【よろこびの歌】
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海はわが眼にのぼつて来る、
海はわが手に溢れて来る、
海はわが足に湧き返つて来る、
海はわが心に蒼穹(そら)一杯の喜びとなつて満ち溢れて来る。
廣々として涯もないびろうどの碧、
その上を柔らかに滑つてゆく微笑の反響(こだま)、
天上から来たのか、
嬰児の顔からうつされたのか、
晶玉のやうに純潔な輝きが
匂やかな處女の胸とも見えまがふ
ふくれ上る海の波また波に入りまじる。
見渡す限り笑ひであり、
咲き亂れた花束であり、
燃えさかる焔であり、
火花を散らす電光(いなづま)である海の白晝(まひる)の精神よ、
おほらかな風を一杯に孕んで
眞一文字に進んでゆく、
涯なき自由の未来をめがけて。
眼に見る世界は一隻の和蘭陀貿易船、
一羽の眞白い鴎である、
聞ゆるものは風と海のうなり、
海底の幾億の魚類(いろくづ)の唱和する聲々、
私は觸れ、嗅ぎ、味ひ、感ずる、
あらゆるものが喜びに酔ひ、押し黙り、
底の底から押しあげる感謝の心を恍惚として抱きしめてゐるのを。
光りの海に乗り入るもの、
世界はノアの箱船のやうにただ一つ、
次第に遠く、朝から正午(ひる)へ進んでいく、
未来よ、過去よ、現在よ、
常に常に現在である過去よ、未来よ、
わが船を押しあげろ、
盛り上り、盛り上り来る紺青の歓喜の波に押しあげろ。
あらゆる岸はうしろに見捨て、
あらゆる土地はわが眼にない、
白晝の風は海を一杯にふくらませる、
そのおさへ切れない偉大(おほき)な力は
海の喜びだ、幸福だ、美しさだ、
海風よ、吹け吹け、刹那もやまずに吹け、
まんまるい鏡のやうにふくれ上る海の素晴らしい息吹きを私は愛する。
海は空にうつり、
空は海にうつる、
その間に波打つ無限の光、
光のまつただなかに浮かぶ船、
幸福は船を導き、
歓喜は船を押しあげる、
きらきらと輝く魚類の背に乗せて。
船の軸に溌剌と躍る鰹
光に酔ひ、幸福に酔ひ、
幻想の碧い巨浪(おほなみ)を超えて空に飛ぶ、
大空には未知の希望の小鳥が一面に数知れず飛び交ひ、
世界を取りまき、
遠くまた近く、海と空と、揺り上げまた揺りおとし、
晴れ晴れと唱和する生命(いのち)のよろこびの歌。
(1924.5)
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(註)■=魚類(いろくづ)=鱗=魚
【智慧】
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白晝(まひる)の渚を唯一人歩いてゆく、
足もとに砂は崩れ、
海草はさらはれ、
純白の貝殻はきらきらと波の下に消える。
大空の下の荒磯を歩いてゆく、
沖には難破船の帆柱(マスト)が揺れ、
かなたの砂丘の上にたはむれる子供等は、
息を限りに叫ぶけれども、その聲は悉く風に奪はれてしまふ。
海鳴り吼える断崖の岩から岩へ歩いてゆく、
ゆるやかに飛んでゐた鴎も見えなくなり、
蒼穹(あをぞら)ばかりが艶々と美しく、
重々しく、輝やかしく頭の上に蔽ひかぶさる。
私は歩いてゆく、眞つ直ぐに歩いてゆく、
足下の巌にぶつかる大浪は
烈しい水沫(しぶき)を顔に吹きつけ、
沖からの暴風(あらし)は眞白の浪頭に乗つて海の上を支配する。
死は海の上を駆けめぐり、
私は黙々として静澄な永遠の光を見てゐる、
鹽(しお)辛い死の息吹きは心の面に吹きつけるが、
澄み切つた生命の(いのち)の眼は無限の蒼穹(そら)を見つめてゐる。
海と地との諧調に耳をかたむけ、
生と死との歌に揺すられて、ぱつちりと、
揺り籠の嬰児のやうに見開く眼は、
益々深く吹き荒れる暴風(あらし)と浪を眺めながら、
無限の蒼穹はその上に廣々と擴がり、清く、明かに、涯しもない。
(1924.5)
【林のなか】
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徐々(そろそろ)と林間の落ち葉を踏んで
あてもなく歩いてゆく楽しさを
心深くも味ふ身とはなつた、
落莫の秋、
孤獨を喜び、喧噪を憎む、
自ら求めた流謫の境涯を
吹きすさぶ木の間の風にさらして
今更何の思ふこともなく、
五つの官能を開け放し、或は閉ぢる。
此の道は喜びでなく、悲しみでない、
その昔(かみ)戀人達が
ただ手を取り合つて
堅い握りしめに互の熱情を通はせながら、
言葉もなく歩み去つた
しめやかな思ひ出の木犀の香りが
わびしげに漂ふ、
鶸(ひわ)が鳴く、
遠く、林の奥深く、落ち葉の音しげくわが心を打つ。
嘗つて詩人は茲(ここ)を通り過ぎつつ
盛り上る樹々の春に酔つて
生命の歓喜(よろこび)と悩みとを心情(むね)一杯に受け、
哲人は限りない幸福の涙と共に世界を諦観して木の下に獣坐し、
聖者は朗らかな愛に燃え
額を輝かして帰つて行つたが、
現在(いま)寂莫の秋深い想念の世界にあって
私はただ木ぬれ吹く風を現實の訪れとも、神の跫音とも聞く。
私を満たすものは
霧のなかの燈下の如く
恍惚として精氣溢れ、
愁ひに似た楽しさと痛みある懐かしさが
仄かに燃える氣持である、
足は落ち葉を踏み、
手は枯れ枝を折るとも、
ここにある凡てのものは我であり、
虚空のなかに厳かな光を放つて
咲き誇る純白の花房(はな)の如く静まる私。
忠實な犬はつながれながら近づく未知の人の跫音ほ聴き、
魯鈍な猫は雛小屋の屋根に眠つて
消え去つた小鳥の匂ひを追ひ、
高慢な雄鶏はごみだめの上にのびのびと歌つて居るが、
之れ等凡てを崖の下遥かに見おろして
林の道は朗かな明るさに黙し、
木の間洩る日差しの柔い接觸が
幼児のやうに私を慈しみ、
落ち葉のなかに秋の喜びを心ゆくまで受けさせる。
流謫の身は反つて冷やかに
透徹な空の下に落ちついて
も早や思ひ煩ふことなく、
いたづらに枯れ葉の、一つ一つと
美しく舞ひ落ちるのを眺めるのみ、
吹きすさぶ風は空高く渡り、
時々啄木鳥の鋭い聲に呼び覚されて眺めても、
梢ばかりは立ち騒ぐが
土を踏む足はゆるく単調に、何時までも心深い寂莫の世界を歩む。
(1924.11.2)
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(註)■落莫=らくばく=ものさびしいさま
■流謫=るたく=罪により、遠地へながされること。島流し
【流れの上に】
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ゆるやかな流れの上に
眠るものは夜の心、
無限に暗い爾(おまへ)の意志である、
一切のものは影を消し
過去も未来も現在も時は永久にとまり、
水のみひとり幽に息を通はす、
光よ、絶對よ、
爾は此處になく、彼處になく、
はた何處にもある、
聲の絶えた生と死の完全せる永久調和の音楽よ。
空はむなしく
頭髪に灰をかぶり
喪にふくしてゐる印度の寡婦の如く、
沈黙ばかりが我が国土の王、
響きもあらぬ悲歎と苦悩の式楽を奏でよ、
やがてはそれぞわれ等の歓喜となるであらう、
唯一不變の希望(のぞみ)は斯くて在り、
嘗つて在りし如く限りなくあること、
目には見えぬが水は流れ、
時はとゞまるこの一瞬、花の如く晴れ晴れと空が開いて輝くこと。
忽ち起る心の目覚めよ、
鐘は鳴る、鐘は鳴る、
世界の全面一時に明るく、
無限の光に爾の意志は燃え、
一切のもの形を現はす、
数へられる鐘の音の
一つ一つに過去を呼び返し、
未来は浮かび、現在(いま)はあらゆるものの上に在り、
生と死の絶對は二つに分れて飛去つた、
翼ある音楽よ、時よ、爾の道を駆け廻はれ。
空はきらきらと星の焔にゆれ、
花の如く香はしい薫香(にほひ)が降る、
静に流れゆく水よ、
却初の日の運行そのまゝに動く尊厳を禮拝する歓喜の歌、
彼の鐘を身に受けて、
平和なるものは戦へ戦へと聞き、
戦へるものには平安(やすら)げ平安げと響くであらう、
微笑める聖なる御母、爾は遥に立ち、
両手を擴げてかき抱く、一切のもの、見、聞き、且つ感ずるもの一切を。
(1924.12.31)
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(註)■=却初=ごうしょ=この世の初め
【白晝は澄む】
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細々と鳴く蟲の
白晝(まひる)幽かな聲は
わが惱みの底から
滴り落ち
氷のやうに透き通る
清らかな泉の音だ、
私は静かに聞き惚れ
自我を失ひ
ひとり煙草の葉を噛む。
苦惱は一本の植物のやうだ、
わが生命(いのち)の涯なき奥に
根は喰ひ入り
力強く枝を張って
私と共に生長する、
生命は葉となり、花となり
幹を蔽ひ、枝を飾るが、
うらがれの秋、
酷烈な風吹きすさむ冬に
悉く葉は落ちて
木はあかはだかにむき出され
苦惱の枝々鋭く痛む。
衰へ疲れた私の氣力は、僅に
かなたの山陰に浮く
眞珠雲に貌をむけ、
日は尚も夏の姿のまま
明る過ぎる光と熱を空に漲らし
赫灼として白晝は暑いが、
わが心ばかりは暗く閉ざされ
夜の如くしめやかに
しみじみと蟲の音は鳴きつづく。
一本の苦惱の木は
生命の本(もと)、
絶對の意志から生れ、
動き、現はれ、渦巻く、
ひとつの動きそのものだ、
しんしんと惱みは深く、底も知れ
わが心の奥に喰ひいれば、
われ等が生命の生命、意志の意志、
あらゆる力の源なる
限りなく美しい絶對の光明が
雪夜の月光の如く、茲(ここ)、苦惱のなかに
鮮やかな相(すがた)を現す。
かぼそい蟲の聲は
光のうづまく白晝の底に
次第に深く滲み入り、
眞つ闇に塗りつぶされた
わが生命はそのまま
燦爛と無限の光明に輝き、
惱みは清く透き通る歓喜の泉となる、
わが煙草の煙
ゆるく棚びく
空のもなかに秋はおとづれ、
爽やかな蟲の音よ、
安らかに力溢れて、
劒の上の獨楽の如く白晝は澄む。
(1925.9.11)
【菊】
菊の香や奈良には古き佛たち ばせを
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純白の菊の花、
秋の日ざしのなかに
燦々と冷えてゆく眞珠色の菊の花、
山鳩の聲は大空に散り、
孔雀は尾を擴げて静かにからだを廻す、
青い時針(はり)が正午を指さし、豊かに時は満ちる。
梟はいつまでも杉の梢に
目をつぶつて黙して居る、
菊の香りは遠い世の光を照り返し、
人の心を幽かに打つ、
菊の花にうつし出されて来るその母の記憶(おもひで)、
古代(むかし)の人形の朧かな面影。
人形の額から菊の香りが匂ふて来る、
緑の髪からは昨日が
つぶらの瞳からは明日が仄かに匂ふて来る、
限りなく老いを重ねる菊の花、
死を越えて新しい日のなかに誇りかに
人形はいつまでも年を取らない。
幽かな額にうつる淡い日ざし、
人形は花のなかに埋もれてしまふ、
山場とは巣に帰り、孔雀の羽根を収める時、
菊の花は人形の貌に寒々と冴え返る、
華やかな過去の日を呼び戻し、將、
遠い未来の感情をぢりぢりと焼きつくす純白の菊の花・・・
(1933.12.24)
【風】
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風が逞しい雄辯を以て木々に物語り、
日が無慈悲な齒を當てて氷河を噛む、
稲妻は無限の暗を切り裂き
何ものも見えぬ空間の根強く焦げる匂ひがする。
なんとわかり難い言葉だ、この無類の早口と吃音(どもり)とは、
人間に話しかけようともせず押しのける、
風は他のあらゆる自然の聲を運ぶ報道者、
山や丘や森だけがそれをはつきりとのみこむ。
だが人間の耳は風のない風を無限に捕へ、
絶對の空間が微塵にくだける金剛石の破片の一つ一つを聞き分ける、
宇宙の意志の暴風(あらし)、風の風、
人間こそ風だ、何ものにも關らず風は吹く。
(1934.10.23)
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(註)■金剛石=デイヤマン=ダイヤモンド
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