事件当夜は雨 2012/5/15(火)
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『事件当夜は雨』…通勤の電車でミステリを開いていると隣に女が座った。同年輩の婦人だ。座ってから落ち着くまでの、買い物帰りの荷物の置き方とふうわりとしたスカートの身づくろいの様子が良かった。活字に焦点を合わせながら視界の端で婦人の様子を追っていると好奇心が伝わってきた。電車に乗る機会は少ないのかもしれない。立って談笑する黄色い声の女子学生たちに微笑みを浮かべている。前に立つ疲れた様子の紳士の服装が気になるようだ。左側で袖の触れ合っている僕の方にも遠慮のない視線を送ってくる。そんな風に車内を眺めていた婦人が僕に声をかけた。‘読書のところをごめんなさい’と言うのだ。嬉しい驚きを隠しながら視線だけで首肯づくと、婦人は‘ヒラリー・ウォーなんて読まれているのですね’ときた。ものすごいことが始まりそうな予感が背筋を走った。ヒラリー・ウォーはまだ2冊目なんですよという僕の返事をきっかけに、いったい何が待ち受けているのだろう。‘あなたも読まれたのですか’と問うと婦人が、ショッピングバッグの中から文庫を出した。ヒラリー・ウォーだ。『事件当夜は雨』だ。僕のと同じだ。この物語の事件は1960年の5月12日に起こるのだ。今日は2012年5月12日だ。婦人が栞をはさんだ部分を開いて見せた。どういうことだ。僕の読んでいるのと同じページだ。種も仕掛けもありそうな罠かもしれない。話すうちにコリン・デクスターもレジナルド・ヒルも彼女のお気に入りなことが知れた。‘他にも共通点があるかも知れませんね’などと、思わず口走っていた。。。数日後、彼女が殺された。報道で知るよりも先に刑事が僕を訪ねた。彼女の遺した日記に僕との事が書かれていたのだ。彼女の名は康子。僕の名前は森村洋。刑事から知らされて初めて、彼女の姓が森村であることが判った。ことによると彼女の誕生日は1960年5月12日なのか?! …何だかそんなミステリを書いてみたいと思った。
デイン家の呪い 2012/5/7(月)
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『デイン家の呪い』…ハメットの作品の中では最も人気がなく、ハメット自身が‘バカげた物語’と漏らしたという「駄作」であると、解説で先読みしたからかどうか、低いテンションのまま読み始めたら、これがまた楽しいのだった。名作の冠を欲しいままにしている『マルタの鷹』よりはかなりのものだ。たまたま内容が霊能系似非宗教洗脳麻薬漬けパープリン美少女拉致物語で、1929年に書かれたにしても、2012年のこの国の病巣をえぐり取っている。1929年当時にはバカげた奇想天外物語だったかもしれないが、2012年の僕たちは霊能も洗脳も毒ガステロも全て、殺人へとまっしぐらな事実を知っている。特定の個人が貪られたり大量無差別殺戮だったり、人が自分の中の自我に有りもしない価値を必要とした時、人は生き物としての境界から逸脱する。カトリック系ミッションスクールの制服を着ていたからだろう、通学の駅前で優しくてキレイなお姉さんに声をかけられた。有頂天になって同伴した先はあの統一教会の洗脳拠点だった。年上の男女が集会していた。見学だけでも、と優しくてキレイなお姉さんが僕を隣に座らせた。まだ童貞だった僕は危険を察知して逃げた。女を知っていたら、自分が女にモテるタイプであることに気づいていたら、お姉さんを欲しがったあまりに危ない目に陥っていたかもしれなかった。キリスト女のお姉さんが僕に体を開くはずがなかった。ミッションスクールの宗教の時間で常にスペイン人の宣教師に疑問を投げつけていたおかげだった。女の肉体を布教活動に利用するなど、男子高校生には甘い罠だったのだ。神様、その節はどーも、あなたを受け容れられなかった僕をお助け下さいまして感謝です。アーメン。
ながい眠り 2012/4/30(月)
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『ながい眠り』…「鍵のかかった部屋」と「超再現!ミステリー」というのを楽しく(バカバカしく)見ている。刑事モノ系ドラマ花盛りの今、少し軸をいじってきた感じが可愛い。どちらもお子ちゃまがターゲットなので肝心のネタが幼稚だ。特に「超再現…」はネタ元の小説を紹介してから物語を忠実に再現している(らしい)のだが、その小説そのものが児童向けの絵本のようなシロモノで、どうも僕たち大人はマーケティングの対象外のようだ。かといってクリスティやクィーン、ドイルなんかはもう使い古されてしまい、パクり屋さんたちの知識の浅さが可哀想だ。せめてコリン・デクスターやレジナルド・ヒル、そして本書ヒラリー・ウォーのような極上の警察小説からでも引用するくらいの専門性を備えていなければ、せっかくのサスペンス系ブームが軽薄短小のまま終わってしまいかねない。とはいうものの本書のあと書きに、‘この作品、チャンドラーの『長いお別れ』と『大いなる眠り』を足して二で割ったようなタイトルゆえに、損をしていたきらいがあります。’などと書く軽薄な解説者(小山正氏)は、それはそれでまた信用はできないが、損をしていたことは確かかも知れない。というのも、彼の書いた「描かれているのは地味な捜査活動だけであるにもかかわらず、ぐいぐい物語に引き込まれてしまう」という意見に同感だからだ。必ずしもスターやヒーローやトリックや大どんでん返しは要らない。気の利いた風体の、現実離れした(特に水谷豊)人物は、大人ならとてもまともに見ていられないに違いない。
マルタの鷹 2012/4/24(火)
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『マルタの鷹』…サム・スペードは煙草を巻く。いちいち巻く。取り出してから火を点けるまでのその間(ま)が良い。小説の場合は読み手の好む間で進めばよいが、映画では数秒のタイミングが難しいだろう。アメリカ人には理解できないかも知れない。煙草の葉を入れた袋と巻紙の束を取り出す。紙を広げて葉を敷いてから巻く。紙の端を唇で湿らせ、巻いた両端を畳んでから口に銜える。今は便利なグッズやフィルタまで揃っているが、その頃(1929)はもっと単純だった。もちろん、わざわざ巻く必要のないシガーもあったはずだが、そこはハメット氏の演出だろう。僕の子供の頃に「平四郎危機一発」というドラマがあって、平四郎(宝田明氏)が危機になるといつも‘煙草を一服’お願いするお約束のシーンを覚えている。煙草を悪者の顔めがけて指先で弾き、ひるんだ隙に危機から逃れるのだった。あの場合、さすがに紙巻はさせてもらえなかったに違いない。僕が吸い始めた頃に、使い古した辞書のページを破って巻く、というのが流行った。マズイに決まっているが記憶にない。葉を適度な量と堅さに詰めて巻くのが難しいはずだか記憶にない。サム・スペードの長編はこれ1作らしく、ハメット氏の長編そのものも5作しかない。語り口もマーロウやスペンサーのようではないし、サム・スペードはそれほど正義の味方でも女に優しくもない。悪魔のようなV字顔だし、金に汚い。むしろそういう点で当時は‘画期的’だったのかも知れない。同時期のエラリー・クイーンの礼儀正しさとは対極の、けれど生身のリアリティが迸っている。
いやな感じ 2012/4/18(水)
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『いやな感じ』…しばらくぷりに‘文体’というやつを楽しんだ。もちろんパーカー氏やチャンドラー氏の物語も文体が生命線の作品群だ。センテンスの短く、感情表現の乾燥した探偵物語が、例えばマーロウとブロンド達との関係風であるとすれば、高見順のこれはまさに正当な日本人男女のブルーフィルム的湿地帯冒険譚なのだった。チャンドラーが、ショットグラスに注いだストレイトのバーボンをトゥフィンガー煽るみたいだとしたら、高見順のこの長編は火鉢に炭を敷いて火を熾すことから始め、薬缶に入れたアルマイトのちろりで人肌のぬる燗に暖めた酒をちびりちびりと、そのまま一升を呑んでしまうようなもの。たまにはこのような味わいも必要だ。ハードボイルドばかりだと心身がアメリカ臭くなっていけない。そもそも本書は『マイ・バック・ページ』という69年〜72年の学生運動を背景とした若くて幼稚なテロリストを描いた映画のラストで囁かれたセリフに触発されて読んだ。革命には資金と武器とが必要で、資金をブルジヨワに、武器を軍人に援助される。心酔する大杉栄を軍に虐殺され、ブルジョワは私利私欲のため以外に金を出さない。テロリストにとっては両者とも敵だ。各々が大儀や名文や思想や主義や主張ではなく、結局は自己満足のために生きていることに気づいたテロリストのそれでも死と女に立ち向かいたい若さが爽やかだ。読んでいる真只中の今(4/10火)、北の鮮人がミサイルを発射する準備が整ったという報道が賑やかだ。終末には決戦を賭す、…否…週末(4/14土)には鳥栖で決戦だ。僕も戦地に向かう。飛来すれば楽しそうだ。相手GKの邪魔になればなお良い(結果は残念なことに終わった)。がしかし、僕が若きテロリストなら(若くなくても)、被災を絶好の機会と捉えた私利私欲の亡者がありとあらゆる利権争奪に蠢いている中枢を標的にする。今狙えばイチコロだ。東京都が最適だ。或いは列島に散在する原発の方が簡単かも知れない。今ここで原発が正体不明の爆発を起こし臨界点がどーのこーのとなった暁には、ミサ・イルソン氏、だったか、金・John要る氏、だったかは大喜びに違いない。
プードル・スプリングス物語 2012/4/4(水)
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『プードル・スプリングス物語』…マーロウが結婚した。大金持ちの(天使のような)リンダと。リンダといえば山本リンダ(1951-)だ。他には知らない。リンダは芸名で、朝鮮戦争(1950-1953)で戦死したアメリカ人の父親がつけた愛称らしい。父は戦場で『長いお別れ(1953)』を読んだに違いない。ことによると本職は私立探偵だったのかもしれない。マーロウは結婚したがスペンサーはしないままだった。マーロウに特定の女はいなかったが、スペンサーにはスーザンがいた。スペンサー・シリーズを書いたパーカーのリスペクトだったか。この物語は41章まであるが、4章まで書いてチャンドラーが死んだ後、30年を経てパーカーが継いだものだ。(天使のような)とはパーカー氏の言葉だ。チャンドラーとは少し違う。チャンドラーは、或いは清水俊二はもう少し直截だった。巻末で二人の違いを原ォという人が書いている。もし本書をこれから読もうという方に忠告したい。原寮という人の文章は読まない方が良い。単なる自慢話にすぎない。特に、本文の前には読まない方が良い。興が醒める。そもそも原寮とは誰だ。チャンドラー好きの作家らしい。1988年にデビューしたらしい。僕がこの国の小説に見切りをつけ始めた頃だ。とはいえ、僕の知らないミステリ作家など僕が読むには値しない。そもそも日本人とハードボイルドなど、「スコッチのマルガリータ同様」に合うはずもない。パーカー氏はマーロウの物語を閉幕させなかった。リンダとは‘愛し合うことはやめられない’ままにしたし、正義よりも矜持、よりもセンチメンタルなロマンチック流を残してくれた。もう続きを書くほどの小説家はいないかもしれない。
ベウラの頂 2012/3/31(土)
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『ベウラの頂』…レジナルド・ヒル氏が亡くなっていたのを知った。今年の1月12日だったそうだ。日経新聞に載ったそうだ。どうしてウチのローカル(地方)紙は取り上げないのだろう。知らなかったのかもしれない。地方紙は痴呆なのかもしれない。一昨年にパーカー氏が亡くなったのは1月18日。近い。僕の愛読している存命の小説家が居なくなった。ますます世間から外れていくみたいだ。本書で幼い娘を亡くした親たちの「心の奥深い部分でスイッチが切れた」という表現がある。僕の中の幾つかのスイッチも、切れてから何年も過ぎた。昔の家のヒューズは一本で、切れると家全体が真っ暗になった。今はボックスになっていて部屋や用途別に分岐されているので、一度にお先が暗くなることはない。それでも少しずつ、一つずつ、確実にスイッチは切れていく。ヒューズなら、落ちても上げれば簡単に元に戻るようになったが、心の奥の回路には手が届かないことになっている。しかもこの書物、重い。25mmもある。料理秤(亀子体重測定用)に乗せると383gあった。京極夏彦も真っ青だ。文庫サイズではなく、ハヤカワ・ポケットミステリだ。ポケットに入るギリギリだ。その上、登場人物が多い。犯人を当てようという気力と本を持ち続ける握力が萎えてしまう。またひとつスイッチへの回路が遮断されそうだ。がしかし気力を振り絞るうちに犯人像が透けてきた。繰り返し語られる‘ダムに水没する村への愛着’がポイントかも知れないと思わせる。妙な恋愛感情が鏤(ちりば)められている。その中のひとつに臭いやつがあるのだ。〜〜〜読み終えた。全然違っていた。
プレイバック 2012/3/16(金)
『プレイバック』…マーロウが答えた。‘しつかりしていなかつたら、生きていられない。やさしくなれなかつたら、生きている資格がない’…セリフだけが一人歩きしてしまっているが、マーロウにこう言わせた女との前後の関係や会話を知ると、チャンドラーの書いたマーロウの登場する全てのシーンと比べてそれほど際立っているわけではない。おそらく映画の中のこのセリフの演出が大衆に受けたのだろう。と、調べてみたら映画化をされていない。このセリフはどうやら日本だけでウケているようだ。この国の幼稚な作家が広めたのだという。前後の脈絡を知らんプリして、言葉尻だけを論(あげつら)うのはこの国のお家芸なのかもしれない。DMMさんに『ロング・グッドバイ』があったのでレンタル予約した。半世紀前の白黒アメリカ英語映画に耐えられるようなら、他の作品も観て見ようか。これでマーロウともさようならだ。最後に『プードル・スプリングス物語』というのがあるが、途中でチャンドラーの筆が絶たれたらしい。30年後、それをパーカー氏が継いで書いた作品だ。パーカー氏も死んだ。マーロウとスペンサーと他の登場人物たちが糸を切られたマリオネットみたいに幕の向こうで静止している。幕はもう上がらない。'
Long Goodbye to them.'
長いお別れ 2012/3/10(土)
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『長いお別れ』…最初は何も知らずに読んだ。高校生になったかどうかの頃で何も覚えていない。後に、マーロウをボガードが演った映画を観た。‘そんな昔のことは忘れたよ’を口ずさむように連発した。あ、あれはカサブランカだ。最後の一杯はギムレットに決めていた頃があった。ジンはゴードンをチョイスしていた。できればライムを絞ってもらった。どんなに飲んでも、酔うほどに身体が熱くなった。シェイクはせず、ステアだけにとどめたジン・ライムに、恋への臆病を透かし見ていた時期が次にあった。40年後、あらためて読んでみた。♪最初のキスには魔力がある。二度目はずっとしたくなる。三度目はもう感激がない。それからは女の服を脱がせるだけだ♪〜こんな場面を少年の僕はどう感じていたのだろう。あるいはその時の記憶がその後の僕を、最初のキスへと駆り立ててしまったのだろうか。ギムレットはもう飲まない。八重泉にシークワサーを絞れば近いかも知れない。酔えばもう首を垂れて下を向いてしまう。けれど今なら、三度目以降でも魔力は持続してくれるかも知れない。女の服を脱がせるのが面倒になって久しいし、面倒は脱がせる前だけでなく、その後もずっと続くこともわかっているし。それにしても男同士のやりとりで読みながら泣きそうになる小説は初めてだ。この物語が継がれてきた理由だろう。砂糖なしのブラックコーヒーにウイスキーを入れて飲んでいた頃があった。読んで懐かしく思い出した。灯りを消してウイスキーの染みた角砂糖に火をつけてから、女の飲むカップに落としてやると喜んだ。そんな夜もあった。マーロウは男のためにそれをした。角砂糖に火をつけたのではない。別れの挨拶をしたのだ。
殺す者と殺される者 2012/2/29(水)
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『殺す者と殺される者』…人生の分岐はイタズラなもので、あのまま景気風が吹き続けていれば、とは一度ならず考えたりもしたが、もしそうであれば今頃の僕は…(1)
多忙と不摂生で死んでいるか病床にある (2)
金満社長になってはいても優しい妻に逃げられて孤独死している (3)
散財のあげく借金地獄から逃げられず首を吊っている (4)
若い女に溺れた末に捨てられて地獄を彷徨っている…(>_<) ともかくあまり良い結末を迎えてはいなかっただろうことは自信がある。あのままと現状と比較はできないけれど、失ったもののおかげで得たものと会えた人とのその全体で今の僕は生きている。Helen
McCloyという探偵小説家もそうで、次々に新刊を買い漁っては段ボールに読み捨てていたあのままなら、決して手に取ることのなかった作品群だ。もちろんReginald HillやRoss Thomasも同じだ。多分サンフレッチェにもバルサにも、そして確実に幾多の詩や詩人たちにも出会うことはなかっただろう。人生は代わりに別の出会いや娯楽を与えてくれていたに違いないが、今の心地よさと交換可能かどうかはもう知るすべがない。ヘレンちゃんとはこの作品でお別れだ。おそらく数か月後にはウィリング博士など忘却の彼方だろう。けれど人生とはまた、いつかどこかでふと思い出させておいて、密かにほくそ笑んだりするものだということも知っている。
ユダヤ警官同盟 2012/2/18(土)
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『ユダヤ警官同盟』…僕にユダヤ人の知識は少ない。ヒトラーのホロコースト以前から、そしてあれ以降もずっと、どうやら世界中からあまり好かれてはいないらしいことが薄々わかってきた程度だ。その原因が宗教がらみなのかと同時に民族的なものなのか、具体的には知らないしまた、そうであるのかどうかにも明るくはない。ただ以前から、「ユダヤ人」と「ユダ」の言葉の近似には妙な感覚があって、偶然とは思えないしかといって‘裏切り者’扱いされているユダ君の一般的には決して良くないイメージとユダヤ人を同一視してしまうことも何だか違和があった。中学生までにすでに新約聖書を(一度だけペラペラと)読み通し、スペイン系カトリックの私学高校に通いながら神父たちの禿げ頭を冷やかし、遠藤周作の『沈黙』に対する或いは、神の実在への無垢な疑問に対する大人たちの日本的な中庸な反応を伺いながら、僕は『Jesus Christ Super Star』で初めて、ユダ君の哀しみに触れた。それさえも意図的に誘導されただけの純情な青年の感傷に過ぎなかったのだろうと今では気づいている。1937年に30歳で死んだ中原中也が、ランボーに傾倒した若い詩人が、自身の生地「湯田」のその語呂の偶然に何を考えすぎてしまっていたか、僕にはもう知ることはできない。
幻の森 2012/2/5(日)
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『幻の森』…パスコー主任警部の祖母ちゃんが死んだ。祖母ちゃんは嘗て孫の大学の卒業式に乗り込んで、警察への就職を止めさせようとしたことがあったらしい。英国の警察小説を読むと国民性の根底に警官という職業への差別意識があるみたいだ。昔も今も労働は無粋なもので、支配階級たちで治められている国ならではの汚点だ。我が国では自衛隊への蔑視が顕著だが、消防士にも米国ほどには敬意がはらわれていない。おそらく‘火消し’という組織や伝統の下品さのためだろう。27歳で辞職して妻の実家に居候していた頃、義父が消防士の空席を見つけてきたことがあった。市の公務員だった義父は試験をパスすれば人事的には大丈夫だから、みたいなことを言った。今は知らないが30年ほど昔は高卒程度の公務員試験と基礎体力さえあれば良かったような記憶がある。過酷な訓練も不規則な寝起きも各種車両や機器の操作資格も、席にさえありつければ後は若さと生来の知性が役立っただろう。ただし高所恐怖症だった僕は、消防士=ハシゴ車という短絡的なイメージしか持ち合わせず、また高校三年生の冬休みのバイトで体験した建築現場屋上でのコンクリート打ち(高所恐怖を発症する契機)作業を連想してしまい、早々にお断りしたのだった。今でこそ自分の消防士姿など想像するだけで滑稽だが、この30年間に遭遇した色んな経験から、他者よりは比較的火を怖がらない自分を知ってもいる。もしか消防隊員になっていたら、或いはあの個人的な「火宅」も速やかにチン下できていたかも知れない。
ひとりで歩く女 2012/1/23(月)
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『ひとりで歩く女』…物語の80%ほどを「手記」が占めていることに気づけばいい。書かれていることの中から、証明可能な事実と創作可能な部分とを嗅ぎ分けられればいい。或いは、そういう構成なのかもしれないと前提できればいい。ピンとくるのが早ければ早いほどいい。札束をバラまいてしまった時点くらいからだと最高だ。パスポートの件(くだり)を覚えておこう。解決後に捜査官(のような人物)が‘犯人の失敗だ’という発言があったが、これが書かれていなければ作品として成り立たなくもない。気づくのは船がニューヨークに着いてからでもまだ間にあう。そうなればその後に何が起きても動揺しない。惑わされない。もしかとか或いはとかもない。犯人はあの人でカラクリはもう全て明らかになって脳髄の中心でフフフと最後の一頁を心待ちにする。残る謎は‘ブッシュマスター’の件だけだ。あるいはドラキュラの存在の必要性と。おそらく恐怖の追加。頭脳攪乱。現場の賑やかしだろう。既にタイトルが全てを教えているか。‘SHE
WALKS ALONE’むしろ、直訳がいい。『彼女は一人で歩いている』〜→『女一人』とかがいいかも知れない(京都ぉ大原三千院ではない)。1948年の作品だ。発想が素晴らしい。女流作家ならではの細密な人物描写や服装の説明。それら全ての虚虚実実。人に勧めたくなる一冊だ。
かわいい女 2012/1/17(火)
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『かわいい女』…マーロウが捜査を終えて事務所に帰る。マーロウには待つ人がいない。鍵をかけない待合室代わりの部屋には誰もいないし、一番下の引き出しにウイスキーの瓶が入っているデスクのある続きの部屋の鍵を開けても、侘しい空気が出迎えるだけだ。電話は鳴るが良い知らせは殆どない。時折り女を抱き寄せて唇を合わせるけれど、マーロウはいつも孤独だ。だからなのだろう、チャンドラーに傾倒したパーカー氏が「スペンサー・シリーズ」を書いた時、探偵にスーザンを出会わせたのは。そしてパールを寄り沿わせたのも。シリーズのタイトルに「〜の女(Lady)」というのが皆無なのも偶然ではないはずだ。スペンサーの孤独はだから、マーロウの孤独とは違っていた。愛するゆえの最後の1mmの断絶と、愛せないゆえの最初の1mmの諦念、のようなものか。原題を『THE
LITTLE SISTER』という本書を清水俊二氏は1957年に‘かわいい女’と訳した。誰がどの女をかわいいと思うのか。女のどんなところがその男の琴線に触れるのか。奔放な振りの女優か、初心な振りのもう一人の女か…。探偵はどちらとも接吻する。女優の唇はハイボールの氷で冷たく燃えていた。田舎娘は唇をかたく押しつけていた。昭和32年4月初版の「世界推理小説全集48」は紙質が悪く製本が雑で、ページを繰る指のもどかしさが加速する。村上春樹クンが2010年に『リトル・シスター』と直訳したものでは、そうはいかないに違いない。
湖中の女 2012/1/11(水)
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『湖中の女』…物語は1940年代の夏が背景。「ビルの前の歩道には白と黒のゴムブロックが敷いてあり、戦争が始まったので政府にゴムを供出するためか、掘り起こしていた。」と最初のページに書いてあり、東南アジアに侵出した日本軍の影響かも知れないと思わせる。けれど他の箇所に「それ以外あまり戦争の気配は感じられない」ともあって、こっちがヒーヒー言ってたことと比べるとやはり、最初から勝てる相手ではなかったのだ。金持ちの依頼人の事務室は「温度調節をした空気を送り込む装置がついており、窓はみんな閉まって、灰色のブラインドをなかば閉じ、照りつける7月の日光を遮っていた。」のだから、エアコンではなくビル全体の空調システムだ。その頃のこの国の夏の冷房に思いを馳せなくても、最初から勝てる相手ではなかったのだ。やはりこれも物語とは直接の関係はないが、「国民地理誌」という雑誌への言及がある。ルビはナショナル・ジオグラフィックとある。今ならあえて翻訳する必要もないし、したとしても国民地理誌ではなく世界地理誌だろう。それにしても地理誌とは。さすがは田中小実昌氏。下ネタなのかと勘繰ってみたくなる。
完璧な絵画 2012/1/3(火)
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『完璧な絵画』…僕の母は80年の生涯、旅行以外で生まれた県から出たことがない。弟もその嫁も同じだ。1988年に出席した中学校の同窓会で、地元に居ない奴は少数だった。前妻も、僕と暮らした4年間を除いて今も生まれた土地に居る。その義父母もそうだと聞いたし僕の娘も息子も同じ穴に住み続けている。今妻も短大生だった2年間以外はずっとここに居る。義父母など県内どころか島を出たことさえなかったのだと思う。都会ならまだしも、地元の選挙で同姓同名者の一票の不備で当落が無効になったりする地域で生涯を終えるなど、僕には居心地が地獄に決まっている。そのような血の色濃い閉鎖社会ではいずれ必ず精神均衡の臨界点を迎える。血と性と精神の混交は狂気や殺戮を秘めているし、代々の土地への執着は大災害から自由ではない。いつか遭うと識っていて眼を背け続けていると、決して長くはない世紀という単位の果てに、人々の血は津波のように流されて土中へと引いて行く。そうなったからといって、先祖や伝統や血族や土着や風習や祭事のせいにしてはならない。大勢の血人が死んだからといって、国や行政や企業のせいにしてはいけない。地球の行為には抵抗しようもないのだし、人間の経済行為もまた大自然のたった一部分であるのだと哲学すれば…。というそんな物語。流れ流れて僕もここに来て10年が過ぎた。まだここを死に場所とは決めていない。決める愛着の欠片もないし、明日この地が揺れて沈んでも、僕の血は一族のためには流さなくて済むし。
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