「荷風全集 第20巻」
『偏奇館吟草』(1943年10月編)より
「はしがき」
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嗤ふなかれ怪しむなかれ。
この集をひらきみる人。
この集に載せたる詩篇。
思出の言葉なきものあらざることを。
物一たび、去ればかへることなし。
かへらぬものはなつかしからずや。
あかるき今日の昼とても
暮れなばたちまちむかしなり。
休まざる時計のひゞきは
忘るゝな。思出でよと。
絶間なくわれにぞ告る。
思出は命の絲につながれし
珠のくさりに似たらずや。
命の糸のきるゝ時
まろびて珠は砕くべし。
愛でよ惜しめよ。思出を。
玉手箱のふたあけて
珠のかざりを取出す乙女の如くに
マルグリツトの如くに。
【夏うぐひす】
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樫の葉がくれ夕まぐれ。
夏うぐひすのつかれし調
何をかうたふ。
とりのこされて人里に
うらぶれて行くかなしみか。
かへりそびれし故里の思出か。
老を歎かん。われもまた。
親しきものは皆去りぬ。
生きながらへてわれのみひとり。
むかしを慕ふ。
それかあらぬか
夏うぐひすのつかれし調。
樫の葉がくれ夕まぐれ。
【旧調】
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別れて後のいくとせ
またの逢瀬この世にて
かなはぬわけを知りしより
悟の道をまなびしが。
さとりすませばまた更に
身にしみ/゛\とさびしさの
堪へもやらねばそのむかし
いまだ悟らぬ宵ごとの
悩みもだえのさてなつかしと
せめては夢をたよりにて
夢のあふせをゆめみけり。
命あれば憂きおもひこそ絶えやらね。
さとればさびし鐘の声。
さとらねばつらし雨の音。
これが浮世。これが人の世。
【絶望】
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絶望は老樹の幹のうつろより深し。
幾年月の悲しみの幾年月の涙。
おのづから心の奥の底知れず
うつろの穴をうがちたり。
されど老樹は猶枯れやらず
残りし皮残りし骨に
あはれ醜き姿を日にさらす。
屈辱にひしがるゝ老の身は
義憤にうごめき反抗に悶えて
あはれいたましき形骸を世に曝す。
死は救の手なり虚無は恵なり。
吹けよ老樹にはあらし。
人の身には死よ。
されど願ふものは来らず
望むものは去る。
あはれあらしと死よ。
【暗き日のくり言】
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生きてかひなき身と知りながら
なにとて我は死なで在りや。
人の世には美とよぶもののあればなり。
美はいづこより来(きた)れるや。
美は詩篇より来(きた)る。
詩篇はたくみなる言葉より来る。
巧なる言葉はいづこより来れる。
そはメロデイーより来る。
メロデイーはいづこより来れる。
そは悲しみより来る。
悲しみは人の本性より来る。
本性は伝統より来る。
伝統はいづこよりか来れる。
伝統は絶えざる人の世の流より来る。
さればわれ
生きてかひなき世と知りながら
今も猶死なで在り。
冬の日はさむし
冬の日はくらし。
われに与へよ。
わづかなるあたゝかさ。
つかのまの光を。
【拷問】
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人の世は牢屋(ひとや)なり。
鬼来りてわれをさいなむ。
わが膓(はらわた)いたみてきれもやせむ。
わが胸は裂けむとし
わがかしらは砕かれなむ。
わが五体或時は氷のごとく
またある時は焔のごとし。
白衣(びやくえ)の男女(なんによ)おもてをつゝみ
あまた来りてわれを捕へ
刀もてわが肉(ししむら)を裂きぬ。
針つきさして薬液を
つぎこむ時もあまたゝび。
わが髪常に切られて捨てられつ。
冬くれば猿ぐつわ、
夏くれば蚊帳のひとや汗の釜ゆで。
あはれ審判(さばき)の庭に
何聞かんとてや
われ等の神よ
などかくまでにわれをさいなむ。
【無題】
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君心ありてわれを憐れまば
冀(ねがは)くは来りてわが門を敲(たゝ)くなかれ。
われ一人住むといへど
幾年月の過ぎ来しかた
思出の夢のかづ/\限り知られず。
夏冬に散る窓の落葉は
言葉なき言葉にわれとかたらふ。
うぐひすは春の行く時
遣瀬なき思ひをわれに告げ
秋雨さむき夜となれば
声をかぎりに蟋蟀は
いまはの苦しみをわれに訴ふ。
果してわれは友なきや
果してわれはさびしきや。
君わがかたくななるを怒らずば
冀くは来りてわが門(かど)を叩くなかれ。
【武器】
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生けるもの皆武器を持てり。
食を得んがためなり。
身をまもらんがためなり。
猫に爪あり。犬に牙。
人の世に住む弱きもの。
歌ひ女(め)よ。詩人(うたびと)よ。
人の世に住む弱きもの
汝等そも何をか持てる。
まどはしの言の葉持てり。
世に媚び人におもねり
おのれを欺く
まどはしのたくみを知れり。
笑ふなかれ憎むなかれ。
人に向ひて道を説き
かくれてひとり酒のむ者を。
【草の花】
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生れしが歎きのもとゝ知りながら
病めば猶薬のみつゝ今日も暮しつ。
君よ、笑ふなかれ。
この年月語りしわが言葉皆いつはりなりと。
世をいとひつゝも生きて行く矛盾こそ
人の世の常ならめ。
生を呪ひながらも人の世には
瞬間のなぐさめあり。束の間のよろこびあり。
ミユツセが詩をよみし時の心はそれならずや。
モザルトきゝし時の心地はそれならずや。
詩をよみ楽をきゝて
われ猶わかしと思ふ時の心地はそれならずや。
言ひがたき此のよろこびに酔はされて
われは病みつゝも死なで在るなり。
死を迎へながら猶死をおそる。
枯れもせで雨に打るゝ草の花
萎れながらに咲くはわが身か。
君よ。道ばたの花踏むなかれ。
【静なる小みち】
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松の林をぬふ小みち
生垣つゞきいくまがり。
木の芽かゞやき小鳥はうたふ。
われひとり歩み/\て物おもふ。
静なるこの小みち
いづこにわれを導くや。
山路ならねば眺めなし。
眺なければ道は平(たひらか)に
歩みはやすし。
樹は繁れども林ならねば
梢あかるく空青し。
ふと思ふ。静なる小みち。明き小みち。
わが運命もこの小みちの如くあれかし。
われは病みたり。つかれたり。
また何ぞ数奇をのぞまむ。
波瀾はわれを驚かし
変化はわれを恐れしむ。
懐疑は出口なき洞窟
恐怖は暗き森ならずや。
わが行末は唯静に唯おだやかなれ。
平に明きこの小みちの如く。
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