大手拓次

おおてたくじ(1887-1934)

生涯妻をめとらず、夜の下宿でひとり、心ゆくまで美の鬼たちと空想の世界に遊んだ異色の詩人
大手拓次の詩はかつて日本の詩人の誰もが歌わなかった妖しい官能的感触と香気にみちている。
                           
白凰社(1984)「大手拓次詩集」より



【足をみがく男】

わたしは足をみがく男である。
誰のともしれない、しろいやはらかな足をみがいてゐる。
そのなめらかな甲の手ざはりは、
牡丹の花のやうにふつくりとしてゐる。
わたしのみがく桃色のうつくしい足のゆびは、
息のあるやうにうごいて、
わたしのふるへる手は涙をながしてゐる。
もう二度とかへらないわたしの思ひは、
ひばりのごとく、自由に自由にうたつてゐる。
わたしの生の祈りのともしびとなつてもえる見知らぬ足、
さわやかな風のなかに、いつまでもそのままにうごいてをれ。

【つめたい春の憂鬱】

にほひ袋をかくしてゐるやうな春の憂鬱よ、
なぜそんなに わたしのせなかをたたくのか、
うすむらさきのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ、
なぜそんなに わたしの胸をかきむしるのか、
ああ、あの好きなともだちはわたしにそむかうとしてゐるではないか、
たんぽぽの穂のやうにみだれてくる春の憂鬱よ、
象牙のやうな手でしなをつくるやはらかな春の憂鬱よ、
わたしはくびをかしげて、おまへのするままにまかせてゐる。
つめたい春の憂鬱よ、
なめらかに芽生えのうへをそよいでは消えてゆく
かなしいかなしいおとづれ。


【十六歳の少年の顔】 ―思ひ出の自画像―

うすあをいかげにつつまれたおまへのかほには
五月のほととぎすがないてゐます。
うすあをいびろうどのやうなおまへのかほには
月のにほひがひたひたとしてゐます。
ああ みればみるほど薄月のやうな少年よ、
しろい野芥子のやうにはにかんでばかりゐる少年よ、
そつと指でさはられても真赤になるおまへのかほ、
ほそい眉、
きれのながい眼のあかるさ、
ふつくらとしたしろい頬の花、
水草のやうなやはらかいくちびる、
はづかしさと夢とひかりとでしなしなとふるへてゐるおまへのかほ。


【六月の雨】

六月はこもるあめ、くさいろのあめ、
なめくぢいろのあめ、
ひかりをおほひかくして窓のなかに息をはくねずみいろのあめ、
しろい顔をぬらして みちにたたずむひとのあり、
たぎりたつ思ひをふさぐぬかのあめ、みみずのあめ、たれぬののあめ、
たえまないをやみのあめのいと、
もののくされであり、やまひであり、うまれである この霖雨(ながあめ)のあし、
わたしはからだの眼といふ眼をふさいでひきこもり、
うぶ毛の月のほとりにふらふらとまよひでる。


【めくらの蛙】

闇のなかに叫びを追ふものがあります。
それはめくらの蛙です。
ほのぼのとたましひのほころびを縫ふこゑがします。

あたまをあげるものは夜のさかづきです。
くちなし色の肉を盛る夜のさかづきです。
それはなめらかにうたふ白磁のさかづきです。

蛙の足はびつこです。
蛙のおなかはやせてゐます。
蛙の眼はなみだにきずついてゐます。


【蛙の夜】

いつさいのものはくらく、
いつさいのおとはきえ、
まんまんたる闇の底に、
むらがりつどふ蛙のすがたがうかびでた。
かずしれぬ蛙の口は、
ぱく、ぱく、ぱく、ぱく、……とうごいて、
その口のなかには一つ一つあをい星がひかつてゐる。


【灰色の蝦蟇】

ちからなくさめざめとうかみあがり
よれからむ秘密のあまいしたたりをなめて、
ひかげのやうなうすやみに、
あをい灰色の蝦蟇はもがもがとうごいた。
おほきなこぶしのやうな蝦蟇だ、
うみのなかのなまこのやうな
どろどろにけむりをはきだす蝦蟇だ、
たましひのゆめを縫ってとびあるく蝦蟇だ。
その肌は ざらざらで、
そのくちびるはくろくただれ、
しじゆうびつしよりぬれてゐる。
まよなかに黄色い風がふくと、
この灰色の蝦蟇は
みもちのやうにふくらんでくるのだ。
蝦蟇よ おまへのからだを大事にして
そのくるしみをたへしのんでくれ。
さよなら さよなら
わたしのすきなおほきな蝦蟇よ。


【噴水の上に眠るものの声】

 ひとつの言葉を抱くといふことは、ものゝ頂を走りながらものゝ底をあゆみゆ
くことである。

 ひとつの言葉におぼれて、そのなかに火をともすことは、とりもなほさず、窓わ
くのなかに朝と夕の鳥のさへづりを生きのままに縫箔することである。

 ひとつの言葉に、もえあがる全存在を髣髴させることは、はるかな神の呼吸にか
よふ刹那である。

 ひとつの言葉を聴くことは、むらがる雨のおとを聴くことである。数限りない音
と色と姿とけはひとを身にせまるのである。

 ひとつの言葉に舌をつけることは、おそろしい鐘のねの渦巻に心をひたすことで
ある。空空寂寂、たゞひそかに逃れんとあせるばかりである。

 ひとつの言葉に身を投げかけることは、恰も草木の生長の貌である。そこに芽は
ひらき、葉はのびあがり、いそいそと地に乳をもとめるのである。この幸福は無限
の芳香をもつ。
 
 ひとつの言葉を眺めれば、あまたの人の顔であり、姿であり、身振であり、そし
て消えてゆかうとするあらゆるものゝ別れである。含まれたる情熱の器は、細い葉
のそよぎにゆらめいて、現を夢ににほはせるのである。

 ひとつの言葉に触れることは、うぶ毛の光るももいろの少女の肌にふるへる指を
濡れさせることである。指はにほひをかき、指はときめきを伝へ、指はあらしを感
じ、指はまぼろしをつくり、指は焔をあふり、指はさまざまの姿態にあふれる思ひ
を背負ひ、指は小径にすすり泣き、なほさらに指は芳香の壺にふかぶかと沈みてあ
がき、壺のやうな執著のころもに自らを失ふのである。

 ひとつの言葉を嗅ぐことは、花園のさまよふ蜂となることである。観念は指をき
り、わきたつ噴水に雨をふらし、をのゝく曙は闇のなかに身をひるがへし、やはや
はとし、すべてはほのかなあかるみの流れに身ぶるひをしてとびたつのである。

 ひとつの言葉は、影となり光となり、漾(ただよ)うてはとどまらず、うそぶき
をうみ、裂かれては浮み、おそひかゝる力の放散に花をおしひらかせる。

 ひとつの言葉は空中に輪をゑがいて星くづをふくみ、つぶさにそのひゞきをつた
へ、 ゆふべのおとづれを紡ぐのである。

 ひとつの言葉は草の葉である。その上の蛍である。その光である。光のなかの色
である。色のまばたきである。まばたきの命である。消なば消ぬがのたはむれに似
てゆらびく遠い意志である。

 ひとつの言葉はしたたりおちる木の実であり、その殻であり、その果肉であり、
その核であり、その汁である。さうして、木の実の持つすべてのうるほひであり、
重みであり、動きであり、ほのほであり、移り気である。

 ひとつの言葉を釣らんとするには、まづ倦怠の餌を月光のなかに投じ、ひとすぢ
の糸のうへをわたつてゆかなければならぬ。そのあやふさは祈りである。永遠の窓
はそこにひらかれる。

 ひとつの言葉は跫音である。くさむらのなかにこもる女の跫音である。とほのい
ては消えがてに、またちかづくみづ色の跫音である。そのよわよわしさは、ながれ
る蝶のはねである。おさへようとすればくづれてしまふ果敢なさである。

 ひとつの言葉はみえざるほのおである。闇である。明るみである。眠りである。
ささやきである。円である。球体である。処女である。糸につながれた魚である。
咲かうとする白いつぼみである。常春の年齢である。流れであり、風であり、丘で
あり、吹きならす口笛の蜘蛛である。

 ひとつの言葉にひとつの言葉をつなぐことは花であり、笑ひであり、みとのまぐ
はひである。白い言葉と黒い言葉とをつなぎ、黄色い言葉と黒い言葉とをつなぎ、
青の言葉と赤の言葉とを、みどりの言葉と黒い言葉とを、空色の言葉と淡紅色の言
葉とをつなぎ、或は朝の言葉と夜の言葉とをつなぎ、昼の言葉と夕の言葉とをむす
び、春の言葉と夏の言葉とを、善と悪との言葉を、美と醜との言葉を、天と地との
言葉を、南と北との言葉を、神と悪魔との言葉を、可見の言葉と不可見の言葉とを、
近き言葉と遠き言葉とを、表と裏との言葉を、水と山との言葉を、指と胸との言葉
を、手と足との言葉を、夢と空との言葉を、火と岩との言葉を、驚きと竦みとの言
葉を、動と不動の言葉を、崩壊と建設の言葉を……つなぎ合せ、結びあはせて、そ
の色彩と音調と感触とあらゆる混迷のなかに手探りするいんいんたる微妙の世界の
開花。

 まことに言葉はひとつの生き物である。それは小児の肌ざはりである。やはらか
く、あたたかく、なめらかに、ふしぎにうごめき、もりあがり、けむりたち、びよ
びよとしてとどまらず、こゑをしのび、ほゝゑみをかくし、なまなまとして夢をは
らみ、あをくはなやぎ、ほそくしなやかに、風のやうにかすかにみだれ、よびかは
し、よりかかり、もたれかかり、夜毎にふくらみ、ほのかに赤らみ、すべすべとし
てねばり、はねかへり、ぴたぴたと吸ひつき、絶えず生長し、ひかりかがやき、よ
ろこびを吹き、感じやすく、響きやすく、ことごとくの音をきゝ色をうつし、時と
ともにとびさる感情の絵をゑがき、日とともに新しく、唄の森林をはびこらせる。

 ひとつの言葉をえらぶにあたり、私は自らの天真にふるへつつ、六つの指を用ゐ
る。すなはち、視覚の指、聴覚の指、嗅覚の指、味覚の指、触覚の指、温覚の指で
ある。さらに、私はあまたの見えざる指を用ゐる。たとへば年齢の指、方角の指、
性の指、季節の指、時間の指、祖先の指、思想の指、微風の指、透明な毛髪の指、
情欲の指、飢渇の指、紫色の病気の指、遠景の指、統覚の指、感情の生血の指、合
掌の指、神格性の指、縹渺(へうべう)の指、とぎすまされてめんめんと燃える指、
水をくぐる釣針の指、毒草の指、なりひびく瑪瑙の指、馬の指、蛇の指、蛙の指、
犬の指、きりぎりすの指、蛍の指、鴉の指、蘆の葉の指、おじぎさうの指、月光の
指、太陽のかげの指、地面の指、空間の指、雲の指、木立の指、流れの指、黄金の
指、銀の指……指。私の肉体をめぐる限りない物象の香気の幕に魅せられて、これ
らの指といふ指はむらがりたち、ひとつの言葉の選びに向ふのである。その白熱帯
は無心の勤行である。