「くろがねの蝶」より
【谷間の歌】
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ここには爪秀いでたる若鷹がゐる
億万の年輪ある巨大なる古木がある
わたしは谿間の空にひかる
あの神意を宿した碧い瞳の思念(パンセ)を怖れる
もんぺを着けたる娘たちは合唱する
まものを劒のやうな雪が来ますぞ
まものを夜明けのやうに春が来ますぞ
わたしは恥かしいことに自由なる獄囚
それ故にいつも黄ろい絵本の詩書を愛する
ここからは自由なる海が見えぬ
わたしの恋しい街が見えぬ
椿の花は幾度あかく咲いても
けつしてタンポゝのやうに散りはしない
谿間の筏はあれからずつと動かない
ゆう暮、わたしは美しい洋燈(ランプ)をとぼす
与えられたる清潔なる食器を愛する
【破衣の歌】
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生活の衣やぶれ何の詩ぞ
人よ問ふなかれ。
折れた旗翳し又何の詩ぞ
人よ笑ふなかれ。
ここに愛あり
愛の弾道あり。
貧乏何ぞ
風雪何ぞ
世代のゆがみに抗し
潔白の寂漠に耐え
われら一人の子供を養ふ。
月雪(ゆき)花
アイウエオ。
雀のお宿の歌も知る
子供は
季節と共に健やかに美しい。
されば、人よ。
われら衣のやぶれを気にせざじ
折れたる旗も亦何ぞ恥づべきや。
いざ。
暴若無人の詩を書かん。
猪突邁進の詩を書かん。
【時代の日】
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今宵、月は時代の哀愁を表情して、ほの淡白く地
上を照らしてゐる。家を持たない街の子に果して、
かの輝く明日が在るだろうか。そんなことはなに
もかも、月に問へ、うそつきのやうな真実の今宵
の月に問ひたまへ。
【鷹の子供】
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飛行機の飛んでゐる空を
じつと見てゐる子供には夢がある
樹木はすくすくと伸びてゆくのだし
気候はたいそう暖かく
ここ南方には希望の響が充々てゐる
冬も終りに近づいたので
谷間の疎林には椿の花が開いた
巣立ちの鷹のやうな子供よ
飛行機のやうに碧空を翔ける思い持て!
飛行機の飛んでゐる空は
凛々と希望の響が充々てゐる。
【早春の海】
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海は早やい春であつた
老ひた漁夫が日向に座つて
猫の子を抱いて海に向つてゐた
何もすることのなくなつた漁夫よ
あなたは沖へ出てゐる
息子のことを考へてゐるだろう
部落(むら)の娘の子と一緒にすることや
いままで働いて築いた家産を譲ることなど
ひねもす海に向つて考へ続けてゐるだろう
その老ひた漁夫の瞳の中には
海の黒潮の流れが
いつも心配の種になつて渦を巻いてゐる
【潮音】
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狼煙の風波ゆれる室戸岬で
私は耳を澄まして潮音を聴いた
季節の音楽である潮音よ
君等はいつたい何処へまで
響いてゆき、又帰つて来るか、
ああ、紅い椿の花ひらき
はぢらひの娘もいまは母となる
東洋の春近し
榕樹林の小径の中での私の述懐。
【風】
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人人は
春の太陽に向つてくさめをする
まだ彼等は黄色い風邪のハンケチを首に巻いて
風よ
廿世紀の街区は病気である
私は静かに思想する 打診す――、
まもなく
人人の首は空にひるがへるであろう
ああ、あたかも意志のない風船玉の様に――
風は
家をめぐり、街色をながれる
よごれた埃の行方のやうに
黄色い自動車の行方のやうに――
それで人人は
いつでも懐手をして春日をほかほかぬくもりたいと思ふ
芋虫の様に病気にならないで生きたいと思ふ。
【春の花火】
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ぷろれたりやの子供よ
春はなぜにかくも憂鬱であるか
ミルク色の美しい空気をふるはせて
小鳥はたのしげに唄ひ
花々はらんまんと華やかに開いた
僕たちの夢は紙風船のやうにふくろんだのに。
ぷろれたりやの子供よ
南方の空たかく落下する一瞬の花火を愛し給へ、
ああ、けふ行楽のたゞよふ市街(まち)よ
黄色い自動車のなかなる紳士よ
僕はなぜにかくも憂鬱であるか
非業なる世紀のからくりを懐手のままに歩いてゐる。
【春の潮】
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紫の春の潮よ
あなたの胸の中には
美しい季節の時計がある
あなたの瞳の中には
優しい母性の愛撫がある
島国、日本に春はめぐり
山嶽の呪縛の冬の雪も解けた
雪はさらさの帯のように
海へ
だが海向いて
無頼の青年(をとこ)が泣いてゐる
額面(ひたゐ)の刻印(イニシヤル)は消えもせず
追放の街区(まち)の冬の夜景よ
ああ、海は世界の労働者(ぷろれたりや)
世界の明日のおしやべりをする
【橋の上】
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霧の夜更けの感想として、青白い世紀だなんてふ
るくさい言ひふるされかも知れない。されども、僕
たちは数かぎりない諸々の悲しい分身を発見する。
青白い、まことに哀れつぽい沈みゆく病体の月。
そして、街区の静かにささやかれる悲歌(エレジー)。
僕と君との隔離されたる嘘飾の罪過。何ごともそ
の日の風まかせなんて、ほんとうに言ひふるされ
たふるくさい現実的迷信、僕は自己の体内に棹さ
すべき白骨の力学を感じてゐる。
霧の夜更け、赤い真実の後尾洋燈(テイルランプ)。
まことに親しい僕の友よ。やさしい母なる世紀の分
身よ、傷痕の河口を静かにささやかな悲しみの、出
発をする船もある。
【花】
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光枝へ
ひとひらの花
ふたひらの花
凛として季節を生きる。
バネがある
風雪を耐へるバネの意志がある
あらがねを鋳て叩いたかんばせ
渦巻く青雲の空底に反響(バネ)がある
うす紅ひの生活(くらし)の抒情
襟を正して呼吸せよ
いささかの酒盗に決して頬をゆるめな
歳月のランプを愛して
その貧(とぼ)しさをわかちあおう
労働(はたらき)のまこと信じて
汗の力を捧げあおう。
ひとひらの花
ふたひらの花
それ等は米粒のごとく尊くある。
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