岩野泡鳴

いわのほうめい(1873-1920)

兵庫県洲本生まれ。1888年上京、明治学院・仙台神学校に学び中退。「文学界」に刺激されて劇詩『桂吾
郎』を出版して詩活動に入った。以後、『基督教聖歌集』の改訳にも従事。1899年琵琶湖畔に転地、第一
詩集『露じも』をまとめた。その詩集の中にすでに「十音詩」という新しい試みをしていた泡鳴は翌年東
京に戻り「明星」同人主催の韻文朗読会で「詩句格調管見」と題する講演をし、「十音詩体論」、「邦語
詩句調査私表」を発表して独自な試論を展開し、その主張の実践としての長詩を次々に発表した。1901年
「明星」を離れ、前田林外・相馬御風らと「白百合」を創刊し、第二詩集『夕潮』、第三詩集『悲恋悲歌』
をまとめた。ソネット形式・押韻・一行の音数のさまざまな詩型を試み、思想的には苦悶詩などとも呼び、
いわゆる象徴詩論を展開し、ようやく詩壇の注目を集めた。以降『泡鳴詩集』、第四詩集『
闇の盃盤』、
第五詩集『恋のしやりかうべ』があるが、その後小説に力を注ぐようになる。/「日本現代詩辞典」より

 

第二詩集『夕潮』より

【ああ、世の歓楽】


ああ、世の 歓楽 あまきに 過ぎて、
夢路 に またがる 春、その うつつ。
遠きは 薄もや、近きは 花 の
ねむり か、心のまなこ を めぐる。

それ、ただ しきりに 降る ほそ雨の
窓 には、そぞろ の、恋 もや 秘めん。
それ、ただ 曇りて 吹く やわ風に、
浮き立つ 思の いこひ や 住まん。

ああ、とこ静か の 春、その うつつ。
うつろ の まぼろし あしたに 破(や)ぶれ、
大地 は 音なき ほろび の かげ を
一ひら 胡蝶 の 羽(は)がひ に まかす。

若き身 もたげて わが世を 追へば、
ああ、亡き 乙女よ、見えては 消ゆる。

第三詩集『悲恋悲歌』より

【無言の石】


云はず、語らぬ 石 を いだき、
われは この世 を 泣きに 泣きぬ、
人 の いふなる 恋 にあらず、
おのが 受けたる 苦 にも あらず。
 
苦 にも 恋 にも 更に 増して
胸 の さびしみ あふれ来なば、
もゆる 思ひ の 肉 は 焼けて、
なみだ ばかり ぞ 熱く 流る。

われに 神 なく、且は 死 なく、
あり と いふべき この かなしみ、
今や 生命 の 糧 と なりて、
つきぬ わが世 は 石 と ともぞ。

かれは 「無言」 を 絶えず 生めば
われは なみだ を そそぎ継がん。


第四詩集『闇の盃盤』より

地なる響

暗き 浜辺 を たどり来たり、
水際 真近く 砂 を 握る。
握る 真砂 の もろき うちに、
闇の力 は その尾 振ひ、
手 をば つたひて 胸に 響く。

君よ、 御空 の 星 を 説きて、
地なる ひゞき を 忘る勿れ、
遠き 深み の 浪 は寄せて、
幾重 打ちては 畳む 砂 ぞ。
たとへ もろく ぞ 砕け去りて、
手 には 残れる 形 なくも、
永劫の 憂ひ を 布(し)くは 如何に。

暗き 浜辺 に 砂 を 握り、
君に 云ふべき事 ぞ 多き。


【石をいだいて】

石 を いだいて、われは 眠る。
夢 に 遠波 遠く 寄せて、
白き 真砂 の うへ を 洗ひ、
青き 草葉 の 道 を 濡らし、
高き 深山 の 裾 に 入(し)みて、
木々 の 樹ずゑ は 朱(あけ)に 染まり、
谷と 谷と の もだし合ひて、
深き 秘密 は かげ を 照らす。

それよ、しぐれ の 過ぎし 跡ぞ、
冷えて 覺めたる 旅 の ひと夜。
あさ日 寂び照る 石 の うへに
落つる なみだ も 血しほ 爲して、
秋 は 身 を 切る 亂れ焼き刃、
盡きぬ いのち を 痛ましむる。


【月と猫】

樫 の 樹の間 を 漏る月 の
影は、ふるひて、座に 落ちぬ。

誰(た)が ゑみまけし 魂 の
かた碎け ぞと、そも 小猫――

白き 小猫 は 走り來て、
ただ つくねんと 見守りぬ。

泡と つぶ立ち、玉と 散り、
散りては つどふ その碎け。

白き 小猫 は ざればみて、
つかむと すれば 手を 照りぬ。

月 と 猫 とは、その夜 より、
わが座 を 和(やは)す 靈 なりき。


【闇の盃盤】

夢 は 失せにし 玉 の 如く、
覺めて 掴む と すれど、あはれ。

艶 も 光 も 跡 を 絶ちて、
闇 に のべたる 片手 ばかり。

ゆるむ 節々 ちから 添はず、
戀 も のぞみ も なかば うつゝ。

まなこ 開らけば、暗き かも居、
あやし まばろし これを めぐる。

鬼 よ、
羅刹 よ、夜叉 の 首 よ、
われを 夜伽 の 靈 の 影 か。

死 はも わが身 を 獄 に つなぎ、
肉 は 魂 とも 燃えて のぼる。

見えぬ 火の中、水の中 の
畏怖 と 威嚇 は 迫り 來れど、

酒 の かをり に 泡 の いのち、
甘き 觀樂 ねむり 誘ふ。

闇 の 盃盤 闇 を 盛りて、
われは 底なき 闇 に 沈む。

かくて 夢 より 夢 を 浮び、
とこしなへ にも 生 に 酔はん。