【薄暮銹銀調】
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…………トレモロがきこえる。
朽葉色の禿げた並木も、
灰色の坦道も、また
往くさきるさの人影も、
蒼ざめた霧の奥にまぎれて、
街頭が黄に輝く、と
何処となくトレモロがきこえる。
紅く燻(ほて)つた雲が
悩ましげに暮れて行く。
蜘蛛の巣のやうな電信線が
キラリと鋭どく閃めく。
雀のK影が群れてはちる。
夜――象(かたち)を没する憂愁が
万物の表面(おもて)にハッキリ現はれてゐる。
悲しげなトレモロの波が
老女の微笑のやうにふるへた………
と、ある八百屋の店に、
パツと電燈がついた。
果実や野菜が、
生々と美くしく輝く。
奥の帳場に、娘が
凝然(ぢいつ)と往来を見て坐つてゐる。
――トレモロが段々遠くなる。
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(註)
■銹銀調=銹は原文では金偏に肅と書いて‘しゅう’=さび=錆
【樺色の幻影】
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黒い衣を着た空眼の老女が
予の前に立つてる。笑つた。
黒い衣を着た空眼の老女が。
る、る、る、る、るうん……と鐘がなる。
褪めた真白な月が森の梢に
凝然(ぢいつ)と死んだやうに傾いてる。
褪めた真白な月が森の梢に。
………る、る、る、る、るうん………
何事か予の霊魂に暗示して
老女は足音もなく立去つた。
何事か予の霊魂に暗示して。
……………………る、るうん
……………予は輝く樺色の幻影に渇してる。
【水仙】
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苦痛のやうに暗い夜、
私はあの人から、この
花を貰つた。匂が白く慄へてゐた。
見るとあの人は、真珠のやうに
蒼ざめてゐた。きゆつと
私をキスして、悲しげに笑つてゐた。
苦痛のやうに暗い夜、
私はその唇の冷たさを
初めて知つた。涙が、ほろほろ流れてきた。
すると、あの人の沈んだ声が、
銀のやうな声が「水仙。」
と、云つた。私は恐ろしくなつてきた。
苦痛のやうに暗い夜、
私は堕ちて行きながら、黙つて
ふるへた。星がぎらぎら光つてゐた。
【夜の溝渠】
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暗く……………輝く。
傾ける月、
軟らかき銀灰色の嗟歎(といき)して河に映(さ)し……
暗く……………輝く。
石垣の一面は
明らかに見ゆ、懐かしき憂愁の笑へる如く。
また深き陰影に彩どられ、他の一面は
悪人の瞳の如く欝したり。
暗く……………輝く。
更けてゆく市街の夜は
凝然として眉高く惨ましき心をみつむ。
あはれその心の底の溝渠には
橋の影、燈火の光……黒き船。
暗く……………輝く。
石垣の何処にか、
神経病のこほろぎの細き音疼き………
暗く……………輝く。
【不安】
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幽霊のやうに蒼ざめた夜が、
窓から覗いて笑つてゐる。
燭の灯が怯えて顫ふ。
と、室内がぐらつと動いた。
予は驚いてみまはす。併し、
机も白壁も花瓶(はながめ)も黙つてゐる。
唖者(おし)のやうに黙つてゐる、
確に今一声叫んだのに――
死人を抱いたやうな心持が、
予の膚(はだへ)を粟だたした。
幽霊のやうに蒼ざめた夜が、
窓から覗いて笑つてゐる。
【未だ生れざる帝國劇場】
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星光の鋭き闇よ、秋の夜の丸の内
往きかよふ電車の軋り、東京の
底を流るゝ生命の響を傳ふ
折々のきスパーク………
苔き濠の水、透きとほるその憂愁を、
劃(かぎ)りたる古き城壁、
はた遠方に燈光のすさまじき戦争(たたかひ)を見る、
あはれあはれ、そは銀座街。
蒼白き弧燈輝く花園よ、樹立よ、小亭(ちん)よ
靜寂を悩ます池の噴水よ、
紫に澄む大空に、心の國を、
あさましく露はせる日比谷公園。
目盲たる煉瓦屋立並ぶ。
中央に生命保険立てり。彼
夜陰の内に新らしき宗教を説く。
ヨルダンの野に叫びたるヨハネの如し。
(そはやがて曙の靜なる光を浴びむ。
王城のほとりの曠野、
未だ成らざる東京の第一街よ、
そはやがて曙の靜なる光を浴びむ。)
首都のメシアス、壮麗の大劇場は、
いたましく半ば地上に生れたる
自己の姿を打眺め、生の苦痛に、
巨(おほひ)なる獣の如く泣き叫ぶ、泣き叫ぶ、首都のメシアス。
―1909年10月「屋上庭園・第壹號」より―
【港の歌 鶯鶯(インイン)】
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朝だ。鶯鶯。起きろ。もう朝だ。
汝(おまへ)は全く美くしい懶怠者だ。
見ろ。朝日が窓からまぶしく
緞子(どんす)の夜具を照してゐる。
朝だ。鶯鶯。起きろ。もう朝だ。
伊豫丸が今、波止場へついた。
ほら。汽笛がきこえるだろう。
きつと汝の好きな龍眼肉(ロンイエンロー)を、
あの船は一ぱい積んでゐるだろう。
汝はいつも夢をみてゐる。
海に向つた窓によりかかつて、
故郷の街にただよふ夜の笛を、
楊柳(ヤオリヤン)の影を、足小さき姉妹を。
まだそんなに戀しいか、あの廣東が。
鶯鶯汝は孤子(みなしご)ぢやないか。
朝だ。鶯鶯。起きろ。もう朝だ。
また今日も一日月琴(ユエチン)を弾いて、
汝に初めて會つた華舫(ホアユアン)の上の
長夜宴(チヤンユエユアン)の歌でもうたはう。
朝だ。鶯鶯。起きろ。もう朝だ。
―1910年2月「屋上庭園・第弐號」より―
【顫光】
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我は見る。暗き心の上に堕つる光を。
そは例へば銀の絃上を磨(す)るとき、
かすかに起る金属の呻吟(うめき)のごとく、
また褪めはてたる月光の淫慾にわななく如く、
きはみなく悲しき高調の射映なり。
またたとふれば牢獄に死して横たはる、
貴族の蒼ざめたる額に印する日光の如く、
微笑せる妖婦の皓き齒のきらめくごとく、
克ヨの觸感の如く、冷たく囚へがたき光は
今や我心に映(さ)して情緒の夜を照らす。
ああ柔かなる憂愁の顫光よ。我汝を思慕す。
汝は暗中に香ふ若き女の呼吸の如く、
我をして悩ましき幻覺を樂しましむ。
汝はまた銀灰の曉(あけがた)カトリコオの御寺に
蒼白く輝く臘の火の如く神秘なり。
―1910年2月「屋上庭園・第弐號」より―
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(註)
■カトリコオ=カトリック
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