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火野葦平

ひのあしへい(1907-1960)


福岡県若松(現北九州市)生まれ。本名玉井勝則。早大中退。1923年上京して小説・童謡を書く。佐藤春夫、
室生犀星に私淑、大学進学後、同人誌「街」、1927年には「聖杯」を創刊して詩の創作・翻訳を発表。軍
務と労働運動とに携わってから、九州の詩誌「とらんしつと」「九州芸術」に再び詩を掲載。詩集『山上
軍艦』を著して中国に出征。『糞尿譚』で芥川賞を受けて軍報道部に転属、『麦と兵隊』以下の戦争文学
を連作する。原田種夫の編集に成る詩集『青狐』が出版された。/「日本現代詩辞典」より


『火野葦平詩集』より

 

「青狐」

【青狐】


深海の藍青色の毛皮につつまれて
その耳は二枚の匂阿羅世伊止宇(にほひあらせいとう)のやうに立つてゐる、
さういふ狐が棲んでゐる。

ばかばかしく大きな圖書館(りぶれいり)のやうに
その眼はさまざまの書物を蓄へてゐるやうにみえる、
さういふ狐が棲んでゐる。

白い髑髏(されかうべ)を頭のいただきにのせて北斗星を拜めば
いつでもどんなものにでも化けることができる、
さういふ狐が棲んでゐる。

日本の振袖の裾模様のやうに古風で美しく、
ときには真昼間軒端に吊された岐阜提灯の光のやうにものかなしい、
さういふ狐がわたしの心のなかに棲んでゐる。

【壁上青狐圖】

わたしは今日もこの壁のうへに青い狐を畫いてゐる、
耳の尖つた憂鬱な狐を。
さうしてわたしは土筆のやうに瘠せてゆく。

昨日もわたしはこの同じ壁上に青い狐を畫いた。
一昨日もわたしはこの同じ壁上に青い狐を畫いた。
一昨昨日もそれから一昨昨昨日も。
いやもうわたしが記憶を失つてしまつたほど遠い遠いむかしから毎日毎日。

さうしてわたしは今日もこの同じ壁上に青い狐を畫いてゐる。
わたしは毎日一匹の青狐を畫きあげる。
すると翌日わたしが畫きあげた狐を見やうとして壁のところへ行つてみると
青い狐はいつの間にか壁上から姿を消してゐる。

そこでわたしはまたまつ白な壁の上に青い狐を畫きはじめる。
わたしはいつたい今までに何千匹の狐を畫いて来たであらうか。

わたしはこの不思議な永劫の努力のために土筆のやうに瘠せてゆく。
しかしながらわたしは倦まずに畫きつづける、
耳の尖つた憂鬱な青狐を。


李花

ほそい新月の薄あかりのなかに白い李の花が浮いてゐる。
結晶したなげきにも似た一九二七年の李花。

まいにち一輪づつ減る李の花をたれも氣づくものはない。
しかしながら一りんの李の花はどれだけのよろこびをかれにあたへたか。

かれは毎夜山かげから出て來てあしおとをしのばせて
ひどく胸をおどらせながら一りんの李花をちぎる。

ほそい新月の薄あかりのなかに白い李の花が浮いてゐる。
こよひもあをぎつねは李の花をぬすみに來てゐる。


【わだつみ】

かの青狐こそは
月の夜に深きわだつみを潜りて來(きた)りたれば青し

われは
かのをとめ子のため深きかなしみを潜りて來りたれば青し


【蜘蛛】   ―ある人に―

この次の宇宙を支配するのは  蜘蛛ださうです。
H.G.WELLSといふ人がさういつてゐます。

ところでこんな話はいかがです?

むかしむかしある人がある女の人に
「殉情詩集」といふ本を贈つたのです。

その意味がおわかりですか?

それから何年經つて、例のように、時のやつが
そのセンチメンタリズムを片づけてしまひました。

あの日女の人は思ひだして「殉情詩集」を出してみたのです。
それまでこの美しい詩集は物置の中にあつたのです。

女の人はふいとめくつた本の間に大へんなものを發見しました。
一匹の蜘蛛が押しつぶされて栞になつて挿まれてゐたのです。

ところで今わたしは少し意地の悪い氣をおこして
この珍らしい栞をあなたに贈らうと思ふのです。

この埃及(えじぷと)にもない珍らしい栞は今わたしの詩稿の上にあるのです。

お受け下さいますか?


【梅花】

山のべに
われはみし
つらなりて
花の咲けるを。

梅ににて
色は青しや
かしこより
ここに咲きたり。

さればそは
あをききつねの
忘れたる
足跡(あのと)ならずや。


【手】

わたしはけふも洗濯をしてゐる。
わたしの手は日に日に荒れてみにくくなつて來る。
それでもわたしは悲しまない。

わたしは信じてゐる。
救世主イエス・クリストを産まれた尊い聖母マリヤ樣も
きつと
寒い雪の朝には幼き救世主のおむつを洗濯するために
その美しい花びらのやうな御手を冷い水にひたしたであらうことを
さうして、お氣の毒にもマリヤ樣の御手は荒れて
みにくくなつてゐたであらうことを。

けれども、ごらんなさい。
ミケランジェロでも
ラファエルでも
マサッチオでも
それらのえらい畫家たちの描いた聖母の繪姿に
どの一つにでも
みにくく荒れた手が描かれてゐますか。
それらのえらい畫家たちの描いた聖母の御手は
この世のものとも思はれない天上の美しさを持つてゐるではありませんか。

それ故わたしは悲しまないのです。

わたしは心から信じるのです。
わたしの手は洗濯するたびに荒れてみにくくなるけれども
わたしが優れたよい詩を書きさへすれば
わたしの肖像を後に描く人があつても
わたしの手をきつとみにくくぶざまに描きはしないであらうことを。
わたしは心から信じてゐるのです。


「山上軍艦」

【山上軍艦】


恐しき風吹き、恐しき雨降り、恐しき嵐は過ぎたり、
われは家をば喪ひて、ひとつの
流竄のこころをば得たり、
われは乞食のごとく、得たるものを腕に抱き、この街道に彷徨ひ來れば、
彼處(かしこ)なる山上にふとも見し一隻の黒き軍艦。

そは囂囂(ごうごう)とすさまじき機関の音立て大いなる推進機を廻す。
そが鋼鉄の舷側(ふなべり)に空氣はサイレンの如く砕け、鳴り、
白き一條の探照燈は夢幻の宇宙をば照したり。
みよ、檣台の上に数十の機関銃は傲岸の銃口をひらき、
甲板にならびたる大砲はそが豪宕の砲門をそろへたり。

ああ、われはかの山上の軍艦に勇しき航海を感ず。
船房におかれたる精確なる一個の羅針盤を感ず。
宏大なる美しき海圖を感ず。
そが上にまつすぐに引かれたる色赤き一本の線を感ず。
つねに
悄■(リッシン偏+兄=しやうけやう)の指紋を感ず。
ああ、われはそが頑丈なる舵を感ず。
把手を握れる巖石のごとき手と樹幹のごとき指とを感ず。
叢生せね永劫の緑地衣(こけ)を感ず。
大いなる力を感ず。
また、船房にかかれる一個の鳥籠に一羽の鸚鵡を感ず。
そが繰りかへす唯一の言葉を感ず。
船尾にへんぽんと翻へる一本の旗を感ず。
吸引されたる動かざる鋭き眼を感ず。
すさまじき凝視を感ず。
溌剌たる鼓動を感ず。

ああ、みよ、かの山上の軍艦は驀地(まつしぐら)に進行す。


【氷山の道】

    1

海流を軽蔑する一隻の船の話をしよう。その船はへんぽんと
婆羅門の旗旆をひるがへらせ壯麗の
歌を満載し一個の羅針盤の命令に追随して氷山の海へ漂流してゆくのである。


    2

壯麗なる海洋の風笙を吹奏しつつ八角蛇(クサビマン)の傲然たる舳角に紺碧の流水が思想の朝を
告げる。飛沫を蹴る咽喉にてんめんたる神神の嘲笑を笑つた。


    3

<暴力が一切を決する。何を持つて居るかが問題だ。どうして得たかは問題にならぬ>
EEの水平線を截る凛離(りんり)たる海賊の思惟は仰ぎみる檣台の上に毅然として日月を把握す
る四面八手摩醯首婆羅(
マヘシユバラ)天神となつて聳立した。

    4


貪婪なる
崑崙船の船艙は満腹である。飽満する消化と所有の倫理。瓔珞襖襦・梳(くし)・釵(か
んざし)・釧(うでわ)・■(王+當=みみだま) ・麻布・絹・羅・褐(かつ)・綿・天馬・仙鶴・蒲桃
(ふともも)・十様花・魯・亀甲・繍葉・神絲・繍被・奇花異様・殻・黄金・銀・銅・陶磁器・鞍
轡・
冠冕・鐵器・むらがる美女と奴隷。


    5

南海の貿易風に櫻花が鐐亂と散りしたたる。爛漫たる花衣の下に成長する野菜畑にもりあがる美
しき培土である。
(ひぢ)をふくらまし鍬を打つ巻髪黒身(けんぱつこくしん)の崑崙人は天空に
向つて凛然の呼吸を呑吐する。花を摘み戲れる小童。乳を含む母親。恋愛の話がある。数百の水
夫とその家族とを抱容し傲岸の方角を固持し帆を孕んで疾走する生活の舟である。


    6

たちまち前檣にするすると上る壯烈なる挑戦の旗。戦へよ。うち碎け。甲板におこる海賊の唄。
縹渺たる荒海に相會する二隻の崑崙船は昂揚し散華する海賊の思辯を投擲して傲岸なる砲門を開
口する。展開する所有の倫理を噛んで飛躍する砲彈である。


    7

摩醯首婆羅天神は帰結する勝利の瞬間に微笑する。然るにこのとき炸裂する砲彈と激動とが叡智
を誇稱する勝利者の羅針盤を狂はせた。辯舌なき一個の機械は欺僞の面貌を以て傲然と指示し生
活の舟の中に端坐した。


    8

かくてその船はへんぽんと婆羅門の旗旆をひるがへらせ壯麗の歌を満載し夜とともに滔々として
氷山の海へ漂流してゆくのである。


【戀歌】

恋人よ、
汽車の思想に隠遁して眞■の軌道を疾走することなどはやめようではないか。

戀人よ、
作為される愛情の轉落を胸壁の温度をもつてつつむのだなどと誰がいつたか。

戀人よ、
颯爽たる言語をもつて戰はれた山上の回想を君が面貌の眉の上に強烈の敵意
に相克する國境の標識のごとく印刷しておかう。

戀人よ、
莊麗なる僕の思慕を汲めよ。海流に浮游する滄浪たる觀艦式の記憶のために。

戀人よ、
しからばいざ寒冷なる腕を組み蒸発する氣流の愛撫にぬれて月夜(げつや)の
艦隊の停泊してゐる港へ行かう。

+---------+

 ※註=■手書き原稿のため判読不能。


【絶望の計算】

美しき櫻の葩(はなびら)の散亂する臭氣の中に播州屋敷の怪異が發生して消滅した。作爲し構成
される生活の進行に敗北の殺戮が行はれ、達成された詭辯の弾道を把持する颯爽たる陰謀の工作
が続けられ、抜刀して殺到した播州屋敷の勇しき主人は歴史の虚構を詰問するやうに地衣(こけ)
ふかき古井戸の前に端坐して地の底よりおこる凄愴なる声に耳をかたむけ潔くおのれの人生観を
放擲して静かに殪(たお)れた。


ああ、ここに愚かなる喜劇の秘密がある。
1
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…………


捕捉し得ぬ空間の思惟に疲れるお菊の悲しき計算は所詮輕薄なる空氣の風景であつた。阿呆のご
とく断続する細々とした声。嫋嫋(でうでう)と盡きぬ表現を失へる暗黒の摸索。陰陰とこもる陰
惨なる亡靈の歔欷(すすりなき)のやうに。


人間の搖籃をゆするやさしき子守唄。神の微笑。聰明の二重瞼。濡羽色の黒髪に開花する赤い手
柄。南蛮渡りの青貝細工の簪(かんざし)。青空にとどろく天神祭礼の鐺鐺と鳴る太皷の音。貝殻
のごとき手。椿の紅唇。集散する恋愛の愁波。青春の鼓動。道徳に奉仕する甲斐甲斐しき敬虔の
心。信仰と淑徳。これらの稟質と回想とがことごとく徒労なる育英のために費やされ、生活の起
點において意圖されたごとくその役についたのだ。


ここに喪失せる一個の皿に執着する無限の情熱があり、到達の希望を喪失せる永劫の企圖があり、
蒼白なる亡靈の配役を完成する時の流れがあつた。
1
2
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9
…………

かくして地衣ふかき黯黒の古井戸の底に堆積する笑ふべき絶望の計算が腐敗していつた。


「未發表詩及び戰後發表詩」

【虹】


疾走する虹を見た。
はるかの眼下である。
ほどよい暖氣は雨をふくみ
白銀の翼はいつぱいの空を吸収して
いかにも軽かつたが
いつそう軽く迅速なるもの
虹である


プロペラが銀の円を描くとき
虹は七色の円をゑがく。
眼下である。
純白の雲の峯がつづき
雪原に似た雲の野が切れれば
絵具のやうな海がのぞき
また 山の肌が散見するが
一切の背景にかかはりはない。
まんまるな輪の虹が
爆音にきらめきながら
ころころと
飛行機とともに疾走する。

わたくしの欲望は
いまはその虹の輪を
鍵でひつかけて
吊りあげることではない。
また急降下して
虹の輪に突入することことでもない。
その色彩の根源によつてあらはれ
心にくい蒐集によつて組立てられ
夢の思想の放出によつて
人間を圧倒する不敵の虹を、
機関銃で掃射したいのだ。
それは敵意ではない。
散亂する欠片で
東洋の空を鏤(ちりば)めたいのである。
東洋を美しくしたいのが
わたくしの
ただひとつの
願ひだ。


さればわたくしは
涙で濡れた槓桿(こうかん)に
ふるへる掌と指とをあて
阿呆に似た異様な叫び声を立てて
虹を狙ひはじめるのであつた。


【詩】

詩といふものはこの世にはない。
詩らしいもの
詩を考へる人はある。
詩が鼓動であることはたしかだが、
詩を証明するものはなにもない。
詩が谷底の霧になつたり、
詩が雲の花になるとき、
詩のいのちがもつともらしく擴大され、
詩のかげが人間の背におぶさつて
詩といふものがあるぢやないか、
詩を知らぬのかと誰かが叱る。

詩は冠であり、靴である。
詩は創造であり、堕落である。
詩は湖であり、泥濘(どぶ)である。
詩は歡喜であり、絶望である。
詩はしかし真実である。

詩のないところに詩人はないが、
詩を考へる人が詩人となり、
詩を断定して花園を作る。
詩の葩はしかし落ちて色褪せ、
詩とも思へぬ臭氣も放つが、
詩らしいものであれば滅びはせぬ。
詩は墓を知らないらしい。