伊東静雄
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いとうしずお(1906-1953)
| 長崎県諫早生まれ。1929年京大国文科卒。大阪府立住吉中学の教諭となり、芥川龍之介やツルゲーネフ等を耽読。1932年「呂」を創刊、「コギト」の田中克己らに注目され寄稿を求められた。1935年処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を刊行。翌年長女誕生。この頃から結婚生活が安定し初期の鬱屈と悲壮が失われ、東洋的智者の諦観の詩風へと転化し始めた。いわば朔太郎風から佐藤春夫風へと変わった。その成果が『夏花』(1940年)である。1942年第五回透谷賞を受け、翌年に『春のいそぎ』刊行。詩句は洗練され東洋風の渋み・細みがあって、三島由紀夫は伊東の詩集での最高峰としている。1945年の大空襲で三国ヶ丘の家を焼失し、この頃の辛労が後の死因の肺結核の基となった。敗戦からの再生を願ってリルケ等を学び始め、都会の風物詩や田園の貧しい生活を詩の素材として感懐を詠じた。それらの口語詩と以前の三詩集から選んだ作品とを合わせたのが、第四詩集『反響』(1947年)である。1949年肺結核のため入院。闘病を続けたが1953年死去。1961年桑原武夫ほか二氏編による『伊東静雄全集』が刊行された。…伊東静雄は朔太郎の系譜を継いで思想的意志的な苛烈な夢をもち、一面においては庶民的感覚からくるユーモアや諷喩、また生来の子供好きから来る淡白な童心といったような趣きを合せもっていた。そこに彼独自の詩境が拓かれたと言えよう。…朔太郎も「真の本質的な抒情詩人」であるとして詩集『わがひとに与ふる哀歌』を絶賛した。/「日本現代詩辞典」より …彼の作品における日本語の純粋さと密度の高さは、この詩集を一読した人の直ちに覚るところであらう。彼は作品が成ると、これを大書して壁にはり、日夜これをながめて口ずさみ、効果を確かめつつ自ら楽しんでいたという。彼は言葉をきわめて大切にし、技巧に苦心した。詩人としてそれは当然のことであつたが、しかも彼の詩を支えたものは決して言葉ではなく、つねに独自の強烈な精神であった。鋭敏な感情と言葉の技巧が詩人の不可欠条件であることはいうまでもないが、それのみをもつてしては近代詩は成立せず、そこには根本原理として強烈な精神による独自の発想法、つまり普遍的な「内容」としての思想ではなく主体的な「発想」としての思想、がなくてはならぬことは、理論的にはもはや常識だが、これを身をもつて実践したところに伊東静雄の新しさがあつた。(桑原武夫)/『伊東静雄詩集』(桑原武夫・富士正晴編/新潮文庫(1974)より |
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伊東静雄リンク集 >>> 伊東静雄論 宿り木その3 想像の山岳 詩集『反響』/つれづれの文庫
| 【燕】 ▼ 門の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽 燕ぞ鳴く 単調にして するどく 翳なく あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く 汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる 彼方の空より 来りしもの 翼さだまらず 小足ふるひ 汝がしき鳴くを 仰ぎきけば あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と 羽うちたたきし 繁き海波(かいは)を 物語らず わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて そはただ 単調に するどく 翳なく あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く 【夕の海】 【決心】 【八月の石にすがりて】 【子供の繪】 【私は強ひられる――】 【鶯】(一老人の詩) 【歸路】 【冷たい場所で】 |