ヤコブへの手紙 2012/5/19(土)
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『ヤコブへの手紙』…昨夜、コンビニの野菜が売れているというニュースを見て世を憂えた。野菜は八百屋で買う。大将の駄洒落を聞き流しながら50円まけてもらう。肉は肉屋で買う。何グラムにするかは自分で決める。料理によって適した部位の違いを覚える。魚屋で魚の全身を見る。鱗に触れる。内蔵の臭いを知る。その上でスーパーのパックを判断するのだ。その上で寿司屋のカウンターに座る。向こう側の職人と横列の客と自分との駆け引きが始まる。隣の女の好きな軍艦を滑らかに注文してやるとその後の展開がスムーズだ。『あしながおじさん』をこの歳になって初めて読んでいる。手紙を書く楽しみ、待ちわびる焦燥、読む喜びが束になって蘇ってきた。手紙は手書きでなければならない。所々に間違った跡があるはずだ。人間だもの。手紙は封筒に便箋が折りたたまれていなければならない。紙に指先で触れなければならない。物質でなければ相手が見えない。同封された写真は色褪せなければ嘘になる。筆跡が次第に乱れていなければ嘘になる。時間は流れ心は移ろい、感情は昂ぶり書く手は疲れるのだ。人間だもの。久しぶりに欧州言語の魅力に浸った。この作品はフィンランドで作られた。ヤコブという名前。あの声。あの景色。棄てた一束の行方と内容が放り出されたままだ。結婚式に誰も来なかった理由が知れるに違いないのに。レイナみたいに、いつの間にか感情が移入していた。
スープ・オペラ 2012/5/13(日)
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『スープ・オペラ』…色々な物(者)たちが鍋(家)の中で煮込まれる(生活する)と、素材(個性)のもつ出汁(感情)が溶け合って(混沌となって)、五臓六腑に染み渡るスープが出来上がる、というそんなお話。昆布と鰹節と煮干しと味噌と様々な具材の出汁で味わう味噌汁と同じだ。洋風スープにしたのは欧風好みの原作者の商業主義だろう。とはいえ僕はスープが好きだ。生まれなのか育ちなのかおそらく両方なのだが、大人になるまで日常にスープなど存在しなかった。焼肉時のわかめスープですら、ってゆーか焼肉という単純馬鹿な名称さえ女の身体より後で知った。ふかひれスープは神戸の中華街で、燕の巣のスープは横浜の中華街で覚えた。どちらも絶品だった。野菜ジュースが好きだった僕に、ミネストローネは衝撃だった。がしかし、いまだにブイヤベースというのを口にしたことがないし、コンソメスープは好んでいただく気にはなれない。劇中、加賀まりこが鶏がらベースのスープに白飯を入れて食べるシーンがあった。日本人はアレが好きなのだと思う。昔はよく味噌汁に入れて食べた。おかずが無くなってもまだ腹が満たされなかった。育ち盛りだったのか、おかずが少な過ぎたのか。体内に飽和した脂肪分が肛門の周囲に蓄積して破裂するまで、インスタントラーメンの〆に残りのスープに白飯を入れて食べた。バターを一片溶かすと頬が落ちた。スープではないが、ウチではクリームシチューをカレーのように白飯にかけて食べる。うまい。食卓用のガラスの醤油差しに入れてあるオリーブ油をかけて食べる。もっとうまい。黒胡椒を多めに振りかけると、更にうまい。
ガタカ 2012/5/12(土)
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『ガタカ』…野球解説者の誰かが、スローガンはチームの欠点だ、と言っていた。開幕前に発表する年間テーマのようなキャッチフレーズこそ、チームに不足する部分の精神的補填なのだ。今季、広島カープは「破天荒」を挙げた。解説者は正しかった。あんなに破天荒でない野球は面白くないのだ。ってゆーか、監督自身が実に退屈な男だ。開幕して2ヶ月が過ぎた。破天荒は今のところ影を潜めたままだ。ところでアメリカさんは自由の国らしい。もちろん自由ではないから強調されてきたに違いない。人種のルツボだから一本筋を通すことは不可能なのだ。人種や肌の色の差別が無くなった近未来、アメリカさんはDNAによる差別を行っていた。科学の発達による受精段階での間引きと理想配合が可能になり、出産は常に操作されて行われるのだ。そんな時代にもやはり差別対象、被差別階級は必要だ。下位がなければ上位はない。人は人の上に人を作り、人の下に人を作らねばならない。どこかで聞いた話だ。士農工商だ。科学的根拠も実戦的勝負もなく皇族一派が上に居座るためには常に最下層が必要だった図式と同じだ。1997年制作にしては古い感じがした。けれど現実を直視すると1997年は15年も前のことなのだ。Windows98が発売されておらず、僕はまだ「文豪」を使っていた。PCは専用ソフト以外使い道を知らなかった。どちらも100万円くらいのを5年リースしていた。たった15年の間にずい分なことがあったものだ。15年後、遺伝子操作は僕をどこへ移転させているだろう。もしか遺伝子とは、以心伝心の形而下化現象なのかもしれない。
アンフェア
the answer 2012/5/5(土)
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『アンフェア the answer』…これまでの無数の読書と映画・ドラマ鑑賞の結果、役に立ちそうな技を3つ、肝に銘じている。1つは暗闇で照明を点ける前には眼を閉じておくのだ。スパイの鉄則らしい。寝室で試してみたが、闇に眼を馴らしている隙に隠れている暴漢に襲われる心配がなくなった。逆に‘お願い、電気を消して’と囁かれた時、眼を閉じておくと闇の中の裸体が白く輝く、のかどうは知らない。2つは相手に銃を突きつけることができた状態で、向き合ったまま自慢気な犯人の告白を聴く場合があったとして、相手の両腕を頭上に挙げさせただけで安心してはいけない。物語の流れだとか演出だとか相手が人気のイケメンだったり色っぽい女優だったりとかは無視するのだ。とりあえず膝の裏に一発、銃弾を撃ち込んでおくことが望ましい。死なせはしない程度の重傷を負わせ、逃げられないし、生涯の不具(ふぐ、と入力しても変換しないのは何故だ)者にしてやれる。監督によっては痛がるまま告白の続きをさせることも可能だ。3つは手元に銃がない場合だ。後ろ手に手首を縛るだけでは足りない。都合よくギリギリ手の届く所に落ちている錆びた釘やガラス片やライターの炎やで、実に多くの被拘束者が縄から逃げてきたことだろう。相手のズボンを膝まで下しておけば良い。膝の裏あたりでベルトを締めておくのだ。不快でなければ下着を剥ぎ取ってチンコを丸出しにしておけば戦意を喪失するかもしれない。犯人が色っぽい女優の場合は●ンコは見ない方が良い。こっちの戦意が喪失するか或いは膝の裏でベルトを締めるのが惜しくなるに違いない。あとひとつ、ここ数年は犯罪のデータをダウンロードした証拠品としてUSBメモリが活躍している。が決まってキャップが不在なのだ。その上で血に塗れたり、雨の路上に(夜の場合が多い)落ちて都会の灯が反射している。あれって、どの程度までならデータに影響がないのだろう。あの先端が‘それっぽい外見’なのは理解できるし、キャップをしたままでは単なるプラッチックの棒状の物体に過ぎないことも確かだが、もう少し何とかならないものだろうか。
アナザープラネット 2012/5/4(金)
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『アナザープラネット』…嬉しい驚きだった。アメリカ人でもこんな作品が創れるのだ。セックスもドラッグも暴力も、カーチェイスもガンアクションも悪役宇宙人も父子の絆も、どれも99%まで削ぎ落として(ゼロではなく)、それら以外の心理描写だけで僕に感動を与えたラスト。やればできるのだ。けれど本国での興行成績は良くなかったはずだ。彼らにこれは理解不能だろう。もうひとつの地球。もう一人の自分。本当の自分。鏡の理論。見えてしまった時点からのリンクの途絶。折りしもGWの只中、高速バスが事故った。居眠り運転だったようだ。7人が死んだ。運転手は君だ。車掌は僕だ(本当は運転手は僕がやりたい)。運転手は助かった。可哀想に。彼と彼の家族はこのまま生きていくのだ。生きていかなくてもいいが、被害者の家族に「リンクの切れたもうひとつの地球」で生きているかも知れない‘もう一人の被害者’に会わせてやることはできない。全て確率の問題だ。文明のゴミだ。高度化すればするほど、事故や犯罪やイレギュラーや想定外は正比例する。混雑すると知っていて高速で走る凶器の群れが衝突し合う確率はかなり高い。電気の浪費に飽かした日々の享受が原子力発電の不測の事態を招く確率はかなり高い。医学の進歩とともに不治の病が目立つ。99の完治は1の不治を際立たせる。それはまるで、絶世の美と魅惑の肉体とを兼ね備えた女との出会に満ちた人生に似ている。それ以下を愛せなくなっても誰も責められない。すべては文明のゴミの排出に巻き込まれるまでの、自身と現象との確率の問題に過ぎない。本当の自分とは、たかが地球上の生物(生き物)の一形態にすぎないと気づかねばならない。
東京公園 2012/4/29(日)
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『東京公園』…「スープの冷めない距離」という感覚を思い出した。登場人物の全員が互いの関係の中に距離を置いている。それが三途の川だったりレンズの向こうだったり非血縁のDNAだったり幼馴染だったり、果ては幽霊だったりする。そして誰もが距離を理由にそれ以上の内側へ踏み込むことから逃避している。もちろんそれが公園を‘東京’に特定させた理由なのだろう。たった一人、嫉妬をむき出しにした夫もまた妻に対峙できず、デジタルデータを挟んでしか妻を凝視できないのだった。「秘密のケンミンSHOW」で、大阪人が東京の居酒屋で女店員に注文する時を例にして、東京の人間関係の基本的な不具合に気づいていた。彼らは他者に近づかれるのを嫌うのだ。そのくせ好奇心は旺盛で、ワイドショーが大好きでストーカーや陰口や匿名の書き込みなんかを人生の嗜好としているらしい。「フーフの褪めない距離」はもっと近くなければならない。距離とは近づけば近づくほど遠くなることを知らなければならない。触れてしまうと、触れるまでの一瞬の1mmの永遠を見つめ続けなければならない。そのためには気取った自我など捨てた方が良いに決まっている。「大阪公園」だったらどうだろう。鶴橋や天満や住吉辺りの公園には、次の言葉を呑み込んでしまうような空気は流れていない。もっと直截に本音がほとばしる。義姉弟や幼馴染の壁などこちら側からだけでなく、とっとと両側から崩してしまう。幽霊は幽霊らしく怨念を主張する。しなければ幽霊である資格がない。
まほろ駅前多田便利軒 2012/4/28(土)
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『まほろ駅前多田便利軒』…レズビアンのくせに子供が欲しい女医の横暴から始まった悲劇。金銭と美貌に飽かしたあげく、自分に惚れた若者と、書類結婚&人工授精を契約。出産後は契約通りに離婚。子供をレズ妻の許に残して若者は人生を捨てる。もう一人は浮気発覚後に妊娠した妻を信じきれないまま、産まれた子を病死させた男。そんな二人の人生の浪費を(歪んだレンズを)通して描く、親に恵まれなかった子供の確率論的不幸物語だ。♪最初っから居なかった親と、無視し続ける親と♪、子にとってどちらが不幸だろう、という机上の空論的文脈無視風人生論は、子を捨ててきた無数の親にとってあまりに理不尽、不条理な展開だ。子を愛せるかどうかなど、現実になってみるまで誰に判るだろう。愛せないからといって人間失格の烙印を押すのはまるで、レズビアンを異常性愛者だと断じるのと同じだ。性的魅力に溢れた若い女との情事に溺れた側面を棚に上げると、僕が妻子を捨てたのは♪居て、父母の不仲に触れさせるよりはマシ♪という判断も数%はあった。もしも僕のもって生まれた心根と体質が普通程度に‘我が子を愛せる’ものであったら、子供のために我慢と忍耐と努力の良き父、平凡な夫、演技派の祖父、部下に優しい会社の幹部にでも成り果てていただろう。あの後に出会えたすべての人々や出来事、好奇心や知識欲は今の僕に存在せず、あの当時のままの僕が55歳になって消耗して老いぼれていたに違いない。世間はそれを幸福と呼んでいる。
さや侍 2012/4/21(土)
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『さや侍』…ラスト、娘と虚無僧が河原で対面する。虚無僧は父から託された遺書を読み上げる。それは最期に笑わせるはずだった辞世の句。娘は笑い、城で若様が笑い、それで終わるはずだった。ところが東北の震災。シナリオは急きょ変更され「絆」めいたお涙チョーダイへと堕した。国内よりも海外に向けた戦略の狡さが残った。けれどそれ以外は面白く観た。「サムライ・ジャパン」へのアンチ・テーゼか。或いは「レッド・カーペット」批判か。その代表する、数分しか与えられないお笑い番組と、それでも媚を売る若手芸人への苦言と啓蒙か。「イロモネア」しかり、「エンタ」しかり。与えられた時間内で笑いの取れない芸人は自害していくしかない関東のテレビ業界の現実への皮肉か。時折り、ビートたけしへのオマージュめいた欠片が見えた。大筒から飛び出す人間、打ち上げ花火、細々としたスベリ芸など、そして大前提の子連れの物語。北野映画の中でも印象的だったあの『菊次郎の夏』を思い出した。ラストのあの余計なフォークソングさえなければ、もっと言葉を尽くして絶賛する用意があったのだが…。
猿の惑星(創世記) 2012/4/7(土)
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『猿の惑星 創世記(ジェネシス)』…前作を観てから10年が過ぎた。‘続編見え見えのラスト’だったが、あの続きではなかった。『未知との遭遇』とともに『猿の惑星』は僕の映画の原点だが、それは何も面倒くさい映画論には巻き込まれない。映像とかアングルとかキャストとか。40年も前の映りの悪い白黒の小さな画面で見たのだから当然だ。それでも感動の記憶が鮮明なのはもうただラストシーンでしかない。『未知との遭遇』では全体を流れるあのメロディだったが、映画に限らず絵画に限らず文学に限らず、あらゆる作品に僕が探しているものは「物語性」なのだとあらためて気づく。細部に宿るのは神かも知れないが僕は神を信じていない。物語性の中のたったひとつでも琴線に触れれば記憶の性感帯が興奮するが、残念ながらこの作品はあまりにも‘今風’の単純明快なアメリカ的ベタ展開に終始した。初代の『猿の惑星』の起源らしいのだが、ウイルスだの新薬だのDNAだのとは全く異なった、もっと原始的な生物の混沌であって欲しかったのは僕だけではないだろう。猿にはうるさい日本人の眼は、この造形ではまだまだ不満なのと同様、アメリカさんの幼児性は満たすのだとしても、たとえば生き物としての人間の側の哀しみが描かれていねばならないのだと思う。あ、それと、シーザーという名に違和があったのは何故だろう。
デンデラ 2012/3/31(土)
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『デンデラ』…観る前にさんざんテレビで♪でんでらりゅうば〜♪という仲里依紗ちゃんの歌声を聴かされていたので、‘でんでら’つながりでもあるのかと調べてみた。歌の方は長崎の【でんでらりゅう】と呼ぶわらべ唄で、♪でんでらりゅうば でてくるばってん
でんでられんけん でーてこんけん
こんこられんけん こられられんけん
こーんこん♪と歌う。Wikiによると、♪出ようとして出られるならば、出て行くけれど、出ようとしても出られないから、出て行かないからね。行こうとしても行けないから、行くことはできないから、行かない、行かない。♪みたいなことらしい。里依紗ちゃんだから可愛いけれど、さだまさし調だったらさぞムカつくだろう。映画の方は実在する‘デンデラ野’という姥捨ての地のことで、『遠野物語』の中には「蓮台野」として紹介されているという。実はでんでん虫の‘でんでん’は、出るに出られないという意味らしく、わらべ唄の♪でんでらりゅうば♪も「デンデラ野」も、出られないという点では同じ語源なのかもしれない。出られないことがまるで疎外や差別、人権侵害のような響きではあるが、いったい外へ出てどこへ向かうというのだろう。外とはどこなのだ。捨てられて極楽浄土へ行けると信じていた老婆が助けられたことに腹を立てる、という冒頭のベタな描写が実は正しいのではないか。作品はその一見キレイ事な極楽浄土を否定して生命への執着心を描きたかったのだろうが、あまりにも稚拙で大失敗に終わったようだ。せっかくの骨子、せっかくのキャスト、せっかくの大自然が、テレビゲームのような脚本のせいで台無しになった。幼稚な造形の雌熊など翳(かす)んでしまう程、子供向けに阿(おもね)ったスポンサーの口出しなのかもしれない。外とはどこなのだ。山の向こうか。海の向こうか。餓えずに生きられる都会か。熊の出ない、雪崩の来ない極楽か。どこへ行っても死ぬのは同じだ。尊厳などあると思うのは恐怖から逃げたい後知恵だ。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら 2012/3/24(土)
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『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』…正方形で青いビニール封筒の郵便が届いた。DMMさんからだ。『もしドラ』が入っていた。春の高校野球が開幕したばかり。おお、と思った。今朝の新聞に20日(祝)、広島でAKB48のイベントがあったことを知った。新曲『GIVE
ME FIVE』の宣伝だった。確か20日は暇をしていた。行きたかったなあとマジ思った。‘give
me five’のfiveとは指の数=ハイタッチだとか、メンバーの5人がどうのだとかの意味らしい。たちどころに‘フィンガー・ファイブ’を連想してしまった。もちろん秋元クンもそういう回路の経路だったに違いない。作品はよくできていた。日本アカデミー賞にノミネートすらされなかったのは多分、タイトルが長すぎて宣材物的に都合が悪かったからだろう。少なくとも助演女優賞には女子陸上部の部長がふさわしい。劇中、ヤクチューみたいな名前の紙の上で経営を展開するセンセの朦朧とした幻覚のような理論が展開される中、「高校野球の目的は何か」という議論になった。‘心身を鍛えて仲間を作って高校時代の思い出作りだ’という意見が一掃された。答えは‘感動’らしかった。そのためには甲子園へ行くことが必要になった。どうも合点がいかなかった。そのためにこそ越境や暴力や収賄やが蔓延ったのではなかったか。読売巨人軍の不正詐欺巨額契約金犯罪もまた、その延長線上ではないのか。程久保高校野球部は絵空事のような監督の指揮下で甲子園出場を果たしてしまったが、現実は、紙の上で思い描く理論の通りに過程と結果が結び付くことは皆無だ。でなければ読売巨人軍が犯罪を犯してまで●●●することもないはずだ。
レオニー 2012/3/20(火・祝)
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『レオニー』…文才が世に認められて天狗になった男に捨てられた母子の愛と涙の物語。男が野口米次郎でなければ決して選ばなかった作品。僕たち夫婦と野口親子には縁があって、妻がイサム氏、僕がヨネ氏に関心が深かった。10数年前に妻が「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」へ行こうと誘うまで僕はイサム氏を知らなかった。その後から彼が原爆公園の最初の設計者だったり、妻の買った照明が彼のデザインであることに気づいた。それらとは別のアプローチから僕はヨネ氏の詩と出会い、彼らが親子であることは少し後から僕の中で関係された。おまけに僕には野口氏という、イサム氏を知った頃に今の僕より若い歳で死んだ先輩がいて、破天荒といえば先輩にも少しくそういう気(け)があった。劇中、大工の棟梁が幼少のイサム氏に鉋の使い方を教えるシーンがある。眼を閉じて、樹は見えるものを信じない。眼を信じない。音も、頭も。樹は感じるだけだ。女と同じだ。芸術家になるなら女を知ることから始めなければならない、と言った。対して母親のレオニーは傍若無人なアメリカ人だった。日本に来て日本になじもうとせず日本の風習に逆らいアメリカが絶対だと思い込み、立身出世した男は正妻と側室と二号と妾と別宅を持つのがステイタスであることを否定し続けた。そのために子を不幸にした。父親の名を公けにできない私生児の女児(イサム氏の腹違いの妹)を産み落とした。アイリスと名付けたことから僕はあの茶人だったに違いないと踏んでいる。同じく劇中、ヨネ氏の自宅に若い詩人たちが集い、ヨネ氏の自慢話を聞く場面がある。エンドロールで岩野泡鳴、河井酔茗、土井晩翠だったことが知れたが、岩野泡鳴を温水洋一が演じていたことに驚いた。久子ちゃんと僕のとはイメージが違い過ぎる。ということはレオニーだけでなく、津田梅子や小泉八雲夫人、ヨネ氏についても、この映画の印象を決めつけない方が良いみたいだ。
マイ・バック・ページ 2012/3/17(土)
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『マイ・バック・ページ』…『運命の人』というTV番組を見ている。どちらも思い上がったジャーナリストの挫折の物語だ。彼らの暴走にムカつきながら最後は胸を撫で下ろすことができた。密約であろうが何であろうが沖縄は返還されなければならなかったし、国民の生命を守る為には核の傘下に入らねばならなかったのだ。そうでなければ沖縄の人口と本土の人口を多数決の原理で天秤にかけ、人命を比較しなければならないことになる。少なくも、民主主義国家体制がお気に入りなのであれば、多数決に従わねばならない。「少数意見の尊重」など体裁の良いお飾りでしかないこと位は、大人なら自覚しておかなければ恥ずかしい。新聞で吉本隆明の訃報を知った朝、これを観たのは素敵な偶然だ。吉本隆明という人は大江健三郎とともに、ついに最後まで好きになれなかった。1969年〜1972年の4年間、僕が中学生から高校生になった時代。安田講堂への放水をTVで見ていた。浅間山荘に鉄球が打ち込まれるのも、アポロが着陸するのも見ていた。それらは例えば神戸の高速道路やNYのビルが崩れ落ちたり、地下鉄の駅周辺に人々が倒れたり津波が町を呑みこんでいくのを見たりしたのと、同じような感覚だった。僕はいつも安全地帯に居た。神戸の地震の揺れは今もトラウマっているし、後に三里塚闘争から逃走していたと知った同僚との突然の離別は衝撃だったけれど、それでも僕の居場所は現地に一歩も近づいていなかった。『二十歳の原点』を他の1000冊と同じ読み物として読んだ。三島由紀夫の介錯をした森田が卒業したとヒーロー扱いしていたミッションスクールで僕は神を捨てた。‘ベトナムか月か、どちらかへ行くなら迷わずベトナムだね’と嘯いた記者はおそらく高所恐怖症だったに違いない。大学解体を叫ぶ東大生が、実は大学の存在に凭れかかっていなければならない自己矛盾に反論できなかったのが現実だ。ラストで、保倉幸恵を演じた忽那汐里ちゃんが‘この事件は何だか嫌な感じ’と言った。僕は高見順の『いやな感じ』を思い出した。この本は語り手が戦後、戦前の自身のテロリスト時代を回想する体裁である。肺を病んだ浅草の洒脱な作家・詩人という印象が強いが、実は彼もプロレタリアートだった。この映画の監督が意識したセリフなら面白い。久しぶりに『いやな感じ』を読んでみたくなった。マーロウばかりでは文章が短くなっていけねぇ。
スーパー8 2012/3/10(土)
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『スーパー8』…確かDMMさんの‘アメリカが絶対に秘密にしなければいけない何かをカメラは撮影してしまう。’という宣伝文句に惹かれてチョイスした作品。観る前に公式サイトを覗くと、‘友情、初めての恋、そして家族の絆に出逢う。どんなに悲しいことが起きても、僕たちは生きてゆくんだ。’という如何にもアメリカさん風な幼稚っぽい紹介だったので、あれまあハズレだったかしらんと、それでも浦和との開幕戦に出かける前の数時間を費やした。するとどうだ、公式サイトよりレンタル屋サイトの方が正しく伝えているではないか。おそらくレンタル屋サイトは日本人100%の制作で、公式サイトはアメリカさんのご意向が強制されているためだろう。この作品は家族の絆などという使い古された抽象的な正義感を持ち出すようなものではない。むしろ『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』に『未知との遭遇』を加え、『スタンド・バイ・ミー』を背景に溶かし込んだ極上の名作だ。特に初恋の相手役のアリスちゃんが良い。劇中で少年たちは映画を撮っているのだが、刑事の恋人役の彼女がまるで、昨日読み終えた『長いお別れ』の中の‘リンダ・ローリング’を思わせてくれた。そのリンダ、次の『プレイバック』にも登場し、最後はとうとうマーロウの嫁はんになるのだという。これはすごい。泣いてしまうかも知れない。パーカー氏はついにスペンサーとスーザンを結婚させないまま死んでしまった。いずれはマーロウみたく、嫁にもらう物語を考えていたのかどうか、もう知りようがない。
アンダルシア女神の報復 2012/3/3(土)
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『アンダルシア女神の報復』…アンダルシアという言葉(或いは言葉の響き)を最初に意識した記憶が鮮明なのは近藤真彦の歌った『アンダルシアに憧れて』だった。夜のヒットスタジオで歌詞を失念したシーンに失笑した。せっかくの名曲を台無しにした瞬間だった。その時までにけれど僕はアンダルシアという言葉(或いは言葉の響き)を知らないわけではなかった。理由はフラメンコだったか闘牛だったか、もしかドン・キホーテだっただろうか(ちなみに‘ラ・マンチャの男’のラ・マンチャ州はマドリードやバルセロナからアンダルシアへの途上にある)。今ではアンダルシアという地は僕にとって欠かせなくなった。リーガ・エスパニョーラでの「世界一熱い」アンダルシア・ダービーの地であり、ベティスとセビージャのその2チームだけではなく、シェレス、マラガ、アルメリア、レクレアティボ、カディス等、どこも熱さでは負けないチームカラーが見ていて楽しい。地名がついているだけで読みそうになってしまい、どうにか踏みとどまった『カディスの赤い星』のように、言葉(或いは言葉の響き)に弱い僕にとって‘アンダルシア’という名のついたものはそれだけで蠱惑的で、だからといって内容が素晴らしいかどうかは全く別である、という典型の作品ではあった。ま、孕む前のメイサちゃんの最後の腹筋がチラリと見えただけでもありがたいことなのかも知れない。
少女たちの羅針盤 2012/2/26(日)
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『少女たちの羅針盤』…あの夏の夜、僕は自転車の後ろに乗ってKの身体に腕を回していた。待ち合わせたのか偶然だったのかは覚えていないけれど、会ったのはアーケードのある商店街だった。そのまま二人でいつものBARへ向かった。店を出ると土砂降りの雨で、濡れながら自転車を押して帰った。15年後(8/20)に詩【自転車】を書いた。15年間の陽と風雨に晒された思い出は爽やかに乾いていた。すっかり様子の違ったその商店街の路上で、少女たちが演じていた。嘗て18歳のKも制服を着て歩いたに違いない路上から、無数の物語が始まっていったのだ。どうせ地元がロケ地になったという理由だけで騒いだのだろうと、内容には期待せずに観たこの作品、あっという間に惹き込まれたのは見覚えのある街並みや風景のせいだけではなかった。忽那汐里ちゃんが出ていた。数日前に「食わず嫌い」で初めて見て印象に残っていたので‘へぇ’と思った。『O-PARTS』という深夜ドラマを連ドラ予約したばかりだった。そういえば『家政婦のミタ』で見た記憶が蘇った。あれは初回だけ見て何だか重苦しいので遠慮したのだった。その後の高視聴率はその重苦しさが原因らしかった。娯楽なのに重くて苦しいなんて嫌なこった。これから観る予定の『マイ・バック・ページ』にも出ているようだ。でも僕は剛力彩芽ちゃんがいい。『アスコー』の時から眼をつけていた。倉科カナちゃんと‘どっちかにしなさい’と叱られたらマジヤバイなぁと妄想している。
トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン 2012/2/18(土)
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『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』…自慢ではあるが僕は「寅さんシリーズ」を一作も見ていない。20年ほど前、長距離バスの中で小さな画面に映っていたのを眺めた記憶はあるが、途中で目的地に着いた。松坂慶子が出ていた。もちろん「釣りバカ」も見ない。ビッグコミックで連載が始まった頃に読んだが面白くなかった。僕は007もStarWarsもスーパーマンも見ない。シリーズものが性に合わないのかも知れない。最近ではアイスエイジとパイレーツを3作まで見たのが最長だろうか。パイレーツも最新作はパスをした。ハリーポッターもスパイダーマンも2で止めた。次第に薄まっていく様子が何だか老いた性欲のようで哀しいのかもしれない。これから見ようとしている中にも『アンフェア
the answer』や『猿の惑星
創世記(ジェネシス)』、『アンダルシア女神の報復』、『麒麟の翼 劇場版・新参者』があるが、『猿の惑星』以外は数を重ねた夫婦の寝技のように、期待も失望も織り込み済みなので気楽なものだ。『猿の惑星』だけは僕の映画の原風景だけに、どうしても思いが募る。期待が外れた時の辛さが、再会した恋人のアソコの白髪のように寂しくなければいいのにと願う。この「トランスフォーマー・シリーズ」に限っては、必ずいつかの終焉を覚悟しながらのあまりにも楽しすぎる関係がむしろ辛い。それほどいつも、このアナログ感に魅了される。金属の質感とメカニカルな律動は、古き良き、けれど機械音痴だった青春が蘇る。できればもう次を撮らないでもらいたい。据え膳を遠慮できるほどではないのだ、まだ。
悪夢のエレベーター 2012/2/11(土)
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『悪夢のエレベーター』…仕事柄、リアリティに抱かれ臨場感に浸りながら観ることが出来た。前半は‘幼稚な人物設定’に対する我慢の限界が近くなり、もう少しのところで、ありふれた場面転換とはいえ後半の生臭さを見逃すところだった。ミステリー小説オタクへの偏見や、クリスティの最高作品のチョイスには少しく違和感が残りはしたものの、たったひとつの教訓話が妙に腑に落ちてしまった。嫌なことや辛いことがあると僕は、その出来事までの経過とその後の僕の心的現象に何度も向き合うことにしている。その際には妄想や連想、想像力を駆使して愚痴や文句をこぼし喧嘩を売り、時には殺人も計画し実行する。そうやって3日も経つと、感情や悪者が僕の中で対象化され、週明けには何でもなくなってしまうことを知っている。劇中、こんなセリフがあった。「生きていればまた、今日よりももっと辛い日がきっと来る。その時になれば今日の辛さは何でもなくなってしまう」。気の利いた慰めだ。普通なら「生きていれば良いことがたくさんある」と励まして終わりだ。こういう説得の仕方がむしろ効果的な時代、或いは世代に直面せざるを得ない今の大人たちはさぞ大変だろうと思う。けれど、生きる意味などではなくて、今を生きていることそのものがもう既に生きていることの理由なのだと知るためには、かなりの嫌なことや辛いことをクリアしなければならないのかも知れない。生物的存在以外に、そもそも生命の意味など無いのだとしても。
フィフスエレメント 2012/2/4(土)
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『フィフスエレメント』…‘自分を信じる’という常套句がある。‘自分たちのサッカーをする’という筋肉脳アスリートたちのためのマニュアル語でもある。嘗て世に蔓延った‘善処いたします’という金満脳政治家たちに重宝された勘弁、、、簡便語が近似句として正解だろう。僕も自分を信じねばならなかったのだ。1997年当時に‘こんなのは見るに値しない’と決めた自分を。あれから15年、世の中も僕自身も変異し変遷し変貌した。何をチ迷ったか、どこのどんな一字一句に間を刺されたのか、自分の判断のブレがこれ程までに悲しいと感じた作品はない。アメリカさんの幼稚さは製作側だけではなく、見る者たちのレベルの低さに合わせているのだとは、情緒的で内省的な人間心理の綾を綴った静かな熟慮を味わう高尚な内容では殆どの国民が理解の外なのだとは、熟知しているつもりだったのに。こんなもので一喜一憂する様子を想像しそして、4年後の<9.11>で見事に積年の恨みを晴らされたアメリカさんの、ムキになって振るい続けてきた逆ギレ暴力三昧を重ね合わせるとやはり、キレやすい単細胞アホバカを挑発することの無益を思い知らされる。とあるサイトにはこんなものについて、‘真面目に付き合って真剣に文句を垂れるような作品ではない。’と評しているが、それを言っちゃあお終ぇよ。映画くらいしか文化的な何がしかの存在しないアメリカさんから映画を無くせば、後は人種差別と薬物暴力と欺瞞家族しか残らなくなる。もちろん大半の映画はそんなことどもに終始しているようではあるが。
告白 2012/1/28(土)
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『告白』…R-15指定の凄惨な場面が続いた。にもかかわらず後味がすっきり爽快なのはなぜだ。もしかしてガキ嫌いであることと関係があるかもしれない。或いはガキ以上に教師に反吐が出るからかもしれない。多分きっとガキと教師のどちらもが次々に不幸になる展開だからに違いない。「告白」というのはあまりに美辞が過ぎる。これは言い逃れの短編集だ。自業自得、因果応報の不幸をあくまでも他者の所為にし続けるガキと教師の自愛のなすり合いだ。余韻の清々しいはずだ。しかも殺されるのが芦■愛菜というおまけつき。あれぽちの端役にさえ売名行為とは大人気なくて恥ずかしくなる。そういうことなら僕もひとつ告白をしておこう。劇中、木村佳乃が人殺し息子に対して‘かわいそう’と囁くシーンがある。息子は悪い友人に手を貸して芦■愛菜を殺しただけなのだ。僕も嘗て悪い女に性器を、精気を抜かれて火宅を出たことがあった。悪いのは女ではなく僕自身だった。息子が離婚をするというので田舎から出てきた母は、妻の実家の客間に正座して‘ヒ●キちゃんがかわいそう’と言ったと、後に元妻から聞いた。元妻は蔑むように伝えた。聞いた僕も蔑んだ。悪いのは僕だ。人を殺したのも僕だ。それでも母性は、、、かと思えば劇中、もう一人の母親は息子をとっとと棄てた。息子の方が母を捨てられなかった。僕の母ももうすぐ死ぬ。僕には悲しみも惜しみも悔いも何も湧き上がらないことに確信がある。母の過失ではないが僕の薄情でもまたない。仕方がない、そんな風だったのだ今まずでっと。
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない 2012/1/22(日)
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『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』…今をトキメク‘IT企業’で働く新入社員苦闘の物語。自死した僕の義弟もかつて、まだITなんてゆー呼称のなかった20世紀終盤の頃、System
Engineerとして全国の銀行を飛び廻っていた。何週間も現地のビジネスホテルに泊まり込んでの、ローカル銀行のシステム開発や保守だ。今思えば過酷な肉体労働だが、当時‘SE(エスイー)’という響きは甘く誘惑的な職業だった。同じように肉体労働に過ぎなかった僕の全盛期は、6時起床で午前中に5時間労働、昼食後から21時まで8時間労働、計一日13時間をモニタとキーボードの前で過ごし、そんな日が一ヶ月に20日間以上。時に日曜祝日もなし。9時に出勤して5時に帰る正社員様たちが遊んでいる間の隙間産業景気に沸いていた。だから多忙だとか激務だとかの(映画では業界用語で‘デスマ’と呼ぶと教えてくれた)忙しさの感覚は極端に相対的なものであることを知っている。映画をみている限り、イマドキの子はどうも忍耐力や集中力に欠けるようだ。あれしきのデスマ(Death
March=死の行進)と人間関係で音を上げているようではこの国の未来は暗い。しかも死の行進などと無礼な表現。今の僕たち君たちがデスクワークごときで悲鳴をあげていられるのは、嘗て本物の死の行進を遂げた兵隊さんのおかげだと心得よう。ところで映画を観ているとヘッドフォン越しに電話のベル音がした。そういうシーンではなかったが場面展開としてよくある演出だ。けれどそうではないようなので転がしておいた子機を見た。着信のボタンが光っていた。出ると娘からだった。♪お父さん、わかる?♪というので‘お父さんと呼ぶ女性はこの世で一人しかいないよ’と気の利いたことを言った。
海炭市叙景 2012/1/15(日)
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『海炭市叙景』…信号待ちをしていると僕の隣に立つ人を意識することがある。互いの数十年の来し方の末、今この瞬間に同じ所で立ち止っているということ。信号が青になれば同時に歩みを始め、渡り終えた後はまたそれぞれの方向に向かう。横断歩道の向こうからはまた別の、けれど同じ瞬間にここに居る人が来て僕とすれ違い、例えば彼らと再び商店街のドラッグストアのレジで前後に並んでも、或いはすでに過去のいつかに人気のラーメン屋で相席をしていたとしても、彼らも僕も気づかないまま人生を終える。歩いていると必ずのように、いつかどこかで角を曲がる。曲がらねばならなくなる。‘今’は曲がってきた末の結果でしかないし、僕たちは誰もが「ただの現在に過ぎない」(by トロッキー)のだし。生きていることはそのまま死ぬことだ。生誕の時から既に生命は死へと細胞分裂を繰り返し始める。それにしてもこれ程までに悲惨な部分だけを意図的にピックアップするのはどうかと思う。たとえ北国の寂れた造船町だとしても、喜怒哀楽は等分に点在する。小説や映画はそれら具体的な一々を表現することであるにしても、捉え方がフェアではないかも知れない。少なくともせっかくの休日の朝から150分も費やすような内容でないことは確かな作品だ。
地球征服アパート物語 2012/1/14(土)
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『地球征服アパート物語』…まさかとは思っていたが近来マレに見る大傑作だった。しかも尚、長短の間やすべり芸など、ありとあらゆる手法で覆い隠そうとはしていたが、実は現実社会における最もシリアスな問題である‘有事’に対する警鐘を鳴らす問題作でもあった。ひとつは宇宙人の襲来による地球征服に晒された時、僕たちはどれくらい真剣に対峙できるのか、という問題提起だ。「9.11」と「3.11」を体験してしまった現在、もう何が起こっても不思議はないこの地球に生きていて、同時に科学技術や映像技術の飛躍的な進化を日々目の当たりにしつつ、知らない内に麻痺さえしてしまっている現代人の前に、生身の宇宙人が「地球を征服しに来ました」と現れた場合の、リアルなシミュレイションであった。更に考えを穿ち、関係を日本列島を侵略する亜細亜大陸民族と置き換えれば事は加速してマジにならざるを得ない。ラストは恋愛感情で誤魔化す他のなかった監督の葛藤が痛烈に感じられた。或いは、宇宙人を「神」の存在と比喩視して観ていれば、その無力、形骸化、偶像崩壊、ニーチェの哲学が腑に落ちて奈落の底がこそばゆい。侵略者であっても堕天使であっても、もはや地球にとって千年の単位こそが必須なのだとしたら、本作は、国家の在り方や治め方などではなく、存在理由そのものが問われなければならないことを訴えているのかも知れない。
洋菓子店コアンドル 2012/1/7(土)
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『洋菓子店コアンドル』…封切られた当時、駅の構内でA4サイズのリーフレットを見つけてそして、一枚をカバンの外ポケットに差し入れて事務所のスチールキャビネットに4個のマグネットで止めてから半年以上が過ぎた。第一印象の期待通りの作品でとても楽しくて幸福な時間を味わえた。久しぶりの優ちゃんでそして、優ちゃんでなければ創れない味わいだったけれど、何も洋菓子店でなくてもよい物語だった。洋菓子の映像の美しさが印象的ではあったけれど、日本料理でも寿司でもラーメンでも同じ結果だっただろう。繰り返しになるが、この世の中から消えてなくなってもちっとも困らないものが僕にはいくつもある。花、音楽、パン、そして菓子類がそうだ。イマドキはスイーツなどと和製英語の馬鹿丸出しを全世界に晒していてなお且つそのことに気づいていない阿呆丸出しのこの国のお姉さまたちではあるが、砂糖とバターと生クリームさえ存在しなければ彼女たちの肉体はもう少しマシな外観を呈すに違いない。そういえばバブル期、火宅を出て木造ボロアパートで酒池肉林の日々を謳歌していた頃、酒場で知り合った氷見出身の後輩の最初の夢がケーキ屋だった。フランスに修業に行くとまで言い放った彼の半年後の夢は花屋だった。といって彼はオカマではなく、それなりに上手く手首のところをトントントンと叩いてオムライスを巻いていたバイト先で知り合った、カウンターバーで日本酒を注文する少女と結婚して故郷に帰って行った。実家の電気屋を継いだと聞いたが、あれから20年、もしかまだ氷見に居て30幾つ目かの夢が漁師とかであれば、いつか寒ブリの1本でも届けてくれたらいいのになあ。ところで「コアンドル」という店の名前。フランス語で<
Coin de Rue >と表記して「街角」なんだそうだ。けれど僕には英語で<
Coin to Rue >と書いて「銭金に後悔する」と読めてしまったのはあまりにも被害妄想が過ぎるのか。
軽蔑 2012/1/2(月・祝)
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『軽蔑』…新年の改まり感もどこへやら、相も変わらぬローカル新聞、元日から低級でおめでたい記事が三面を汚していた。「夢のありか」と題したシリーズその(1)。小見出しを拾うと、未来どこ
4年生の焦燥、不採用続き卒論後回し、社会人の入口探し、、、という例によって低能化して久しい新聞記者の晴れ舞台のようだ。記事では二人の就活者が登場する。一人は市内の私立大4年生(男・24)。20社近くから不採用を通知され‘俺は必要とされていないのか’と嘆く。授業はほぼ漏らさず履修し、ゼミにも熱心で大手企業を望んでもいない。授業にあまり出ない学生が内定を取っていく中、真面目と熱心を売りにしているが、高校2年春から3年間、ひきこもった実績を「ゆとり教育」のせいにしたまま、面接官に履歴書の空白を聞かれるとシドロモドロになってしまうらしい。彼の姿が目に浮かぶ。僕くらいになると彼を平気で分別して分類してかなりの確度で類型化できる。僕が面接官なら一目で捨てるタイプだ。もう一人も市内の私立大4年生(女・21)。やはり不採用通知を手にしている。1ヶ月ほど前まで‘生活費を稼ぐ’という名目の下でキャバクラにいた。バイトで鍛えた話術と度胸があれば何とかなると思っていた。2歳上の恋人との将来を考え、金髪を黒く染め、派手なネイルと付けまつげを外した。面接官から自己PRなど2問を素っ気なく聞かれ♪これで、ウチの何が分かるん♪と感じたらしい。契約社員の恋人と家庭を築き、子供を育てたいと願うという。間違ってこんな女を採用してしまう会社が不幸だ。記者は取材中に、カメラとマイクとノートに向かってキレイ事と嘘と出まかせを並べる彼らの本質が見えなかったのだろうか。記事には記者のプロフィールが載っていない。おそらく似た者同士の同情記事か。こんな内容を元日に掲載する編集長もまた無能化の一途か。就職できないのは社会や時代のせいではない。キャバクラに3年間も勤めた女からは下品さが自然と染み出てくるし、普通の面接官ならその臭いを嗅げる。真面目と熱心さだけが売りものの遊びを知らない童貞男が社会で役に立たないのはもう誰でも知っている。もちろん‘君は必要とされていない’…というそんな作品でございました。本年もどうぞよろしく。
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