齋藤緑雨

さいとうりょくう(1867-1904)

小説家、評論家、随筆家。本名、斎藤賢(まさる)。三重県鈴鹿市に生まれる。坪内逍遥の「小説神
髄」をいち早く味読し、新文学の創作に意欲を燃やす。1891年、花柳小説「油地獄」「かくれんぼ」
を発表し、文壇的地歩を確立。小説以外にも、パロディ批評「小説八宗」などの啓蒙的な文学評論
を書き、森鴎外、幸田露伴との三人による文壇時評「三人冗語」などがある。毒舌、皮肉家で知ら
れ、風刺諧謔に富んだ批評を展開した。終生、妻子を持たず、本所横網の小さな借家に住み続けた。
1904年、肺患により死去。あらかじめ友人馬場孤蝶に頼んでおいた次の死亡広告を新聞に掲載した。
「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」。/「
ウラ・アオゾラブンコ」より


【新體詩見本】

    一                外山調
火鉢の上に鐵瓶が
落て居るとて無斷にて
他人の物を持行くは
取も直さず泥坊で
泥坊元來不正なり
雲を霞と逃ぐるとも
早く繩綯ひ追駈けて
縛せや縛せ犯罪人

    二                福鋳イ
我日本の内とても
年を取れるは婆さんぞ
若き婆さんなきのみか
不思議に婆さん女なる
是れぞ即ち所謂の
然りと雖も日の本の
女は遂に婆さんぞ

    三                上田調
今釜出でしほや/\の
いともおいしきあぶり芋
手に取り見れば湯氣の露
丸燒月に似たるかな
晝餐(ひるげ)にかへて買はまほし
一口やれば忘られぬ
汝が又の名の十三里
この味めでぬ人やある

    四                鐵幹調
   白きを見れば夜ぞ更くる
「姑蘇城外(くそじやうぐあい)寒山寺」
   數ふる指も寐つ起きつ
首縊らんか鳰(にほ)の海
   ぶら下らぬぞうらみなる
身をば投げんか鷲の峰
   もぐり込まぬぞ恨なる
小楊子むづと手に執(とり)て
   喉笛美事に掻切れば
ちよいと痛めど血は出でず
   死するも命別儀なし
「天地玄黄千字文」
   無理心中は止むべきぞ


外山調、福鋳イ、上田調、鐵幹調、この四つは已に示しぬ
折柄福註謳カの「何とか原田の重吉氏」といへる金聲玉音
を又も惜氣なく投出されたるに慌てゝ暫し途切れたるが長
きは御退屈とは落語家も言ふことなれば此の見本も今日限
り切上ぐべし扨


    五                佐々木調
小桶を籠めて立まよふ
岡湯のあたり雲起り
踏はだかれる町内の
頭の背に龍躍る
臀(いしき)連なる柘榴口
手拭頬にあてがひて
そは中々に傅の君
きこえ侍らず言の葉の
理(わり)無しとにはあらねども
そも逢初めしと唄ひつゝ
猪レ板敲き聲高く
やようめたまへ番頭よ


後の新体詩家たらん者よく/\此等諸大家の調を辨へて考
へ合したらんには裨益する所尠からざるべし猶おまけとし
て懸賞募集軍歌調と申すを一つ二つ御覧に入るべし無論選
者は鳥居忱先生なり


   (其一)
いざや喰らはん椀の飯
片手に箸を取上げて
煮豆味噌汁香の物
腹のふくるゝそれ迄は

   (其二)
残忍苛酷の債權者
支拂命令差向けつ
供託金を上納し
強制執行申請す
解除願はゞ速かに