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永井荷風

ながいかふう(1879-1959)

東京生まれ。本名壮吉。1899年 東京外国語学校を2年で除籍。所謂ゾライズムの作品で注目
された。1903年、アメリカに4年、フランスに1年留学をし文学修業に励んだ。1908年帰国、
『あめりか物語』『ふらんす物語』が世評を得た。1910年、慶大の教授に就任し「三田文学」
を創刊。1913年から1943年に至る詩作41篇を収めた「偏奇館吟草」がある。1952年に文化勲
章を54年に芸術院会員に選ばれた。 /「日本現代詩人辞典」より


「荷風全集 第20巻」

偏奇館吟草』(1943年10月編)より

「はしがき」

嗤ふなかれ怪しむなかれ。
この集をひらきみる人。
この集に載せたる詩篇。
思出の言葉なきものあらざることを。
物一たび、去ればかへることなし。
かへらぬものはなつかしからずや。
あかるき今日の昼とても
暮れなばたちまちむかしなり。
休まざる時計のひゞきは
忘るゝな。思出でよと。
絶間なくわれにぞ告る。
思出は命の絲につながれし
珠のくさりに似たらずや。
命の糸のきるゝ時
まろびて珠は砕くべし。
愛でよ惜しめよ。思出を。
玉手箱のふたあけて
珠のかざりを取出す乙女の如くに
マルグリツトの如くに。

【夏うぐひす】

樫の葉がくれ夕まぐれ。
夏うぐひすのつかれし調
何をかうたふ。
とりのこされて人里に
うらぶれて行くかなしみか。
かへりそびれし故里の思出か。
老を歎かん。われもまた。
親しきものは皆去りぬ。
生きながらへてわれのみひとり。
むかしを慕ふ。
それかあらぬか
夏うぐひすのつかれし調。
樫の葉がくれ夕まぐれ。


【旧調】

別れて後のいくとせ
またの逢瀬この世にて
かなはぬわけを知りしより
悟の道をまなびしが。
さとりすませばまた更に
身にしみ/゛\とさびしさの
堪へもやらねばそのむかし
いまだ悟らぬ宵ごとの
悩みもだえのさてなつかしと
せめては夢をたよりにて
夢のあふせをゆめみけり。
命あれば憂きおもひこそ絶えやらね。
さとればさびし鐘の声。
さとらねばつらし雨の音。
これが浮世。これが人の世。


【絶望】

絶望は老樹の幹のうつろより深し。
幾年月の悲しみの幾年月の涙。
おのづから心の奥の底知れず
うつろの穴をうがちたり。
されど老樹は猶枯れやらず
残りし皮残りし骨に
あはれ醜き姿を日にさらす。
屈辱にひしがるゝ老の身は
義憤にうごめき反抗に悶えて
あはれいたましき形骸を世に曝す。
死は救の手なり虚無は恵なり。
吹けよ老樹にはあらし。
人の身には死よ。
されど願ふものは来らず
望むものは去る。
あはれあらしと死よ。


【暗き日のくり言】

生きてかひなき身と知りながら
なにとて我は死なで在りや。
人の世には美とよぶもののあればなり。
美はいづこより来(きた)れるや。
美は詩篇より来(きた)る。
詩篇はたくみなる言葉より来る。
巧なる言葉はいづこより来れる。
そはメロデイーより来る。
メロデイーはいづこより来れる。
そは悲しみより来る。
悲しみは人の本性より来る。
本性は伝統より来る。
伝統はいづこよりか来れる。
伝統は絶えざる人の世の流より来る。
さればわれ
生きてかひなき世と知りながら
今も猶死なで在り。
冬の日はさむし
冬の日はくらし。
われに与へよ。
わづかなるあたゝかさ。
つかのまの光を。


【拷問】

人の世は牢屋(ひとや)なり。
鬼来りてわれをさいなむ。
わが膓(はらわた)いたみてきれもやせむ。
わが胸は裂けむとし
わがかしらは砕かれなむ。
わが五体或時は氷のごとく
またある時は焔のごとし。
白衣(びやくえ)の男女(なんによ)おもてをつゝみ
あまた来りてわれを捕へ
刀もてわが肉(ししむら)を裂きぬ。
針つきさして薬液を
つぎこむ時もあまたゝび。
わが髪常に切られて捨てられつ。
冬くれば猿ぐつわ、
夏くれば蚊帳のひとや汗の釜ゆで。
あはれ審判(さばき)の庭に
何聞かんとてや
われ等の神よ
などかくまでにわれをさいなむ。


【無題】

君心ありてわれを憐れまば
冀(ねがは)くは来りてわが門を敲(たゝ)くなかれ。
われ一人住むといへど
幾年月の過ぎ来しかた
思出の夢のかづ/\限り知られず。
夏冬に散る窓の落葉は
言葉なき言葉にわれとかたらふ。
うぐひすは春の行く時
遣瀬なき思ひをわれに告げ
秋雨さむき夜となれば
声をかぎりに蟋蟀は
いまはの苦しみをわれに訴ふ。
果してわれは友なきや
果してわれはさびしきや。
君わがかたくななるを怒らずば
冀くは来りてわが門(かど)を叩くなかれ。


【武器】

生けるもの皆武器を持てり。
食を得んがためなり。
身をまもらんがためなり。
猫に爪あり。犬に牙。
人の世に住む弱きもの。
歌ひ女(め)よ。詩人(うたびと)よ。
人の世に住む弱きもの
汝等そも何をか持てる。
まどはしの言の葉持てり。
世に媚び人におもねり
おのれを欺く
まどはしのたくみを知れり。
笑ふなかれ憎むなかれ。
人に向ひて道を説き
かくれてひとり酒のむ者を。


【草の花】

生れしが歎きのもとゝ知りながら
病めば猶薬のみつゝ今日も暮しつ。
君よ、笑ふなかれ。
この年月語りしわが言葉皆いつはりなりと。
世をいとひつゝも生きて行く矛盾こそ
人の世の常ならめ。
生を呪ひながらも人の世には
瞬間のなぐさめあり。束の間のよろこびあり。
ミユツセが詩をよみし時の心はそれならずや。
モザルトきゝし時の心地はそれならずや。
詩をよみ楽をきゝて
われ猶わかしと思ふ時の心地はそれならずや。
言ひがたき此のよろこびに酔はされて
われは病みつゝも死なで在るなり。
死を迎へながら猶死をおそる。
枯れもせで雨に打るゝ草の花
萎れながらに咲くはわが身か。
君よ。道ばたの花踏むなかれ。


【静なる小みち】

松の林をぬふ小みち
生垣つゞきいくまがり。
木の芽かゞやき小鳥はうたふ。
われひとり歩み/\て物おもふ。
静なるこの小みち
いづこにわれを導くや。
山路ならねば眺めなし。
眺なければ道は平(たひらか)に
歩みはやすし。
樹は繁れども林ならねば
梢あかるく空青し。
ふと思ふ。静なる小みち。明き小みち。
わが運命もこの小みちの如くあれかし。
われは病みたり。つかれたり。
また何ぞ数奇をのぞまむ。
波瀾はわれを驚かし
変化はわれを恐れしむ。
懐疑は出口なき洞窟
恐怖は暗き森ならずや。
わが行末は唯静に唯おだやかなれ。
平に明きこの小みちの如く。