中谷無涯

なかやむがい(1871-1933)

詩人・小説家。本名は久之助、別号は春亭・九春亭・延春亭・山茶花(サザンカ)・礫川(レキセン)魔
本籍は東京市麻布區材木町。本名哲次郎。1878年、麻布霞小學校に入學す。1882年、麻布宮下小學校
高等科に轉學す。1883年、この當時既に童話運動を起す。1886年、宮下小學校の教員となる。1889年、
盛んに小説・詩・飜譯ものを同人雑誌等に寄稿す。1892年、幸田露伴博士に私淑し次いで門に入る。
「國會新聞」に新體詩【鐵槌】を寄稿し初めて無涯と號す。1896年、新小説『苅萱物語』を發表して
一躍文壇に進出す。1898年、朝鮮仁川に渡り布教に従事。翌年、山梨教區長安寺住職拜命。以降各地
で住職をつとめる。1906年、新體詩集『すひかつら』を發刊す。/『無涯遺稿』より

 

新體詩集『すひかつら』より

【緒名が淵】


    其一

暮の天 夕映うつる雲の峰、
猛りたつ獅子、舞ふ胡蝶、
虎嘯けば さと起る、
風に亂るゝ旗雲の 流るゝ水や、
瀧津瀬の さゞらさゞ波、
疊む波、うねる大浪、
碎けては 狂ひたつ濤、
久方の 天の河原に
かけ橋の 深紅うすらぎ、
赤は褪せ 橙黄消えて
黄に殘る、色彩かはる
束の間も 見る目あやかなる
山の端に天津乙女の
御手飾る指輪の玉か、
星一つ、紫匂ふ大空に
ちらりと光る閃めきに、
開くや 天の星の花、
八つ九つと數ふれば
散るや 火花のちら/\/\。
天つ御星の 數知れず。

黒む山々。暗の谷。
森に聲なく、鳥眠り、
渓深くして 音を潜む。
羊腸の山路 谷に沿ひ、
崢エの山峰 頭を壓す。
黒きは 林。
光るは 流れ。
長風 梢を渡りて襟もと寒く、
山鳥 闇に叫びて膓斷たる。
往けど盡きせぬ 闇の路、
森を洩れ來る 一點光。
明るく――暗く――、
薄く―――濃く――、
暗夜に馴れたる目は迷ふ。
鈴 ちやら――ちやら、
蹄 はた――はた、
なつかしの音や、
なつかしの聲!
「妾の思ひは深さも深い
緒名が淵よりまだ深い。」
馬おふ 足どり、
響く 鈴の音、
「深い思ひも届かぬ筈よ、
緒名が淵には底がない」
泣くか 淵に潜める蛟龍?
訴ふか 底に宿れる~靈?。
馬追歌 聲細々と、
斷えつ 續きつ 木魂に通ふ。
なつかしの聲――姿なき、
鈴は響く――――馬ぞなき、
蹄は音す――――嘶かず。
うばらまつはる徑蹈み分けて、
足尖さぐり 下り立つ下に、
くろ/゛\黒む 黒き淵あり。
檐かたむきて 戸のなき祠!、
燈火くらく 風にゆらめき、
狐格子に結へる願文。

彼方の山の尾上に薄き
色の一刷毛、見る/\間なく、
やゝ濃き光 黄金に染まり
現はれ出たる片碎れの月。
あびせる光りほのかに輝す、
深き淵には天津御星の
天下り來て底に宿れり。
この星 靈あり 歌ふか 歌を?
大山祗の~業ならし、
天津御鉞に巖を削づり、
天津御鑿に石きり穿ち、
水源遠き奥山陰の
岩間たばしる清水みちびき、
深きにそゝぎ湛へしものか?、
大綿津海の鹽たる水に
染ませじとてや企めるものか?
穢れを知らぬ眞清水なれば
浮世の風に穢させじとて、
水口閉ぢて堰きにしものか?
瑠璃を解きたる深き淵なる
底ひ知られぬ底なしの淵。

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    其二

   第一聲 老松の吟

山の尾上に幾年か經し
われ老松のむかし語らむ。
それ萬代の榮えと祝ふ
我松の實の笑みて翻れて
草の葉すべり 地に落ち伏して、
待つや 日靈の大御めぐみを、
濕る 露雨 うるほひふくれ
皮は破れつ 若芽はめぐみ、
裂けて細葉の 六つ七つ八つ。
子日するとて ひく里の子の
目にもれ 育ち、風にもまれつ、
霜には凍てつ、雪に壓されつ、
春毎延びて脊たけは聳え、
枝は下垂れ 葉は重なりて、
しのゝめの朝日かげらひ、
夕づゝの夕日うつらひ、
風吹く夜には琴を奏で、
月の夜半には雫をちらし、
老龍吟じ 猿悲しみ、
白鶴巣ひ 鷲憩ふ。
木々の帝と尊ばれつゝ、
年經し我がまのあたり見し、
世の有樣のかはり/\て、
見よ 彼谷の杉の群立、
檜の林、栢の木立、
杣の手に揮る刃廣に倒れ、
肉は削られ 皮逆剥がれ、
挽く鋸に割かれし板は
山かつの肩 馬の背に、
積まれ 擔はれ 運び去られて、
殘る株は雨露に洒れ、
ちがや 小笹や うばらや 葛、
茂り 蔓り まつはる荒野。

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   第二聲 巨巖の吟

あな、がまや!松の繰り言、
汝はいふ 老にけらしと、
聽け、われに。
我蒼穹に輝る星の
ひかり初めてし 往昔に
成出し由緒も 白雲の
徘徊ふ山の 鳴りどよみ
天地眞暗く、はためく電光、
雷とゞろき 暴ぶる暴風、
崩るゝ山岳、もえたつ猛火。
岩飛び、石舞ひ、
灰降り、砂うち、
避けて――碎けて――
崩れて――壞れて――
燃えて――沸きたち――
溶けて――流るゝ――
石の湯、泥の湯、
煮えたち沸ける大熱河!
天に星なく、月なく、日なく、
黒く 眞暗く 雲 烟。
地には人なく、草なく、木なく、
あやめ分たず、唯眞暗!
沸くや 石の湯、泥の海。
聞け!八萬の魔の叫喚、
世は常暗と喊の聲。
どつと ルドラの手を擧げて、
招けば 世界けし飛べと、
荒ぶ暴風の どう/\/\。
狂ふ焔は たちてはくづれ、
砂礫は 雨 霰飛ぶ。
見よ!天上の黒雲の間に、
天津獲矢を つぎ早く射る、
雨の御~の 弓弦ひゞき、
銀箭 亂れ、矢玉 散り交ふ、
熱石 雨に 喚めき呼び、
熱沙 雨に沸き 湯氣競ひたつ。
血に渇きたる羅刹の叫び、
肉に飢ゑたる惡鬼の喚き。
滔々 天うつ激波の怒り。
世界流せと押し來る洪水。
風がかなぐり捨てたる雲間、
はづかの隙間のぞける蒼空は、
荒れし下界に平和の光明。
風 なぎ―雲 絶え――
雨 はれ―霧 散り――
焔 あとなく、烟は絶えつ、
泥水ひきてしづけき野原、
白雲たゆたふ山の麓に、
溶岩凝りて削れる巨巖!
我 その巖、巖ぞ、われは!

我が肩に 草生ひ茂り、
我が胸に 苔蒸すまでに、
雪融する春を いく度、
霜を置く秋を いく度、
迎へもし、送りもしけむ。
花咲く草木なき世より
鷲の巣籠りすべく
松が梢 天靡で聳え
枝ふり茂る今日を見て、
己れの齢 數ふれば
恒河の沙 數ならず、
竪に長かる 年に月
數經し我を老といふ。
汝等は いまだ若けれ。
我 巨巖、汝 老松と、
比較べて人間の世を見よ、
噪がしく 爭闘やまず、
強きもの 弱きを仆し、
長きもの 短きを壓し、
愛くしみ、憎しみ、怨み、
憂ひ、嘆き、怒り、悲しみ、
際限なく 悶え 苦しみ、
たま/\に得たる樂しみ、
うれしさも 繼ぐに 煩ひ、
惱ましく 驕り 高ぶり、
人凌ぎ 人を慢り、
我、汝、汝等、彼等と、
爭闘の絶えぬ 人の世、
甲斐もなき 敢果なき望
遂げんとて、鬩ぐ人の世、噪ぐ人の世!。

  露伴曰、先づ陰森幽穹の地の緒名の淵に相應せ
  る巨巖を假りて、これに言はしめて人世を嘲り
  咀はしめ以て後段の概染をなす、手段は狡猾、
  着想は幻奇、面白し。

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   第三聲 鷲の吟

人の世を嘲り咀ふ 汝巨巖、
肉なく 血なく 心なき汝、
涙なく 汗も生命もなき汝、
冷く 堅く 情なき汝。
永久へに 搖るぎ動かず
峡にかゞまり 蹲踞り居て、
汝が經し時間 長く 長きも、
この狭き谷 恒に移らず。
進むてふ事 汝は知らず、
あはれなる哉!
見よ!われを、
巖頭つかみ 身つくろひ
天の宙゚ そよがせて
肩そびやかし 頭擧げ、
一たび呼べば、
天に飛ぶ鳥、木立にかくれ、
二たび呼べば、
野に食む羊 戰き怖れ、
三たび叫べば、
谷に聲なく、淵に影なし。

搏つ翼に 旋風を起し
天の八重雲 凌ぎ/\て、
空に輪をかき 渦書き 伸せば、
星の都は 雲なほ遠く
雲の海晴れ、雲の波なく、
目は極まらず たゞ廣き空、
涯際なく遠く 上なく高く
障礙なき場所 唯獨り舞ふ、
俯むく下に人の世低く
小さく、卑しく、人の世穢し、
地に住む人の 高しと稱へ、
仰ぎ尊む 富士の高根も、
我が舞ふ下に 低くも低し。
千里の翼 千里の眼、
無礙の虚空は 我が翔ける場所、
誰れか障ふる 我が進むみち?
何か距つる 我が來し方を?
地上に人の 求むる自由、
我は虚空に 得てぞ楽しむ。

血潮のかよふ 肉ある我に、
情思は起り 樂しみ宿る、
苦しみ來り、悲しみ移つる、
怒りは萌し、憎しみ起る、
戀に惱めば 嫉も燃ゆる、
餌食に餓ゑ、水に渇く、
睡眠に休み、希望に悶ゆ、
長き世經しと誇るな、巨巖。
我鷲の 生命短く、
宙゚の色 衰へ易く、
熱き血潮の 假令冷ゆべくも、
雌かる鷲 その子はあらん、
子には子あらん、孫に子あらん、
血潮流れて 子に傅はり、
力分れて 孫に傅はり、
我鷲の種類あるきはみ、
我血、我靈魂、永久に絶えせじ、
鳥類の君公、酎ーの帝王、
代々に傅へつ、繼ぎ譲らして、
鷲の種類 絶えぬきはみは、
我は生存ふと 我は思ふなれ。
雌を戀ふる雄の 何ぞ優しき!
雄を慕ふ雌の 何ぞ切なる!
雲分け騰り、霧さけ下り、
雄は重きを厭はず運び、
雌は遠きを厭はずあさり、
立てし巣堅く迭に守護り、
仇讎をいましめ、卵を暖め抱き、
巣籠る雛の飢に叫べば、
八重の雲路を遠しともせで
巨浪さわぐ洋にも通ひ、
強き敵と搏ち闘ふ。
霧たち籠めし秋の夕に
雛呼ぶ我の聲を聞ずや、
肉あり 血ある我鷲の
殘酷といはるゝ心のうちに、
誠にもゆる情籠れり。

  露伴曰、既に巨巖を出して人世を叫ばしめ、ま
  た猛鳥を追出して巨巖を嘲らしめ、層々相次い
  で緒名の淵の~を描くの地を爲す、巨巖も猛鳥
  も其の~祠あるの地を能く調和して情景の關聯
  不離不即の間にある、欣賞すべし。

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祠にいつく~は何なる?
狐格子に 願文多く
結へる由緒 誰かは語る?
語るものなく 知るよしもなし。
山氣冷く 骨身に迫まり、
片破月は うら物凄く、
人氣なき場所、人なき夜半の、
寂びて靜けく 死せるが如く、
心さびしく、氣は いや滅入る。

搖ぐ灯かゝげ 祠によりて、
願文ほどき、ほどき讀めば、
覺束なげな婦人の手蹟、
いづれ切なる戀のねぎ言、
叶はぬ思ひ 叶へてたべと、
思ふ迫まりし切なる願ひ、
いづれか あはれ あはれならざる?

「深い思ひも届かぬ筈よ、
緒名が淵には底がない」
緒名が淵、緒名が淵!
この淵深く 底なしと聞く、
歌は底なき 底に歌はれ、
鈴は底なき 底より響く。
歌のぬし 淵の蛟龍か!
鈴のおと 底の~靈か?
祠にいつく~は何なる?

鈴の音 いや近づきぬ、
月暗く、風冷かに、
物凄く、氣はいやめいる、
淵の水 鳴りどよめき、
水けぶり 波立ちさわぎ、
霧こめて、明るく――暗く。

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    其三

   第四聲 執着の吟

鳥類の君公と誇れる汝、
酎ーの帝王と高ぶる汝、
血潮は通い 情思ありといふ、
短き生命に 其身を縛られ、
世の荒風に 攻め惱まされ、
希望に悶え、心を焦がす、
限ある身の 限ある汝、
限ある小さき力ある汝、
涯際なき 廣き虚空を翔り
低く卑しと 人の世笑ふ、
あはれなるかな!汝鷲、
子孫代はりて 生存ふといふ、
汝は汝、子は子の身なり、
孫は孫なり、曾孫は曾孫、
形骸ある汝、限ありて、
形骸ある汝、身は朽ちぬべし。
子死し、孫死し、曾孫も死せん。
世の荒き風 汝が群を攻め、
世の競争は 汝が家族を絶つ、
形骸ある 實に煩はしきかな!
身に宿假れる心は強く、
形なくして力ありと知れ。
限なき廣に亘り、
涯もなき長きに延びつ、
底ひなき深きに沈み、
盡くるなき變化を極はむ。
思あり、我はありけり。
思なし、我はなかりき。
息絶え 死して、形なく朽つ、
されど 思と願と強くば、
我あり、我あり、我は生存ふ。
見よ、今尚ほ願を運び
切なる心を叶へよと願ぐ。
戀に惱める乙女幾人!

  露伴曰、緒名の淵の~に至つてはじめて現ず其
  ~執着を本體とするに似たり願はくは其の本相
  を看ん

我もまた 人の世咀ひ
人の世を 怨み怒りき。
我はたゞ 弱き婦女、
天さがる鄙に 生ひ立ち、
顔よしと 誇る色なく、
品よしと つくる術なく、
山だちの 我は賤の女。
黒髪のみだれを梳かず、
野邊に咲く花、折りかざし、
荒栲の 太布のみ着て、
綾錦 身にはまとはず、
玳瑁の 装飾をつけず、
翠黛に 眉を畫かず、
紅粉に 膚をかくさず。
朝まだき 苔の清水に、
口漱ぎ 顔洗ふのみ。
たしなみと 人はいへども、
山だちの 容體つくらず、
山田鋤く 春の苗代、
向脛に泥かきよせ、
手肘に水沫かきたり、
すく鍬の土を身にあび、
桑の葉を摘みて蠶を養ひ、
薪樵り、炭燒きつくり、
馬を追ひ、市に炭賣り、
日光にはやけ、風に皹きれ、
顔あかく、膚燻ぶり、
男とも まがふ扮装、
猿とも 見るべき姿。
さはいへど 我また婦、
心には 優しき情、
情には 燃ゆる戀あり。

我が戀 清く 汚れ無かりき。
幼稚馴染の美しき戀!。
寺に通ふも手に手をとりて、
春さり來れば 蕨を折りに、
秋の朝は 茸あさるとて、
茅野 黄を帶び 風 身に沁めば、
笑みて翻るゝ栗實を拾ひに、
霜おく冬は 落葉を掻きに、
父母 野良に 働く折は、
割籠がよひも 二人して行く。

我は賤の女、君は山がつ、
我馬追へば 君馬に乗り、
我乗る時は 君馬を追ふ、
君草笛に息籠むる時、
谷に 尾上に 木魂の調べ、
我聲あげて追分節歌ひ、
調べにつれて鄙ぶり歌ふ。
春の朝も、秋の夕も、
君ならずして誰 友とせむ?。
たゞ友として睦べる日頃、
心 春日の如く長閑けく
憂きも 辛きも 知らで過しき。

我繭を養に絲績む時に、
回ぐる小車、回れる框に、
纏ふ生絲の思ひはながく、
繰れど たげども 盡くることなく、
小さき胸は 唯迫まり來て
鍋におどれる繭にも似たり。

絲を繰る手に 筆執り難く、
牛の角文字 書くよしもなく、
獨り抱ける 心の思ひ、
心のもつれ 解くる間なく、
絲繰る間も 君を思ひき。

  露伴曰、緒名の淵の~、式内の古き~なとなら
  てたゞ山村の一鄙女たる、意外に出でゝ面白し。
  又曰、山だちは猶山そだちといふが如し、例無
  き用語にはあらねど、山賊をも山だちといへば、
  何となく好ましからぬ語におもはる。

君を見ぬ日は 心むすぼれ、
君見る時は 唯面はゆし、
我が傍に來る君 辛く、
去るゝ時は 唯殘り惜し、
君快く語らひたまふ、
我は應答も ものうき思ひ、
笑むも面伏、泣くも面伏、
幼稚馴染に 何をはにかむ?
幼稚馴染に 何をつくらふ?
胸にむすぼれ、心に秘めて
我は思ひき、君をゆかしく、
人はこれをぞ戀といひける!。

あゝ戀なるか、さては戀かや!
戀は辛しと 人はいふなる、
實にや 辛きはこの思ひかな!。
我情思あり、君忖り知れ、
我に戀あり、君忖り知れ、
我は賤の女、君は山がつ、
賤の女の戀、何ぞ嫌はむ、
山がつの戀 誰か卑しむ?
戀へども 口はいふ勇みなく、
思へど 舌はたゞ言ひ澁る。

容姿醜き 我賤の女も、
戀にやさしき やつれはありき、
男にまがふ 力ある身も、
戀に惱める やつれはありき。

肥えて高かる 頬肉落ちて、
獨り悶ゆる 月あかき夜、
君がすさびの 笛の音 遠く、
斷れつ 續きつ 風のまに/\
聞けば いよ/\思はまさる、
思ひあれども 打ち明けずして、
苦しめる身は 何にか臆せる?

君が姿は山がつに似ず、
日光にあたれども 膚きよらに、
目は野兎の 優しきに似て、
露照る黒眸 光りすゞしく、
木樵るすさびに 鄙ぶり歌ふ、
聲はとほりて 節 面白く、
笛を調ぶる 小指は華奢に、
鋤を執れども 節高からず。
女好きする姿といはる、
聞いて嬉しく また 妬ましき。
秋の祭の 舞臺に君が
女形姿の 稱讃られしを、
聞いて嬉しく また 安からず。
形骸なき身の 今も忘れず。
アゝ嬉しかりしも一時の夢!
  樂しかりしもうたかたの泡!。

鹿毛駒追うて市の歸るさ、
人影絶えし 細崖徑に、
思ひ餘りて 耻かしげなく。
君に明せり 胸の思ひを。
鹿毛よ、汝も傍聽せし?
アゝ!我血潮 今もなほ沸く。
君青春の望ある目に
光満たして語りし言葉、
アゝ、忘られじ!
鹿毛よ、汝も傍聽せし。
嬉しかりしは この日の夕、
樂しかりしは その月の夜、
アゝ、忘られじ!
鹿毛よ、汝も傍聽せし?。

我が戀ふる如 君はまた戀ひき、
暖き血潮たがひに通ひ、
燃えたつ情 胸に行き交ふ。
市の歸るさ、月下の誓ひ、
星の妬みも、露の恨みも。

戀なればこそ 憂きを厭はず、
戀なればこそ 辛しともせず、
雪降る夕 山に炭やき
氷柱凝る朝 馬追うて行く、
市の歸へるさ、一向に樂しき!
暮るゝ山路の 假令危くも、
戀に活きたる 望あればぞ、
樂しき月日、抑もや幾何?
アゝ、嬉しかりしも一時の夢!
   樂しかりしもうたかたの泡!

人の妬みも 我は厭はじ、
人の嫉みも 我には嬉し。
男心は頼まれぬかな!
男心は情なきかな!
髯ある男の 誓 頼まれず。
力ある男の 心 頼まれず。
名と富みとには膽も融くべく。
權威の前に誓を捨てん、
容貌よき色に心うつさん、
腑ありとやいふ? 利には腐らん、
骨ありとやいふ? 色には朽ちん、
髄ありとやいふ? 名にはあされん、
男心は 頼まれぬかな! 。
男の戀は さめやすきかな! 。

  露伴曰、鹿毛よ汝も傍聽せしと重ねていへる面
  白し。又曰、一ト向といふことを、むけるとい
  へる、不可は無けれども悦ばしからぬ言葉のや
  うおもはる。

長者の娘、年 うら若く、
容貌うるはしく 美色ありと聞く。
紅粉あつく 面貌を飾ざり、
翠黛眉をうるはしく書き、
髪膏を得て 彌々黒く、
珠玉かゞやかし、玳瑁かざる、
妓爐の煙、香りをうつし、
綾の衣は 擧動なよかに、
みがく膚は 肌理こまやかに、
山だちならぬ人のみがける、
かざれる姿、誰も羨む。

我も婦人、かれも婦人、
我に情あり、君を戀へり、
かれも情あり、君を慕へり、
戀ふは女の罪とはいはじ、
情にへだてありとはいはじ、
麗姫にのみ美しき戀あらめや、
麗姫にのみ美しき情あらめや。
戀にけじめのありとはいはせじ、
戀へる婦人を我は咎めじ、
容貌に情を變へたる男、
富みに眼のくらみし男、
男心は 頼まれぬかな―、
男の戀は 褪めやすきかな! 。

我は男を 怒り咀へり、
我は男を 情なしと責む、
その秋なりき、君は失せにき。
月下にすさぶ笛の音聽かず、
君が姿を我が村邑に見ず、
我に無情君は、何處ぞ、
美はしかりし聲も得聞かず
絶えて會へりと いふ人もなく、
あたら男を 失へりといふ。
咀へる男 惡かりしとも、
慕ひし男 豈に忘れめや! 、
思ひ 思ひて 忘るゝ間なき、
我が戀人を怨むも 戀ゆゑ、
情なしと怒り 惡むも 戀ゆゑ、
今なしと聞き 我心 さわぐ。

長者の娘 君を戀ひにき、
黄金に誘ひ 榮華に釣りて、
我より奪ひ 寐取れるか、そも?
我が胸さわぎ 心もえたつ、
夜をこめ忍ぶ 長者の邸、
君を求めて 假令得ずとも、
戀の怨みを忍ぶべきかは!
辛かる思報はでや 止む?
此時 我は鬼女なりき、
此時 我は羅刹なりき!
怨みと妬み 怒りと嫉み、
瞋恚に燃えて 嫉妬に焦がれ、
怨恨に戰なく 肉 腕、
生命を賭けて結びし誓、
生命を以て報はでや 止む!?。

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    其四

月下に影あり、邸より出づ、
絹布の擦りあひ 留木の香り、
風に搖めく 頭の飾り、
縺れし頭髪の毛 はら/\戰ぎ、
紅絹の裳裾に 雪白の脛、
寢巻姿ぞ仇しどけなき。
礫 岩角 厭はず洗足、
肉は壞れて 血潮したゝり、
招く尾花に 心も留めず、
茨肌をやぶれど知らず、
後見かへり 見かへりつ 往く。
やつれし面貌 たゞ青白く、
歩み たと/\゛ 踏みさく 茅野、
頭 うなだれ 色に艶なく、
仰げば天空に 片破の月、
曇る涙の 瞼に溢ぶれ、
吐息つく時 力や失する?
憂きに閉され、悲みを抱く、
堪へぬ思ひや 胸中に宿れる? 。

凄き光りの 月は傾き、
風身に沁みて 露繁く散る。
芝踏み分けて 登る山徑、
谿に湍流の音 物凄く、
魔~の呼ぶか 梟の聲、
冷えて寂しき 猿の叫び、
風に玉散る 露けき尾花、
ハラ/\ハツト 落葉のあらし。
塒鳥は夢に魘されて鳴く。
思ひ迫りし身か 怖れなく
辿りつきたる一座の祠、
杉の木立は 月光を黒め、
封せる苔は 露滑らかに、
玉垣頽れ 蟲の音悲しく、
~寂びませる 社壇にかゞみ、
階段の根に 額づき祷る。
木立吹く風 寂びて靜けき。

我 翠蓋と かざせる杉に、
躱れて聽けば 身に沁む憐れ! 。
怒は融けつ 妬みは失せつ、
怨み忘れて ひた泣きに 泣く。
我に勝りし娘のあはれ! 。
我に勝りし娘のつらさ! 。
憐身に沁み 胸は迫りて、
思はずせき來る涙は止まず、
しやくりあげては ひた泣きに 泣く。

*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*

巖頭に立ち 見下ろす潭に、
碧玉融けて 波は搖がず、
魔~住めりと 聞ける深潭。
巨大の鬼の 開ける口か?
暗く窪みて 星影 すごし。

*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*:..:*

長者の娘 あはれなるかな!
死に臨む今の 最後の述懷!
聞け、すさまじくあはれならずや、
誰かは泣かぬ! 誰かは泣かぬ! 。

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君 戀人の ある身とは
豫て知れども 思ひはやまず、
叱れど去らず、煩悩の犬!
戀に狂へる 我が心には、
君が姿の 消ゆることなく、
戀に惱める 我が心のうち
悶え ひまなく 身をさいなめり。
長者の娘と生れし怨恨!
名門の子と生れし悔み! 、
我 眞心に君をのみ戀ひ、
燃ゆる思ひに身をやつせども、
人は黄金に 買ふ戀といふ、
財寶に誘ふ 浮氣とぞいふ、
權威に 我 君を誘はず、
富に誇りて戀を強ひんや。
されども 人は 富故といふ。
我名門に 生れし怨み、
誰れかは戀を 強ふるとはいふ?

妾に色あり 美しといふ、
容貌に 誘ふ 我戀ならず、
我賤の女と 成り果つるとも、
我は厭はじ、君喜ばゝ、
我 燒小手を面にあてん、
憂きも 辛きも 戀に忍ばむ、
力なくとも 薪も樵らむ、
馴れぬ手業に 畑をも鋤かむ、
綾の衣を 襤褸にも更へ、
膚に 荒らき 風も厭はじ。
二なき生命も 君に捧げん。
されども悲し、悲しきかな!
切なる思ひも 君 肯なはず。
我戀 永久に 遂ぐる際なく、
我戀故に 狂ひ死ぬべし。
戀の惱みを あはれとおぼせ、
戀のやつれを あはれとおぼせ。

戀に惱める 妾をさいなむ、
アゝ、祠~の 絶えせぬ世かな!
領主の殿に 垣間見られて、
妾を側室に 召したまふとよ。
父は喜び、家族は誇る、
權威に やはか 戀を捨つべき?!
權威に 豈に 戀を更へんや?!

何故父は 喜びたまふ?
家族は 何を誇りとはする? 。
形骸を飾るを 名譽とやする?
精神に殺し、何をか樂しむ? 。
君 我戀を 斥けたまふ、
切なる思ひ 屆くよしなし、
我は唯戀ひ、悶え苦しむ、
惱み 煩ひ 思ひくづをれ、
父はさいなみ、家族はなだむ、
權威嵩に 假令責らるゝとも、
呼吸あるきはみ 戀を捨てんや!?
責めに責められ 假令死ぬるとも
爭かで この戀 思ひ斷つべき? 。
君在すきはみ 妾は生くべし、
よし 戀遂げず 思ひ遂げずも。
君 我生命! 、君 我が生命! 。
生命と縋る 君は情なく
拒む要求は いや迫り來る。
堪へ得ぬ思ひ! 、苦しむ悶え! 。

妾戀ありと 知りにし領主、
何ぞ情なき! 何ぞ殘酷きや! 。
君を奪ひて殺せりと聞く! 。
我が爲 君は 失はれにき! 、
我が爲 君は 失はれにき! 、

妾胸迫まり、わが心病む、
人 食のみに 生けるものかは? 。
人 富をのみ 願ふものかは? 。
我心より 生命を奪ひ、
我生命なる戀を劫める、
君が怨恨は 我が怨恨なる!
君が死せるは 我が戀の爲め、
無限の嘆き 何ぞ堪ふべき?!
無限の悲しみ 何にか喩へん?!。
此怨恨 何ぞ忘れん!
この恨み 何日か報いん! 。
權威に怖づる 我とや思ふ? 。
殘酷に怯む 我とや思ふ? 。
領主 何なる? 唯土地の主、
生命の賊よ、戀の盗賊、
形骸を殺し、戀を奪へる、
生命より戀を劫める賊よ、
心に人を殺せる賊よ、
權威 何なる? 何 怖るべき? 。
我死を以て報はでや 止む?
か弱き婦女の 決定し精神、
怨みを抱く我を憐れめ。
靈ある御~、あはれとおぼせ! 。
戀を求めて 戀を得遂げず、
權威嵩に 戀を奪はれ、
意の的を 奪はれし身を
生存へて何 樂しかるべき?
否、此恨み 何ぞ解くべき? 。
戀人の爲め 怨める我を
あはれと思ぼせ 靈ある御~! 。
御~あはれめ! か弱き婦女ぞ。
凝りに凝つたる怨恨報いん。

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風に亂るゝ 尾花かき分け、
洗足壞れて 苔 朱に染み、
血走る眼に巖頭を攀ぢ、
噛みきる唇 滴たる血潮、
突立ちあがり、鷲破 飛ぶべく。
逆立つ眸 異様に輝き、
亂るゝ黒髪 肩よりすべり、
燃え立つ焔が 深紅の裳、
雪の脛には 血潮の斑點。
戰なく腕、握ぎる掌、
ホツト吐く息 火焔の如く、
顔青ざめて 灰色勝ちに、
眉はひそみて 肉わなゝく。
曉月凄く 淵にながれ、
葉末の露は 翻れ 閃めき、
梟の聲、塒鳥のうめき。
青き尾を曳き 星 二つ飛ぶ。

怨みも忘れ 妬みも融けて
憐れは迫り ひた泣きに泣く。
すゝりあげたる 我が傍に
嘶き立つたる 鹿毛の駒。

鹿毛よ、聽け! 。
我が戀人は 失はれにき、
我が怨みし人 誠心ありき、
戀の敵と 咀ひたる人、
我に勝れる 惱みはありき、
われに勝りて 苦しみありき。
人の世の厭はし 人の世の惡くし、
權威ある人 惡むべきかな! 。
權威嵩に 戀 遂げんとし、
權威嵩に 戀 もてあそぶ、
わが戀人は 犠牲とはなりぬ、
人の世辛らし 人の世情なし。
鹿毛よ 汝も人の世咀へ! 。

わが恨み、わが惡み、
我世の中の か弱き婦人の
戀に惱める ものを救はん。
戀にやつれし ものを護らん、
權威かさに 戀 遂げんとし、
黄金を餌に 戀 釣らんとし、
戀の至誠を たゞ弄ぶ
たはれ男を我は咀はん、
誰れか 婦人を敢果なしといふ? 。

聽け、鹿毛よ! 。
汝も穢れし其身を捨てよ、
われは形骸を淵に沈めて
靈 永久に 人の世咀ひ、
われ亡骸を水に融かして
靈 永久に力をあらはし、
戀に惱める女に 戀を、
思ひやつれし女に 戀を、
叶はぬ戀に悶ゆるものに、
戀を遂げしめ 喜ばしめん。
鹿毛よ 汝も我と死ねかし。

底なき淵の 靜けき都、
水の底なる 樂しき住居。
長者の娘 淵に沈み、
われ 賤の女も淵に沈み、
鹿毛よ、汝も淵に沈み、
榮華に誇る人の世咀ひ、
權威たのむ 人の世咀ひ、
財寶に眩む 人の世咀ひ、
底なき淵の靜けき場所に、
水の底なる楽しき郷に、
わが戀人を われは追はなん!

誰か、婦人を敢果なしといふ?
靈 永久に~止まりて、
月の傾く空に 鈴の音、
猿の叫ぶ夜半に 歌はん!
われは望まず 浮世の榮え、
よし 三熱の苦しみありとも、
よし 熱湯を身に濺ぐとも、
よしや 猛火に身を焦がすとも、
戀しき君の跡を追はなん!
いざや 鹿毛よと、ヒラリと乗れば、
鬣ふるひて鹿毛は嘶く。

天を仰ぎ、月 さし招き、
鬢のほつれの髪をそよがせ、
鐙蹈張り、怨みの眼。
榮華を咀ひ、權威を咀ひ、
人の世咀ひ、財寶を咀ふ。
招く手に散る落葉の嵐、
どつと山風 梢に喚き、
魔~の叫びすさまじく鳴り、
梟は肉に飢ゑて呼び、
猿は月に冷えて叫ぶ。

長者の娘、いざや 共にと、
切り立つ崖に馬を乗りあげ、
手綱かい繰り躍れる刹那!
巖頭離れぬ、長者のむすめ。
怨みは盡きじ、永久なる! 。

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水烟り、波たちさわぎ、
鈴の音、月の夜毎、
歌の聲、月の夜毎、
緒名が淵、緒名が淵、
怨みは深し、底なしの淵。

  露伴曰、末節五行、言辭の絢爛無くし
  て、しすも意遠く情總し。悦ぶべし。

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    其五

巨巖に 千歳の 苔衣あり、
渓流に 不斷の 皷のしらべ。
高く削れる懸岸端に
年々開く 山吹の花、
黄金の色は 風に搖めき
花片に 水に 輕々と浮く。
暗き緑の 樅は 枝古り、
赤みばしれる 杜松 茂り、
岩の虧隙のなに忍ぶ草、
巻柏青く 岩角かくし、
紫匂ふ 鬼薊草、
巖の上下 まつはる蔓、
夕闇染めぬく葛花 白く、
下には碧し 底なしの淵。
崖を飛ぶ瀧 白布さらし、
白龍跳り、銀線みだれ、
飛沫散る時 霧 舞ひ起り、
草の葉末に 白玉 宿る。

空燒く雲の 峰つくる時、
熱沙焦がれて 烟を起し、
獸 樹陰に喘ぎをやめず、
鳥は虚空に 翼を搏たず。
樹は葉を垂れて 熱きに弱り、
草は萎びて いきれ 香 高し。
暑に惱むもの 來り見よ、
熱に倦みたる 人來て憩へ、
此に新しき生命を得べく、
朝の汝に 甦るべく、
松に さざんざ(女偏+風)の 聲を樂しみ、
淵に鼕々の 水音を喜べ。

蔦紅葉散る 秋の夕に、
烏瓜赤く 崖に殘り、
欅の黄葉 黄に榮えて舞ひ、
錦木赤く 實を止めて散り、
淵には映る 黄葉のにしき、
淵を埋むる 落葉のあらし。
隠れし巖 あらはに峙ち、
骨立つ木々は 風に喚けり。

玄冬の朝、飛沫草に凝り、
白珠の飾り 枝に貫き、
白き管玉 朝日に輝き、
白き曲玉 碎けては散る。
素雪の夕、吹雪は亂れ、
巖角蔽はれ 岩ばな隠れ、
眞白き郷に 緑濃き淵。
卍字の狂ひ 梢に花咲き、
巴の舞ひは崖に文字書く。

誰かは此處を よしなしと見る? 。
天の巧みは 此處に誇られ、
地の怪しさは 此處に衒はる。
底なしの淵 何ぞ靜けき! 、
高き巖の 何ぞ崇高き、
千歳の巨巖 姿を變へず、
不斷の皷 音を 絶えず鳴る。
誰れかは否む? 誰れかは否む? 。

崖の上なる祠は朽ちぬ。
扉けし飛び、檐傾きぬ、
梁くじけ、棟は折れぬ。
滅ゆべき祠新しくなり、
朱の玉垣 色鮮やかに、
棟に鰹木、千木、高知りて、
祠朽ちては 三度 新に。
春の祭禮、秋の祭禮
願言運ぶ乙女 幾人?
願ひ叶ひし乙女 幾人? 、
日邁き、月過ぎ、年は幾年? 。

誰か思はむ?  誰か料らむ? 。
秋の夕の蒸し暑つき夜半、
星鮮かに輝ける天、
風なく澄みて、高く 清けく、
猿の叫び 膓を斷ち、
鹿の鳴き聲 尋常ならず。
この夜 星飛び そら物凄く、
うごめく如き怪しき呻り、
山に答ふる どよめく響き! 。

俄然! 天地も崩るゝ響き、
塒鳥さはぎて 羽搏き 高く、
獸驚き、跫音 亂る、
水なき谷に 流れ漲り、
瀧なき淵に 水たぎ飛べり。
松捻れ折れ、巖は碎け、
懸岸崩れ、淵は埋もれ、
瀧なく――淵なく、
岩なく――樹なく、
草なく――苔なく、
底なしの淵、今は 何處ぞ?
聳えし巖、今は何處?
瀧りし瀧は 今は 何處ぞ?
常住と見し淵は埋もれ、
不變と見えし巖は崩れ、
緒名が淵、誰れか今見む?
緒名が淵、今は何處ぞ?

底なしの淵 岩に埋もれ、
常磐の老松 折け仆れぬ。
朽ちにし祠 たゞ新まり、
戀の願事運ぶ乙女等、
今も絶えせず、今も絶えせず。

人の思ひ、人の咀ひ!
切なる願の 業の力、
執着永く 浮世に殘り、
今も絶えせぬ乙女の願ひ、
緒名が淵、埋もれたりとも、
執着 永く 世を咀ひ、
戀 世の中に絶えぬきはみは、
思こ殘らん、永業なる! (完)