お伽の季節
【豚の邊(ほとり)】
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遥かな
前方
そのピカピカ光る山脈の起伏も
湧きあがる亂雲の彩りも
日と共に肥りゆく首を上げては も早望み得べくもなかつた
それは昔
芋の子のように乳房にぶら下つて仰ぎ見た景色だが 今はもう
誰彼の頭にもすれすれに薄れてしまつた
《突如!首ツ玉にからみついた投繩に顛倒した仲間が 潰れた
鼻からヒリヒリ絶叫をあげて血の滲んだあの眼で こ
の世の最後に見たものは ひよつとするとこの薄れがちな
記憶の光彩であつたかも知れない いやそれだけは信じたい》
日とともに
この肉體はこの意志におかまいなく 顎を前につんのめらせ
残飯の饐えた臭いに近づけしめた
自由な手足があれば
照る陽に應えて
せめて淡虹の皮膚を輝かせたいものを
汚れは募るばかりだ
こんな汚れた皮膚の下で醗酵しているものに自分自身 何と
慙愧に耐えぬものがあることか
しかし
見ろ
むこうに
われらと共に汚れ果てて
なおもその肉體におかまいなく
威張り散らしている嫌な野郎が一人いるのだ
片手に棒を下げて
平氣の平左で
【地理】
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私を取り巻いているのは何だ
肉親だ
枯木の多い庭だ
私は地球儀を廻す このあたりだろう 新月の光りに濡れて
私がつッ立つているのは
【お伽の季節】
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金魚蜂に水があり 暗い地方に女がいる 夜半にフツと目覺めた
ときなど金魚の水食む息づきが あたりの空氣をゆさぶるよう
に鉢からあふれているのを私はしばしばきくのだけれど この
あたり私は未だに人間の自信というやつを疑つていた 右往左
往しているだけじやないかと思つていた
しかし 私は今日 都會の黄昏の大食堂に紛れ入り 最初はガラ
ス窓に墜ちゆく太陽の眞紅の色に氣をとられなどしていたが
不圖ひきこまれる自然さで物食む人間のさわさわたてる雑音に
耳すませた はじめそれは皿音にみえ 箸音であり 舌打ちで
あり またそのもつれた濁音であつたりしたが 次第にそれら
雑音の底に流れている一すじの協和音にまで心届いた
私は驚き 私の胸は高鳴るのだ 確かにこれは悲哀のつきるとこ
ろで立直つている音だ これだ 海向うの戦争を忘れしめるも
のは
私はキリスト最後の晩餐の繪を思い起す ダヴインチのブラシは
床しい美しさに心こめたであろうけれど この中にキリストの
心を奪つて去つた一すじのリズムは描かれてはいない 私はキ
リストのひそかな肉體に親愛を覺えるのだ
暗い地方に女があり 私の醉つた足はよろめくがそんなことはど
うだつていい 私には時計の秒針も聞えるし 胸のときめきだ
つて感じると 今ははつきりと言い切れるのだ ロシヤの女が
鹽を大切にするように私はただそれを打守りたいと思うのだ
+------------+
(註)
■鹽=塩
【貞ウ】
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ジジジ……という貞ウの音がすると思つていたら天井に薔薇に咲
き燃えているネオンサインなのだ
それがこうして向い合つている君の顔を 三色版の下刷りのよう
に何か力ないものにしていた 燃えている強い赤光が唇と頬の
紅を奪つているのだ
女の物語りはしめやかであつた 顔を心もちうつむけて 指先き
で袖をいじくり つるんつるん洟をすすりあげる風情は 自分
の心にも暗澹と暮れ沈むものをおいた 女は野の少女にも見え
た けれども不圖自分の指が何心なく前の盃に觸れた時 女は
愕然たる思いを自分に投げつけ打變つて行つた 女は生生と肉
體のしなを甦らせ いと安安と徳利を持ち上げているのだ そ
れは自分に劣情を強いるかにさえ見えた
あれはやつぱり貞ウの音と聞いていてよかつたにちがいない 自
分はあながち現實の苛酷をのみ嘆いておれぬ思いであつた
東京
【第一番】
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泥の上にバラックが建つたとて何になろう
焦土に花が咲いたとて何になろう
不潔な唇に紅を點じたとて何になろう
腰弱い建築や
榮養のない花瓣や
垢をつくろう小娘の
いそいそしさよ 多愛なさよ 蟲のよさよ
頭を轉じて
只見る満目瀟瀟の瓦礫の原
全き破滅は絶景なる哉
破滅そのものの中に
永遠は不逞不逞しく横たわる
破滅そのものの中に
美は頑固に居据る
+------------+
(註)
■満目瀟瀟=満目蕭条(まんもくしょうじょう)
=見渡す限りもの寂しいこと
【第三番】
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鬢髪を逆立てたような燒樹木の亂立
頑固に居据つている傾いた墓石や錆びた金庫
天に突きささつたまま動かぬ崩れた壁
破滅の頂點で停止しているものの靜かで鮮烈な形相
地にしがみついているトタンの家
缺(欠)けた煉瓦の上に置かれている藥鑵や鍋
竿にひつかかつたつぎはぎだらけの布切れ
ビルの谷間の汚れた茄子の花
地球終熄を疑わなかつた人間の周圍に
ひそかにかきよせられてゆくがらくた共
も早生あるものは信ずるに足らぬ
【第四番】
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道だけがあつた
眞直ぐだつたり曲つていたり
昔のままの道だけがあつた
銹鐵の山はもう私に語らない
瓦礫の谷はもう私に語らない
地を這ひずるトタンの家はもう私に語らない
彼の經験や彼のためいきや彼の灯はもう私に語らない
眞直ぐだつたり曲つていたり
道だけがあつた
私は道で思い出を呼び覺し
私は道で彼に肩を叩かれ
私は道で切實になつた
破れて
汚れて
惡臭がこめて
滅びてしまつた東京に
十年ぶりで私は還つてきた
東京には
道だけがあつた
何だか堂堂として
何だか間が抜けて
何だか面はゆげで
眞直ぐだつたり曲つていたり
昔のままの道だけがあつた
幻象詩集
【獣】
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たとえば
虎の眼
馬の鬣
蠍の螫(はり)
獣(けだもの)は酒も食べず
暫時も怒りなきを得ない
眞空のガラス管の中でベロベロ舌嘗めずつている
ふん怒にまみれた性慾
【絢爛たる魚】
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魚は言葉など吐かないが
オーストリヤの海岸にいるというピエルロプテリクスという奴は
海藻のようにめらめらのびた皮膚を七色の波間にひるがえして
いるまるで亂舞する舞姫だ
チョウチンアンコウという奴は亦何て奇態だ 煙管のようなアン
テナを額の上にかかげて三千尋の深海で發光している
ベンテンウオやイヌチゴやワカマツの豪華なひれ クサビマンボ
オやクマドリの目もあやな體紋
全くおどろくことだらけだ
ときどき自分は想うのだ
あいつらこそ人間などよりはるかに進歩した生物ではないかと
絢爛たる肉體衣裳はもはや言葉を必要としないのだ
言葉はむかしむかし~にかえし
あいつら 今はあのように自在なのだ と
【深夜の食慾】
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電氣笠と
西廂記の頁の上を
氣せわしく喋唐ォ
讀書を妨げる蛾に憤り
矢庭に立上り
平手に捕え
障子をあけて土砂降りの雨中に投げやれば
蛾は豌豆の挿手をくぐり
桐の若葉をかすめ
隣家の屋根を越えて失せた
溶闇の虚空に忽然と描かれた波状の白線
この絶倫の飛翔の何事ぞ
掌に殘された白粉の痕跡の何事ぞ
何事ぞ
このとき飢餓の思い湧くがごとく
忽ち麺麭一斤を食いて
呆然たり
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