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大塚甲山

おおつかこうざん(1880-1911)

青森県上北郡に生まれる。本名寿助。1896年、郵便局通常雇員となる。1897年秋以降、雑誌
「文庫」に投稿を始める。投稿は1902年まで続く。1898年、常陸の文芸誌「青年詞壇」に投
稿。地方文壇での活躍も目立つ。1899年郵便局を辞す。徴兵検査を受けるも近視にて不合格。
9月上京。1903年、森鴎外と知る。翌年、困窮の果て乞食となり 東海道を下るが東京に帰る。
鴎外に救いを乞う。日露戦争始まるも非戦論に共鳴。社会主義協会に加入する。坪内逍遥の
好意により「新小説」に反戦詩『今はの写しゑ』を含む 詩4篇が掲載される。以降同誌に詩
文が連続的に掲載されるが弾圧が強まり社会主義協会は結社を禁止され、再び困窮し正宗白
鳥の助力で稿料を得る。1905年帰郷。随想が文壇で好評を博すが翌年文壇と絶縁。1910年私
生活の荒廃目立つ。5月「
大逆事件」の検挙開始。10月 上京し大逆事件の裁判を批判した詩
『斑人の結晶』を書く。1911年喀血。幸徳秋水を悼んだ短歌 詩を書く。3月病状悪化して肺
病が確定する。5月帰郷し6月に死去。/「評伝 大塚甲山」より

大塚甲山遺稿集より

 

【今はの写しゑ】

有明の月影淡く、
ありなれ江の上に消え、
東の空は紅(くれない)の、
雲ぞ渦(うずま)く朝朗(あさぼらけ)。

天の平和に引きかへて、
地は今修羅の巷なり、
常世の岩根裂けしかと、
まがふばかりの砲(つつ)の声。

勇み勇める日の本の、
のーますら猛男は累々と、
たふるゝ友を踏み越えて、
躍り入るなり敵の陣。

霰の如く降りしきる、
丸(たま)を犯して崎嶇(きく)を攀(よ)ぢ、
難なく塁(とり)乗りとれば、
哀れ、無惨の血の流れ。

満てる屍の其中に、
若き大尉の傷つきて、
黄金の髪をみだしつゝ、
あえぎたふるゝ岩の上。

玉の口よりそゝぎ出る、
己の腕の血を啜り、
咽(のんど)うるほす其様は、
絵に見る鬼の如くにて。

かくと見るより情知る、
少尉井上健吉は、
近く進みて背をし撫で、
露語をあやつり語るらく。

「あゝ勇ましき我友よ、
世にもすぐれし名誉なる、
君が末期に参らせん、
我吸筒(すいつつ)のこの水を。

君も噂に聞きにけん、
大和の国に咲き匂ふ、
一重桜の花の香を、
名残の胸に賤(そそ)げかし。」

敵の大尉はこをきゝて、
心のまゝに嚥み下し、
少尉の手をば握りしめ、
泪にくれて一言を。

「あゝ、味方とてなど如(し)かん、
君が情の花の香に、
今はの我はこを謝さん、
心ばかりの贈りもの。」

かく言ひさしてとり出だす、
肌の守の写しゑは、
笑を含み団欒(まとい)せる、
あはれ和楽の一家族。

これに添ふるは増荒男の、
魂と称ふる剣なり、
腰より釈(と)けばはらはらと、
落つるは熱き泪かな。

少尉はこれを収めつゝ、
「心安かれ、我友よ、
君がかたみの真心は、
いかで忘れんとこしへに。

敵と味方と分れつゝ、
矢丸(やだま)の中に見(まみ)ゆれど、
古里恋ふる心根は、
我たゞ君にひとしきを。」

大尉はこれをきける時、
心の弦(つる)やゆるみけん、
がはと仆(たふ)れて碧なる、
眸をとはにとざしたり。

「南無」とばかりに弔らひて、
泪を揮ひ立ち上り、
後に心をのこしつゝ、
またもや進む我が少尉。

剣の光閃めけど、
蔭には燃ゆる情あり。
西と東と隔つれど、
かはらぬものは人心(ひとごころ)。

明治三十七の年、
五月朔日(ついたち)暁の、
九連城の山峡に、
とめし恨を誰か知る。

あはれやのこる妻と子は、
モスクワあたりの夕間暮、
人の失せしも知らずして、
恙(つつが)なれと祈るらん。

世界の人のやはらぎを、
みだすはげにや筒の声、
為(す)まじきものはいくさなり、
為まじきものはいくさ也。

「新小説」 1904年7月1日発行

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(註)
 ■崎嶇(きく)=山道のけわしいさま


【斑人の結晶】


【人の業を褒むるうた】


【紙の匂ひ】


【鳴戸】


【無題】

人はつひに一人である

億万の数はありともすべてかゝはりのなき他人ではないか

日は今西に沈む 紅の梅

嗚呼彼女もまた寂しくはないか?


【無題】

日は静に屋根瓦を照らし
立ち上ぼる朝餉のけむり
初夏の霞は尚
高み高みをぼかす。

参差たる家々の間に
若葉の血管のはちきるゝばかりなるを見よ
あゝ緑をゆさぶりて
宇宙の中に溢る。

埃と、黴菌と、煤けむりの中に
尚この生命の踊る見れば
人生の濁れる流れの
底にまた栖家ありぬべき。

1911年4月21日

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(註)
 ■栖家=住みか