竹のやうな腕は震へてゐた。
突然、老人は高く愛馬の名を呼ぶと、四つん這ひにな
つた。四つん這ひになると、崩れかかつた黄塵の中へま
つしぐらに飛び込んで行つた。
月があつた。
沙の中には勳章のカケラが、少し離れた高梁の中には、
既に蟲のついた老人の死骸が。そうして馬の尻だけが、
月の下でトンガツてゐた。
断章
▼
高梁の開地で馬市がひらかれてゐた。
一頭の軍馬の蔭で老人が買い手を求めてゐた。老人が
やつと買い手を探しあつた頃、黒い山脈に落日だ。老人
の手から馬が離れる頃、老人は四つん這ひになると高梁
の開地を驅けめぐつてゐたが、いつか見えなくなつて了
つた。月があがると、沙の中に勳章のカケラが輝いてゐ
た。少し離れた高梁畑の中にからからになつた老人の死
骸が轉つてゐた。
*
坂を下りて來る男は隨力の二乘だ。ふらふら下りてく
る。途端男の手が空に流れた。それつきりだ。
男は數個の銅錢を散らしたまま、斃れて了つたのだ。
暫くすると坂を登つて行く元氣のいい男だ。元氣のい
い男は斃れた男の傍らの落ちてゐる數個の銅錢を拾つた
まま、俺は知らんといふやうな顏して、悠悠坂を登つて
裏側へ下りて行つた。
*
坂を登つて行くのは彼と乞食だ。ミイラのやうに身體
を包んだ乞食は裕福な乞食だ。白い徳利を下げてゐる。
彼は突然乞食のふてぶてしい首つ玉に拳を振舞つた。
乞食は病人のやうな抵抗を示しただけで忽ち脚下に横た
わる。
すると急に彼の體は宙に浮いた。恐ろしい打撃がそれ
から二三回續けられた。
乞食の高笑が高い木の枝のあたりを蒸氣のやうに登つ
た。彼はさうして失神した。
*
半島の突鼻に燈臺があつた。燈臺の光は半島を一周し
て海へ。烈しい風速と雨だ。相次ぐ救難船だ。岩礁と岩
礁の間。
マストの尖端で嬰児の泣く聲が微に聞えたのだ燈臺の
活動は第二期に入つた。
所で半島の陸地の續きでは廻轉する燈光の中で殺人は
完全に成し遂げられた。おまけに燈光は逃亡者の道を照
して呉れた。
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