戻る

深尾贇之丞

ふかおひろのすけ(1886-1920)


岐阜県下の名ある古家の一人子として生まれた。家庭の暗い事情から母と共に祖父母及び父と別居、口
数の少ない寂しき兒としての幼年・少年時代を過ごした。六高法文科へ進み、後に三高理工科へ轉じた。
この頃、森鴎外、
茅野蕭々与謝野晶子に私淑。母は高校三年の時死に、これより数年、孤独のあまり
自棄的な思想と行為に憑かれた。京都帝大在学中に結婚。夫人は女流詩人
深尾須磨子。大学卒業後の19
18年東京日日新聞の現代詩募集に首位当選。選者は鴎外、晶子。後に川路柳虹を敬愛し、その主宰する
「現代詩歌」に作品を発表。肺炎のため死亡。遺稿詩集『天の鍵』。/「
日本詩人全集 第五巻」より

詩集 「天の鍵」より


【或る「アダジオ」】

愚鈍な土さへが
五月の陽にめざめる。
ふりそそぐ銀いろの光に
ぬれそぼつあを葉、わか葉。

かつぎを脱ぎすてた
わかい女の袷から、
柔かい、だが、もえるやうな
肉の音樂があふれる。

貪婪な二つの目が
ものみなを胸に捕らへ入れて、
みだらな眸(め)をむけて見たけれど、
さて、なんとせうぞ。

あのましろい手を、
鳩のやうにふくれた胸を、
若々しい丸味の肩から首を、
紅いアネモネのやうな唇を……

目は心の窓だ。
胸は心の私室だ。
鍵のない私室を
なんとせうぞ。

かくて過ぎ去つた。
ものみなが過ぎ去つた。
胸は今うつろだ、墓穴だ。
生々(いきいき)した五月の陽がのぞくけれど。

いらいらした心が
二つの窓をくもらせた。
わか葉が耳を聳てた。――
(それは似つかぬアダジオ、)
切れのこつた一筋のG線を
低くおもおもしく歩行(ゆ)む
倦怠な、そして陰鬱な韻律(リズム)に。

【生きるものの結論】

人が人を生む、
うまれた人がまた人を生む………
それが何だらう。
何でもよい、
何でもよい。

すべてを説くもの、
すべてを審くもの、
それはただ一つの「時」だ。
「時」のあゆみを見つめて居よう。
「時」のあゆみにまかせて置かう。


【狎れすぎた言葉】

樹を眺めるのは面白い、
すくすくと一向(ひたむき)にのびあがり、
やがて太陽を掴まうとする。

樹を眺めて居ると、いつか、
自分の「生」もすくすくとのびあがり、
太陽に手を觸れようとする。

しかし、おゝ、神さま、
あなたは人間の足をしかと、そして永久に、
大地に結付けておしまひになされました。
私は全能のあなたの眼をかすめて、
プロメセウスの不遜を重ねようとはいたしませぬ。

しかし、おゝ、神さま、
昔、科學者があなたの御前で、
若しπをして三ならしめばと嘆じた如く、
私はあなたの御前に臆せずうたがひ、
且つ祈る――あなたは何故、
あなたの傑作の一つである人間の首から
赤錆びの「道徳」の環を外さうとはなされませぬ。

+------+
(註)
■プロメセウスの不遜=プロメテウスは人間に火を与えた
              とされる(ギリシア神話)。


【私の自叙傅】

俺は小百姓の家に
たつた一人の子に生れた。
俺はおしやべりの人間が嫌ひだつた、
俺はおし黙つた蜥蜴が好きだつた、
俺は蜥蜴と遊び耽つた後で、
極つたやうに蜥蜴を両斷した。
彼の女の頭の方は崩れた石垣の上から俺を睨んだ、
彼の女の尾の方は落ちた椿の蕊の裡で跳ね廻つた、
彼の女の冊色の肌が花粉で黄色くよごれた、
たとひ、それが一瞬時の事實としても、
一つの生命が二つにも三つにも分裂することに
俺は限りなく美味な驚異を飽食した。
やがて大きな手が俺を捕へて
確乎(しつかり)と俺に目隠しをした。

それから長い長い路が始まつた、
道はざくざくして歩行(ある)きにくかつた、
道は一ぱいに象形文字が鋪(し)きつめてあつた。
俺は厚い土壁の牢獄に俺を見出した、
俺はやうやうの事で窓を目付けた、
窓にはチヤイコフスキイが立つて居た、
チヤイコフスキイはスクリアビンを紹介して去つた、
俺の血に棲む小反逆者が俺の道徳に肉道した、
スクリアビンの肉體は死んださうだが、
俺の窓へは毎日來る、
今朝も俺の手を握りながら、
「どうだ、俺の手は………」と言つた位だ。

+------+
(註)
スクリアビン(1872-1915) =ロシアの作曲家、ピアニスト
■肉道=不明。語感的には‘肉薄’とか‘内通’とかか?


【人間の灯】

誰だ―其處に潜んで居るのは。
俺の胸の燭臺に
灯を點(とも)さうとするのは。

俺は人間の灯は嫌ひだ、
俺の胸には人間の灯は點(つ)かない、
點さうとしてもだめだ。

人間の灯はいつでも、
人間の造つた枷だけを照らす、
そのいやな灯を俺の前に掲げるな。

俺は闇のうちに
俺のすきなものを探しもとめる、
そして俺をイツまでも満足させて置きたいのだ。
おまへらの國の灯は
俺の慾求を鈍らすかもしれない、
その灯を持去つてくれ。


【仕合後の野球場(グラウンド)】

廣い野球場の白いラインを
風が來ては撫でる。――
這ひよる夕闇のうちに
湿氣を吸うた地(つち)が光る。
校舎や寄宿舎や立木のデツサンが
黝(くろ)いうちに並んで浮ぶ。
又、風が來る――
破れたボールが轉けてゐる、
ホームからサードへ轉ける、
その物音と、ナイーブな
脈打つ空のブルスの響とが
夜の顫動を形成(かたちづ)くる。


【偶然】

偶然よ、
おまへは不思議な手を持つ。
悲しみと、よろこび、
さいはひと、わざはひ、
その間におまへは蹲踞まる。

おまへの手が
うれしさの涙をぬぐつてやりながら、
すぐかなしみの涙にしてしまふ。

おまへの手が
スラブの血をこの國の血に結ぶことも、
この國をスラブの血に盛ることも、
それは心のままだ。

おまへの手が
鋳型で抜いたやうな世に、
輝きと、和らぎと、皮肉とをあたへる。

おまへは
人間の血と空間とを堺する
美しい肌のやうなものだ。


【心よ】

おゝ心よ、
もつと熱くなれ、
もつと踊れ、
もつと力強く押しすすめ。

おまへは
俺を改造しきれないで、
直ぐ勞れはててはだめだ。

おまへは一時
俺から抜出してみるのもよい。
そして囀づる小鳥に、
とび駆ける獣に、
々と伸びあがる草木に闖入して、
何も知らない鳥や獣や草木が
結局一等よく生(せい)を生きて居ることを
俺に自覺させてやるがよい。
が、おまへは
俺の方へ歸ることを忘れてはならない。
おまへがそれから體験した
力強い腕で
俺にほんとうの生をもたらしてくれ。

おゝ心よ、
おまへはもつと熱くなれ。
絃(いと)からながれる
スタカットとピチカット、
その齒切れのよい感觸を、
心よ、俺にたぎらせよ。


【瓦斯瓶の半音階】

アルコールランプの灯が
早く闇に目覺めたいので、
硝子の薄れや壁のすきまから
四角な化學實験室へ
「夕暮」を吸ひよせる。

倒樣(さかさま)に立つた瓦斯瓶(ガスジャー)に
たのしい瓦斯の音樂が始まる。
その単調な半音階が
室の四壁に衝突(ぶつか)つては戻る――
その壁も、棚の藥の瓶も、
私の胸を流れる血の波も、
共に倶に同じ囁きにゆれる。

瓦斯が瓶に半ば満ちて、
水槽(トラップ)から水がこぼれる。
「夕暮」は平氣で押寄せる、
靜かに靜かにやつて來る。
生きたものも、死んでゐるものも、凡てが默つてゐる。
音樂が止まないやうに――
ランプの黄色い焔のかげで、
瓦斯の玉が水から分れて、
たのしい音階を殘す一つ毎に、
私の淋しい胸の底から
悲しさが一つづつ消える。

水槽から水が流れる、けれど
装置(アッパラタス=apparatus)を動かすと
音樂がやむかも知れない……

捨てて置かう
水槽から水が溢れるけれど、
すてて置かう。


【君臨するもの】

おれの姿であるおまへよ、
おれをごまかさうとして
そのやうにおつくりをするな。

その手から鏡を捨てて
このおれにすがるがよい、
おれの目のうちに動く
おまへの骨を見せてやらう。

おまへは要するに骨だ、そして肉だ、
その肉は腐れ爛れ、
その骨は折れ朽ちる。
そのあとにのこるものはおれだけだ、
おれがおまへの全部なのだ。

おれはおまへの骨に神經をあたへ、
おまへの肉に熱をあたへる。
おまへの肉を流れる血がおれだ。
おれが若しわがままを言つても
それはおれのためと思つてはならない。

おれは榮光なのだ、
おれの突きすすむさきには
すべての闇が輝きのうちに潰える、
輝きのうちに横たはれる肉の
いかに美しいではないか。

おれの去つた後の肉を想像して見よ、
白い皮膚に何の喜びが來る。
肉はゆるみ、肉はただれくさるのだ。
おれの血に流れる力の
美しさと若々しさとを見よ。

おれは神樣から造られたままだ、
おれが振舞ふところがすべて神樣の意志なのだ、
それで、おれのするすべての仕事について
おれは一つの悔恨と云ふものを持たぬ。

おれは何の憚りもなく相抱く、
そしておれの血は果てしもなく湧き流れる。
おれの血はすべての生けるものに流れ入る、
そして、そこに再生の芽をあげる、
そのまはりには輝きが雲のやうにわきあがる。

時はきはまりなく來たつて、また
きはまりなき先に飛び去る。
そのうちに一團の星雲が圓みを増してゆく、
それがやがてまた崩れて見えなくなる。
そのうちにうごめく生の興亡は
交流電氣のパーセルセーションにも如かざるを知れ。

おれはその無限に棹さして流れる、
どこへ、どこまで流れて行くか――
それは知らないが、
おれはとにかく實在するものの一つだ、
肉の榮と亡び、それはただの瞬間だ、
おれの大なる力のまへに早く降伏しろよ。
肉は肉のみが感じを享くるのだと思ふな、
肉はおれの食料に神樣が與へられたものだ、
おれのするままに甘んずるより仕方があるまい。

しかし、おれはおまへを濫用しようとは思はぬ、
おれはおまへの所有者として愛撫を忘れぬ、
おまへをつめたい道コの支配に置かうとも考へぬ、
おまへに君臨するものはおれだけなのだ。