蒼ざめた王たち 2005/12/24(土)
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スペンサー『蒼ざめた王たち』読了。解説にこんなことが書いてあった。。。『パーカーと妻は毎年1度、夫妻と一緒に食事をしてスペンサーものの次作に自分の名前を出してもらえる権利を競売にかける』らしくて、この作品に登場したのはパティ・グライフという女性。$3500で落札したらしい。1987年の原作だからバブルの真最中。あの当時は1$\100を切るとかどうとか言ってたから約\350,000だ。その値段で小説中にパーカーやスーザンと実名入りで競演できて尚且つ自分のことを“ブロンドの目を見張るような美人”と書いてもらえるのが高いか安いかはその人次第というわけか。実は先週、次は浮気してコーンウェルのケイちゃんに会うのだと書いたけれど(『神の手』)、15日の発売予定が何故だが遅れて、そのままスペンサーを続けて読んだ。今度こそ、次はケイちゃんに会いに行く。
父・萩原朔太郎 2005/12/16(金)
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萩原葉子の『父・萩原朔太郎』を図書館でパラパラめくってみた。晩年とか幼い頃、父が再婚した頃と、時系列を前後させて各章に別れているその短い文章のひとつずつを拾い読みしてみて、あ、と思った。萩原葉子の書いたものは朔太郎の名の下でしかあり得なかったのだと。死んでしまった人のことをこう書くのも何なんだけど、父が朔太郎であったから文壇も読者も受け容れただけであって、このような回想録的なエッセイを私が私の父について書いたところでいったい誰が気にするだろう。今どきのブログでさえそんなのは無死されるに決まっている。まるで僕のDiaryのようなもんだといえばもっと判りやすいだろうか。だから、萩原葉子は私は読まない。むしろ萩原葉子を読んだ上で朔太郎を味わうことの勿体無さを感じてしまう。それはもう朔太郎ではなく萩原葉子の見た偏見に彩られた父・朔太郎の実像でしかないのだから。私(達)は何も実像を求めているわけではない。詩であろうが何であろうが欲しいのは創作された虚像なのだから、といってしまっても過言ではないと思うのだけど・・・。
海馬を馴らす 2005/12/17(土)
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スペンサー『海馬を馴らす』読了。初回からの登場人物が入れかわり立ちかわり再登場するので気が抜けない。あれはあの時だけのあのストーリーのああいうキャラクターだと思っていたら突然また(数年後の設定で)準主役として出てくるので、へえぇ、と驚くと共に懐かしい気になってしまう。まるで中学や高校の同窓生だったような気さえするのだ。次はちょいと浮気して、パトリシア・コーンウェルの『神の手』。1年に1度、ここ数年は毎年12月に新作が出されていて、とっても会いたかったんだよ、ケイ・スカーペッタ様。
キャッツキルの鷲 2005/12/9(金)
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スペンサー『キャッツキルの鷲』読了。一日に45分(半身浴で15分+ベッドで30分)ずつを約1週間の間、スペンサーの1編ずつに身を任せ続けるのが至福だ。これで12作目。このシリーズはいったいいつまで続くのだろうと思っていたら書店で最新の単行本を発見した。その名も『冷たい銃声』。32作目だ。1937年生まれのスペンサーは来年69歳になる。おいおいそんな、いったいどんな内容なのだろう最新作。我慢できずに恐るおそる登場人物部分をめくってみたらスーザンもホークもちゃんと生きてて安心したけれど彼らも似たような年齢のはずで、、、、あと20作。このままのペースだと20週間、約5ヶ月、途中で若い娘や昔の女と浮気に走ったとしても来夏前までにはシリーズ完読だ。う〜ん、何だか楽しみなようで寂しいようで、その後は年に1度の新刊を待ち望むようになるのだろう。次は『海馬を馴らす』。原題は[Taming
Sea-Horse]。???と思って調べると海馬(かいば=hippocampus)と読めば大脳皮質の何とかだし、海馬(うみうま=Sea-Horse)と読めばセイウチやらタツノオトシゴのことになる。原題はSea-Horseの方なので何のことかいなと頁をめくると例のよくある偉人さんの名言を引用してある部分に「ネプチューンが海馬を馴らしている・・・」という一文があった。ますます混乱したので再び調べてみると、海馬はネプ君(海神)の家来のようなものであることがわかった。トレビの泉の彫刻が有名らしい。ふ〜ん???後は読んでのお楽しみか。
告別 2005/12/1(木)
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スペンサー『告別』読了。。。「・・・いつもなら尾行はほとんど自動的な行動で、物を考える時間が得られる。今日は考えなかった。スーザンがいなくなってからは、ほとんど考え事が出来なくなっていた。考えるかわりに、自分が鈍い疼きのバランスをとることに神経を集中しているのに気づいた。注意を怠らなければ、その疼きが絶望感に変わってゆくのを抑えることができる。・・・ここ数週間に、注意してさえいればコントロールできる一種のリズムがあることを知った。うっかりすると簡単にそのリズムを失うが、気持ちを集中しているとそのリズムの中に身をおいて鋭い苦痛を味わわなくてすむ。・・・」・・・これはスーザンが去った後のスペンサーのセルフコントロールの描写からの引用だ。そのくせスペンサーは一度依頼人の女(キャンディ)と寝ているし、今回は合コンにも行き、黒い髪のADとも寝る。いったいスーザンへの愛情は言葉だけのキレイ事なのかと思うのはまだまだ若い証拠だ。私もスペンサーを若い頃に読んでいたら肉と愛のこのニュアンスには気づいていなかっただろう。そしてこの引用部分についての自覚さえまだ持てていなかっただろう。こういう自己抑制習慣というのは壮絶な心理的絶望体験を経なければ身につかないものだ。このことを表現として言葉にできるパーカーはスゴイと思う。スペンサーは愛する女を(一時的にせよ)失った絶望から自分を護ろうとしているのだが、私もまた異なった理由からではあるが全く同じ心的作業を毎日繰り返しているようなもので、バランスが崩れるととても危ういことに違いはない。そのために私には仕事が必要で酒が必要で妻の笑顔が不可欠で詩がとても親しいのだ。。。次は『キャッツキルの鷲』。もうスペンサーが止まらない。
拡がる環 2005/11/24(木)
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スペンサー『拡がる環』読了。。。「・・・私は突っ立ったまま、彼女を見ていた。絞め殺してやりたい、と思ったことが何回かあった。しかし、一緒の時は絶対にそんな気にならない。彼女がそばにいるだけで、ほかのことはいっさい考えなくなる。・・・彼女が両腕を広げ、私はその腕の中へ入って彼女を抱きしめた。彼女が顔を上げ、私が接吻した。私は、体がくにゃくにゃになり、床に溶け込んでしまうような気がした。・・・」、、、これは例によってスーザンとのワンシーン。スペンサー・シリーズも10作目になると登場人物の一人ずつが「寅さん・シリーズ」みたいに家族的になってくる。そしてスペンサーとスーザンの関係、特にスペンサーの男っぽい(幼稚な)愛し方に悲しいくらいに同調してしまう。事件という本筋よりもむしろ事件を通してスペンサーとスーザンの関係の流動が主テーマなんだと理解し始めている。そしてポール・ジャコミン。名作『初秋』でスペンサーが自立させた少年が大人になっていく姿がまた絶品だ。次は『告別』。スーザンが“1人になりたいの”と言って住所を告げないまま就職のためサンフランシスコへ発った翌朝、ポールがスペンサーを慰めに来るところから始る。おお!‘黒い髪のアートディレクター’の名前もあるぞ・・・
儀式 2005/11/17(木)
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スペンサー『儀式』読了。文中にこんなシーンがあるので引用させてもらう。。。『どこにいても、彼女(スーザン)が焦点になっているが、あるいは、彼女が私の生活の焦点であるからそのように見えるだけかもしれない。その点を確認するすべはない。誰も聞く者のいない森の中で木が倒れたら、音がするだろうか?
』。。。これは最愛のスーザンが待ち合わせ場所に歩いて近づいて来る様子の描写だ。。。誰も聞く者のいない森の中で木が倒れたら、音がするだろうか?という一行は若い頃からの私の詩的好奇心に良く似ているのだ。綺麗と思う心がなければバラは美しくない、というアレのようなものだ。料理やJAZZや服装について短文で細部を語るかと思えば、こういうフレーズがさり気なく混ざっているパーカーの小説は素晴らしい。次は『拡がる環』。目ぼしい新刊が見当たらないのでスペンサー、しばらくの間よろしくな。
残酷な土地 2005/11/9(水)
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スペンサー『残酷な土地』読了。本当に残酷だったなあ、スペンサー。キャンディ可哀想だったなあ、スペンサー。女だからと思われることを拒否したあげく女の武器を利用したためにあんなことになったキャンディ。男はつらいよなあ、スペンサー。悔しいなあ、スペンサー。でも泣かなかったなあ、スペンサー。格好悪かったなあ、スペンサー。よく我慢したなあ、スペンサー。あの片手に拳銃、片手にタイプライターの原稿には僕チンも泣いちまったぜ、スペンサー。甘いよ、甘すぎるよお〜っ、スペンサー。やっぱ格好良かったぜ、スペンサー。。。次は『儀式』。「揺れ動く少女の性にメスを入れた問題作」らしい。しばらくおまえから離れられそうにないよ、スペンサー。
シャーロック・ホームズの息子 2005/11/5(土)
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『シャーロック・ホームズの息子』読了。ホームズは1854年生まれで1957年まで生存し103歳で死んだとされている。探偵としては1903年(50歳)で引退したとされていて妻子の有無については不明だ。しかし大恋愛の末に1子をもうけたものの母親は死に息子は兄(マイクロフト)に預けていたというところからこの物語は始る。またウィンストン・チャーチルは1874年〜1965でホームズより20歳下ではあるが物語の時代(第一次大戦前夜の1913年)には39歳、ホームズ59歳という、なかなかいいところに目をつけたなあブライアン君、という設定だ。ところが流石はブライアン君、とてもよくできた大人のスパイ物で、何もホームズなんか出してこなくても充分に楽しめる内容になっているではないか。今話題の株式だの金融だの保険だのが頻出するところが閉口するが、兄のマイクロフトがどうもマイクロソフトと読めて仕方ないのはそのせいなんだろうかと、妙な感じがしながら読んでいた。次は『残酷な土地』。おまたせスペンサー。
ギリシア棺の謎 2005/10/17(月)
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『ギリシア棺の謎』読了。解説によるとこれはエラリーが大学卒業後まもなくの時期、まだ分析推理方式を完全に昇華していないための「最悪の失敗」の記録を残そうとして書かれたという、なるほどそういう様子でワザとらしい展開になっていた。過日(30数年前)これを読んだ記憶はないのだけれど、それでも充分の読み応えだった。そもそも私は30数年前に読んだ一連のクイーン作品の犯人を2作を除いて全然覚えていないので、今になってこうして再読できている。覚えている1作は『レーン最後の事件』でこれはもうタイトルそのままだ。もう1作はチョー名作で推理小説界でも最著名であろう『Yの悲劇』。この犯人は当時あまりにも衝撃的で今でもその理由までをも明確に記憶している。次は(スペンサーよ、もう少し待っててね)『シャーロック・ホームズの息子』
by
フリーマントル・・・という妙なタイトルの作品。第一次大戦直前のロンドンでホームズの息子セバスチャンが英国政府のスパイとして暗躍するのだそうだ。ホームズについては世界レベルのヲタ達がそのアキバ振り?を競っているようで当然息子だとか愛人だとかいうプライベートも充実しているのだろう。
イエスのビデオ 2005/9/28(水)
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『イエスのビデオ』 by
アンドレアス・エシュバッハ・・・読了。う〜ん、最後の最後までとっても面白かったのに、残念!肝心の大団円というかオチというかSFのしかもせっかくの時間旅行ものなのに何だか尻切れトンボだった。イスラエルで発掘していたら2000年前の物と分析された人骨とともに現代でもまだ発売されていないSONYのビデオカメラの説明書が掘り出され、しかもその説明書の紙の測定結果も2000年前と出た・・・ということはカメラが発売される数年先頃の誰かがタイムマシンで2000年前に旅立った証拠ではないか!しかも2000年前はちょうどイエス・キリストの復活の年にあたる、、、おお!これはもうその時間旅行者がイエスの説法や処刑、復活の様子をライブ録画して2000年後のために保存しておいたに違いない。スワっ!そのカメラはどこだ?!テープを探せ!!という、とんでもなく楽しい長編だったのになあ。最後がなあ。。。次は久しぶりのエラリー・クイーン『ギリシア棺の謎』。
影の王国 2005/9/5(月)
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「彼は11月のパリが好きだった。雨がちだが居酒屋の中は暖かく、セーヌの暗い川べりに金色の街灯がともり、秋口からの情事はまだ新しい。」・・・おお!なんという大人ちっくなフレーズなんだ。・・・秋口からの情事はまだ新しい・・・だなんて、夏に別の情事が終わっていて癒されないままの傷口にまた新しい出会いが擦り込まれるというわけぞ。解説にもあった通りこれはエリック・アンブラーやグレアム・グリーン風の淡々と語られる等身大のスパイ物だ。言ってしまえば何か事件があってそれを解決するためのヒーロー・スパイが暗躍する大活劇なんかでは毛頭なくて、実在の誰かの1938年〜39年当時の日記を読んでいる感じさえするのだ。「ブダペストには大切な列車はいつも西からやってくる」という一行にも身震いした。全くもうこれは旧東欧好きにはたまらない一冊だ。ということで『影の王国』読了。パリを拠点に舞台がハンガリー・チェコ・ルーマニア・ベルギー・ポーランドへと展開するヒトラー進軍真っ最中の1938年。なかなかのもんですぜこれは。余談だけどヒトラーが3月にチェコを犯し9月にポーランドへ侵攻して始ったWW2、実は3月の時点でチェコを目の当たりにしたハンガリー・ルーマニア・ポーランド等の諸国がフランスやイギリスの応援を受け一致団結してドイツに立ち向かおうという計画があったらしい。そうすればヒトラーはそれ以上進めずWW2は防げたはずだったという。ところがこれら東欧諸国はヒトラーなんかよりも数百年も昔からずうっと領土の奪い合いを繰り広げてきた仲の悪さが災いしてチェコを看過し誰でもが予想していたポーランドを見て見ぬ振りをして時局は戦争へと突入した(らしい)というのは興味深かった。。。と、そういう知識を得て2006独W杯欧州予選で同組になったオランダ・ルーマニア・チェコの争いなんかを見るとこれまた興奮するのだ。次は『イエスのビデオ』
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アンドレアス・エシュバッハ・・・これまた掘り出しモンの予感。
初秋 2005/8/29(月)
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『初秋』に登場するポールというクソガキは私の子供嫌いの象徴そのもののキャラで読んでいて不快だった。スペンサーは彼を不憫に思い鍛え上げて独り立ちに手を貸すのだけれど私なら無視して通り過ぎ、塩でも撒いておくだろう。この作品がスペンサー・シリーズの代表作だと推すむきもあるようだけれど、それは子供好き達の偏見なんだろうと思う。スペンサーものは勢いにのるとアッという間に読めてしまうなあ。しばらくスペンサーが続いたので次は『影の王国』
by
アラン・ファースト。本屋で物色した甲斐あって見つけた私好みの「ヒトラー系第2次大戦前夜もの」なのだ。
レイチェル・ウォレスを捜せ 2005/8/26(金)
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レズビアンの急進的女性解放論者がクライアント。どうもこのスペンサー・シリーズの最初の方は書かれた70年代を背景に、昔懐かしい「学生運動用語」がてんこ盛りなので何だか妙な気分になってしまうこともある。この『レイチェル・ウォレスを捜せ』というタイトルがいい。特にレイチェル・ウォレスという名前の響きが耳に残る。アタック25かなんかで問題になりそうな名前だ。で、次は『初秋』。レズビアンの急進的女性解放論者の次は両親の愛に恵まれないガキが相手らしい。
ユダの山羊 2005/8/23(火)
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スペンサー『ユダの山羊』読了。このシリーズも5作を数えるが、そのたんびに解説に書いてあることが気にかかる、、、ってか理屈っぽくて鬱陶しい。どうやら彼ら批評家?たちはどうしてもスペンサー小説の系譜を作りたいようである。やれ探偵小説だのいやいやあの作品を境にしてそれはアクション小説になっているだの、自己の内面を見つめるだの強いだけではダメだの他者との関係がどうのこうのと、単なる娯楽小説・たかが架空の登場人物をやたら分析したがっているのには非常にバカバカしくて邪魔臭い。おそらく解説が書かれたのも初版当時の80年代なんだろうから仕方ないのかもしれないし、彼らからそれを除けば何も残らないのだろうし、そもそも面倒ならこっちが解説なんて読まなければいいのだけれど、、、そんなことはどーでもええやんか。こちとら何も卒論のテーマにして輪読会用のレジュメを切るために読んでいるわけではなく、99%の読者が単なる楽しみとして♪ハードボイルドだど♪、とか言ってみたいだけなんだから。次もまたスペンサー『レイチェル・ウォレスを捜せ』。
僧正殺人事件 2005/8/17(水)
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『僧正殺人事件』読了。ふむ。イマイチ納得がいかない。ヴァンダイン全12作の中の最高峰という評判が私には解せない。(全12作とは・・・フェルメールの3倍も希少なわけか・・・)
もちろん半世紀以上も前の評判なのでその後のこの手の作品にどっぷり漬かった眼と脳では感じ方が異なるのだろう。特にラストのポートワイン。どうも非現実的な展開だし子供だましだし、もしかしたら結末は裏の裏のそのまた裏で真逆だったかもしれないとも思った。それにしてもこの事件、主な登場人物9人の内6人が殺されて1人は想定外で、残る2人の内の1人が犯人で、おまけに結局逮捕はしていないという、それでも無事解決というのだから何とも凄まじいというか呑気というか、この時代のアメ公の地方検事はこんな重大な事件の真っ最中ですら土曜の午後と日曜は休んじまうんだから情けない。次はスペンサーの『ユダの山羊』。何だか思わせぶりなタイトルだ。
約束の地 2005/8/5(金)
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スペンサー『約束の地』読了。今回は70年代に流行?したウーマン・リブの闘士を登場させてその理論武装を皮肉りながら、自身のマチズモ(男性誇示)との折り合いをつけていこうとしている。しだいに“スーズ”との関係が深まっていく中でこう言うのだ。。。“おれという人間は、おれのすることによって決まるんだ。それを表現するのに適当な言葉を見つけても変わりはない。”ハードボイルドだど小説にしては何だか哲学的心理学的な会話が頻出するようになってきたスペンサーシリーズ。スーズの職業とも関係しているのだろうが、そうさせているのはもちろんパーカーの意図なのだ。ちょいと息苦しい感もある。もう少し軽めの「強くて優しくてそして助平なマッチョの冒険物語」に終始してもいい気もしないではないが、そこはやはりアメ公、そして70〜80年代。ベトナム戦争後期〜終戦後の世相が背景にあるのだろうか、そしてパーカーの内面にも巣食っていたのだろうか。次はファイロ・ヴアンスの登場『僧正殺人事件』。ヴァン・ダインの最高傑作!らしい・・・
失投 2005/7/21(木)
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スペンサー『失投』読了。野球物だけにいつもに増して早く読み終えたみたい。本作のポイントは解説者によると「繰り返すが、ヒーロー小説としてのスペンサー物語はこの『失投』から始ったのである。」ということにあるようだ。この3作目で初めてスペンサーは人を殺した。しかも「やり方が問題」だった。彼は恋人とこんな議論をしている。・・・「いいか、個人であるという事はいわば奔放で恣意的な事なんだ。その度合いが過ぎて手に負えなくなるのを防ぐために人は何かを信じる必要がある。宗教、出世、愛国心、家庭などを信念の対象にするがそれが役に立たない人間が多い。例えば俺には宗教とか家庭といったものはない。だから人は何か秩序を保つためのシステムを受けいれて、あくまでそれを守る。」・・・ところがこのシステム同士が互いに相反した場合、スペンサーのように人を殺さざるを得なくなったり、相手が強すぎれば卑怯な手段を選ばざるを得なかったりもする。そしてその分だけ、本作には思わず舌なめずりするようなレシピは登場しなかったのだ。次は勢いで続けてスペンサー第4作『約束の地』。
オランダ靴の謎 2005/7/12(火)
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『オランダ靴の謎』読了。評者によってはエラリー・クイーンの作品中最も素晴らしい謎解きとしても名高いオランダ靴。流石のヒロくんは物語の半ばで犯人を確信。それを前提に再び巻頭から読み進めて益々確信。案の定に大団円ではヒロくんの推理通りにエラリーの謎解きが語られていくというこんな快感もまた推理小説の醍醐味だ。ただ、クイーンやヴァンダインの作品が書かれた1930年代のアメリカに根ざしていた多くの差別意識、黒人や女中、私生児等への言及が作品の中にも溢れていて、オランダ靴の謎解きの契機にもそういった差別意識が介在しているという点では、現代に勧められる作品ではないのかもしれない。次はスペンサー!おお、久しぶりだなあ、待たせたぜスペンサー、元気だったかい格好つけ野郎のスペンサー君、の『失投』。そういえば、エド・マクベイン氏が亡くなった。長い間ためらっていたスペンサーシリーズを読み始める際に、エド・マクベインの「87分署シリーズ」とどっちにしようかしらんと迷ったものだったけれど、近いうちにお世話になると思いますので、どうぞよろしく。
燃ゆる頬 2005/6/17(金)
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NHKラジオ「きらり10代」の中の企画「名作を読もう」で声優の山口勝平氏が堀辰雄の『燃ゆる頬』を読んでいたのを聞いて興味をもった。男子高校生特有のホモっ気(NHKもこーゆーのを土曜の昼間に流すようになったんだなぁ←シミジミ・・・)が微妙に熱くて瑞々しくて懐かしい。初kissが中学校の教室のカーテンに包まれての馬場クンとだった我が身としては、これはいちお全編通して読んでみなくてはと確信し青空文庫からdownloadさせていただいた(B4に印刷して3.5枚くらいの小編だ)。。。読書中。。。>>>>>>>>>う〜ん、>>>>>>
これはなかなか名作ですな。今の子のことは知らないが、70年前も30年前も性に目覚める頃というのは変わらないようだ。ただ違うのは文中から引用すると「・・・私は彼のそういう貧血性の美しさを羨んだ。・・・」と表現されるいわゆる肺結核や脊椎カリエスによる若者の死の身近さだろうか。。。。できれば文中から一部を抜粋して「C」で紹介してみようと思っている。それにしても名探偵コナンの声とこの本の雰囲気はとてもよく合っていましたぜNHKラジオ担当D様。
オデッセイの脅威を暴け 2005/6/30(木)
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『オデッセイの脅威を暴け』読了。なるほどトロイア戦争とホメロスのオデュセウスの謎に対する新説は興味深かった。キリスト以前の古代ケルトやドゥルイド教についての部分は前に読んだ『ニューヨーク大聖堂』にも登場していたし、アイルランド史以前のヨーロッパ文化の発祥としても面白い物語なのかも知れない・・・がしかし、今の私にはそんなことに見向きしている余裕はない。もしも再び世に出でて若き身空でこのことどもに触れる機会があれば研究に勤しんでみるのもいいかもしれない、というのも嘘ぽいかしらん。。。ということで次は久々のエラリー・クイーンで『オランダ靴の謎』。スペンサーよ、もうちょっと待っててね。代わりにタイガースのスペンサーが桧山とレギュラー争いしながら時たまポコンとかっ飛ばしてくれているような気もするし。
ニューヨーク大聖堂 2005/6/14(火)
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ネルソン・デミル『ニューヨーク大聖堂』読了。テロリズムや誘拐・殺人は悪であるとかいう前に、大儀だの信念だの歴史的忠義だのという前に、「そのこと」はテロリストたちにとっては人生そのものであるのに対して、鎮圧する警官や兵士、交渉する政治家にとってそれは「仕事」でしかなくて、どんなにキツくても仕事なんだから給料とか特別手当とかもらえるし、遅くなっても家に帰れば愛する人たちが待っていてシャワーを浴びてベッドに入れるのだ、、、とそんなことを感じてしまうような筆致だった。1981年に書かれたこの本はデミルが名をあげる以前の作品のひとつ。ニューヨークの大聖堂にIRAが立てこもるという日本人には人気薄なテーマだけれど、1000ページ以上もある内の最初の200ページが淡々とした前振りであるところがまだ一皮向けていなかった頃らしかった。今のデミル作品は1ページ目からいきなり引き込まれるように書かれているのだ。次はクライブ・カッスラー『オデッセイの脅威を暴け』。何やらテーマが「トロイの木馬の謎」だというので検索してみたらコンピュータウィルスの方の話ばっかりだったので去年の今頃やってたブラッドピットの「TOROY」を借りてきた。そっちが先だ。
誘拐 2005/5/25(水)
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スペンサー・シリーズ『誘拐』読了。ねえねえスペンサーさん、そんなに僕を困らせないで。あんたになら抱かれてもいいと思ってしまうオトコは僕ちんだけかしらん・・・何で「宿命の女
スーザン ---by
香山二三郎」に嫉妬なんかしてしまうわけぇ?ということで次は待ちわびたぜよデミルさん、のネルソン・デミル『ニューヨーク大聖堂』。おっとっと、それではスペンサーのクッキング一口メモ「そのA=よくないことなのは判っている---室温で舌の上で転がすべきであるのは判っているが、田舎者の癖は抜けない。私は冷たいのが好きなのだ。」---これはワインのこと。ヒロくんはシャブリは当然キンキンに冷やすし実は赤ワインでも冷たいほうが好きだ。と、スペンサーも同じだと喜んでいたらまたぞろスーザンが2人の初めての夜にソファで言うのだ・・・「嬉しい、冷たいわ。室温で飲むのは嫌いなの、あなたは?」と問われたスペンサー、間髪おかずにこう言うんだもんなぁ、、、「駆け落ちしよう」
ブラック・ウォーター 2005/5/11(水)
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マーシ・レイボーンシリーズ『ブラック・ウォーター』読了。実はシリーズ3作目の本書が2003年に早川から単行本で出て、1作目2作目が今年になって角川から文庫で出るという、例によって日本の出版界のバカ丸出しのおかげでこの手の本の最も重要な要素である翻訳者が異なっているのだ。角川の女性の翻訳が気に入った私としてはこの早川の日本語はイマイチだった。でもストーリーには無関係の部分で面白い表現があったので引用させてもらうと・・・エイピンは人間じゃないのよ。あの男を犬だと言ったら犬を侮辱することになるわ。豚、イルカ、鳩、ヤスデ、サイドワインダー、ま、とにかくそういった生物のほうが、あの男より上等だわ。・・・ということはさ、アメ公の感覚ではイルカも鳩もヘビも同列だということ。犬や豚は日本でも例えることがあるけれどイルカや鳩は何だか無理やり癒しだの平和だのに利用されているようで、ヒロシマなんて原爆落下記念公園が鳩のウンコだらけなのに平和のチンボルだから駆除できないという本末転倒な困ったちゃんがあるくらいだし。次は再びのスペンサーで『誘拐』。彼にはもう一目ぼれしちまったぜぃ。
風の足跡 2005/4/29(金)
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りょうさんから自費出版された詩集『風の足跡』が届いた。へえ、と驚いた。句集ではなく詩集とは。ところが「あとがき」を読んで再びの驚き。若い頃からずっと詩に親しまれ詩人を目指し詩集出版が望みだったということだ。私ですらこのキーボード革命による「誰でも活字」時代には嘗て自分の詩の「活字化」を夢見た時代が嘘のような感じがするのだから、りょうさんの青春時代から思えばこのネットに溢れる言葉はどれほどなのだろうと思う。詩集上梓おめでとうございます。きちんと読んでみたいと思います。
ゴッドウルフの行方 2005/4/27(水)
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スペンサー登場の『ゴッドウルフの行方』読了。おお!舞台はいきなり70年代のキャンパスで服装・髪型・反体制等々、我がなつかしの学生時代にタイムスリップした雰囲気の中での、例によってセンテンスの短い文体で要点を端的に語るハードボイルドだど。おまけに依頼人の嫁はんの誘惑には素直に据え膳をいただき、同じ夜にその娘とも寝るというためらいのなさが素晴らしい。その上さらに大感動のラスト!これでは皆様がハマるのも無理はないです。これからの約30冊が楽しみ楽しみ。。。ここでひとつスペンサーのクッキング一口メモ「その@=ソーセージは冷えたフライパンに入れて低温から焼き始めなければいけない。」 次は、‘マーシ・レイボーン’シリーズの3作目『ブラック・ウォーター』
グリーン家殺人事件 2005/4/19(火)
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この本は中学時代、昼休みに級友と戯れず一心不乱に読んでいると憬れのキミだった康っちゃんが“読書好きなのね”と話しかけてくれたという淡い思い出の一冊だ。
カナリヤ殺人事件 2005/4/11(月)
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『カナリヤ殺人事件』byヴァン・ダイン、読了。この本の導入部に、従来の証拠集めを重視する地方検事と証拠なんかあてにならず人間心理が全てだという素人名探偵との面白いやり取りがある。。。雪の中を走る動物を見た12人の大人はそれを鶏だと証言し、たった1人の子供はアヒルだったと言う。調べてみたら足跡はアヒルのものだった。この場合、12人の大人の証言を鵜呑みにはせず足跡という証拠が決め手になるのだと検事が力説すると探偵は無造作に同意する。しかし検事が、だから雪の中を走る人間を12人の大人は女だったと証言し1人の子供が男だったといった場合、そして足跡は男のものだった場合証拠は男を示していることになるだろうと言うと探偵はそれは認めないと言うのだ。それは自分の靴をはいた男か、男の靴をはいた女か、背の高い子供だったかもしれないと反論するのだ。。。こう引用してみれば単純なことに思えるけれど30数年前の私には新鮮で刺激的な部分だっただろうし、状況証拠や物的証拠、指紋、DNA、アリバイなどを中心とした捜査は今も似たりよったりの現実に比べ、小説の中だけでの華麗な謎解きの快感は今も健在な読後感でありました。続けてファイロ・ヴァンス君活躍の『グリーン家殺人事件』。この本は中学時代、昼休みに級友と戯れず一心不乱に読んでいると憬れのキミだった康っちゃんが“読書好きなのね”と話しかけてくれたという淡い思い出の一冊だ。
詩への架橋 2005/3/25(金)
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大岡信氏の『詩への架橋』に目を通していたら、彼と同時代の詩人の中でソネットの名手は2人いて1人は谷川俊太郎、もう1人は中村稔だと書いてあった。そういえば中村稔という詩人は中也研究や詩論系でよくその名をみかけてはいたが詩人としての中村稔に関心を向けたことはこれまでなかった。大岡氏は中村稔の詩集『樹』の中から次の作品を引用している。
………う〜ん、これはちょいと1冊手に入れねばなるまい。。。
【夜】
夜 おまえはゆるやかにからだを揺する
おまえの唇には熟した果実のにおい
低いあえぎにたえて しなやかな躯幹をそらし
また汗ばむ髪毛に顔を伏せ 吐息を洩らす
あわただしく腐りゆくものがあり崩れゆくものがあり
曙を待つこともなく夜が白みはじめ
ふとおまえはたちあがりたちどまり 樹木となり
枝々をさしのべ 葉ずれがわさわさとなっている・・・・・・
ああ そのあとしばらく丘陵の砂はながれやまず
烈しく風が葉を散らせ 樹皮はみるみる裸になり
夜は終りにちかく 物言わずおまえは仆れかかる
ひとりの不慮の死にちかく その埋葬にちかく
一月の天につるさがった梢があり だからこそ
ぼくたちはいだきあって眠りに堕ちる
現代日本女性詩人85 2005/3/21(月)
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新書館より出版されている『現代日本 女性詩人85』(高橋順子編著)を買った。女性の詩ばかりまとめて85編も集めてある詩集は初めてでかなりの読み応えだった。。。で早速にも「C」でも紹介しようと準備にかかっている。予定では5月の5週をまとめて特集に費やそうと思う。大塚楠緒子、米澤順子、伊藤野枝、金子みすゞ、佐川ちかの5人5編。特に伊藤野枝の詩は以前から探していただけに見つけたときは嬉しかった。吉永小百合が与謝野晶子を演じた映画の中で彼女のことを知った記憶があって、「青鞜」が出たあの時代に名を残した女性達のうちの1人なのだ。
レッド・ライト 2005/3/31(木)
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『レッド・ライト』by T・ジェファーソン
パーカー 読了。この人の作品は(まだ2作だけど)読んでいて悲しくなる。そしてその悲しさが魅力でもある。凄惨で猟奇的な事件であることは昨今の流行の例に漏れないのだけれど、この人の描く人物がとても素晴らしい。単なる犯罪小説・警察小説の枠では測りきれない人間のリアリティがある。こういうエンターテインメントは読み手の心身の状態によっては重過ぎるきらいもあると思うのだけど今のところ私は大丈夫のようだ。またヒロインの名前が個性的で印象的だ。あの‘ケイ・スカーペッタ’もシリーズを追うに従って脳に刻まれてしまう名前だったけれど、本シリーズのヒロインの名前もまたとてもいい。‘マーシ・レイボーン’。若くして悲しみを知ってしまったタフな女巡査部長なのだ。次は久しぶりに『カナリヤ殺人事件』byヴァン・ダイン。‘マーシ・レイボーン’シリーズの3作目『ブラック・ウォーター』も気にはなるのだけれど・・・
ブルー・アワー 2005/3/17(木)
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『ブルー・アワー』読了。これは警察モノで猟奇性とともにP.コーンウェルやT.J.マクレガーのシリーズに似ていなくもない。ストーリーは我が国でも今をトキメク性犯罪系。性犯罪者の居場所やデータを近所の人に公開するか否かとか性犯罪者への処罰としての「去勢」の方法としてデポプロベーラという薬品で性欲を低下させるだのの、そのうち我が国でも採用しそうなことどものオンパレードだ。ちなみに私は大賛成である、ってゆーか、性犯罪者=即=死刑、でないのが不思議でたまらないくらいなのだ。でもまあ年間に数百人の無辜な女児が変質者によって殺されたところで交通事故死者数には追いつけないのだからまだまだ大丈夫だ。何せ命の重さは同じなんだそうなのだから。まずは車頼みの社会を見直すか或いは命の重さ云々の戯言を葬り去るかのいずれかが先決だろう。ところでこの本の一部を抜粋。「彼はブラディメアリのうんと濃いやつを作った。ウォッカはフリーザーに、ミックスするものは冷蔵庫に入っている。黒コショウの挽いたのをティースプーンに半分、タバスコを4ダッシュ、ウスターソースを3ダッシュ、それにセロリをちぎって入れ、ステアする。1口飲んだとたん唇が冷え、同時に熱くなる。悪くない。」・・・ふふふ、こういう件がいいのだなあこのてのものは。ちなみに私は二日酔いの朝にはトマトジュースにウスターソースをティースプーン1杯ほど入れて飲むのがお気に入り。次はこのシリーズの次作『レッド・ライト』にしようか、また古典に戻ろうか思案中・・・
スパイズ・ライフ 2005/3/2(水)
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『スパイズ・ライフ』読了。さすがはワールドワイドなエンターテインメントだ。特に「プラハの春」当時の東欧から1989年の共産圏の民主化(「ビロード革命」なんていう名称は初めて知った)、そしてボスニア戦争へと続く歴史に沿ったMI6とKGBとチェコの情報組織StBが絡む展開は美しささえ感じることができた。推理小説とはまた違い、そして日本人の狭い視野からは想像もつかない物語はスパイ小説ならではの魅力なのだ。次は『ブルー・アワー』by
T.ジェファーソン
パーカー・・・・・はたしてどんな物語が私をドキウキさせてくれるのだろう・・・
フランス白粉の謎 2005/2/13(日)
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『フランス白粉の謎』読了。うむうむ、50年前の翻訳文体にもだいぶ慣れてきて、むしろ味わい深く楽しめるようになった。そしてまた当時は‘さすがはエラリー・クイーン、完璧な推理だぜ’と感動していたその分析過程が21世紀の現代にはもはや通用しない部分が点在していることに哀愁をも感じている。指紋鑑定でさえまだテマヒマのかかった時代の「科学的演繹的論理的推理分析」なんだからDNAだの衛星携帯電話だのモンタージュだのの最新テクノロジーにかかれば当時の犯人は必ずしも犯人ではなくなってしまうというのもまた、それはそれで一興ではあるけれど。次は『スパイズ・ライフ』by
ヘンリー・ポーター。久しぶりに現代小説を紐解くことにしよう。
ベンスン家殺人事件 2005/2/3(木)
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『ベンスン殺人事件』読了。思い出したぜファイロ・ヴァンス君の饒舌。エラリー・クイーン風もいいけれどヴァンス君の嫌味なくらいの能書きタラタラ薀蓄クドクド推理もまた年寄りには楽しい読み物なのだ。次は『終戦のローレライ』という本が面白そうだったので買った。3月に映画も封切られるようで、この手のものを読むとキリがなくなるので躊躇ってはいたのだけれど登場人物に「広島の料亭の芸者:おケイ」というのを見つけて、これも何かの縁かもね、と思ってしまったのだった。作者の福井晴敏氏は他にも夏に映画化される『亡国のイージス』とかやはり6月に映画化される『戦国自衛隊1549』とかも書いていて、もしかハマってしまったらどうしようかと慎重に気をつけながら楽しむことにしている。←まるで広島のおケイにはまってしまった過去がトラウマとなっているかのよう・・・なのか?・・・ところが紐解いて数分、ノータイムで私には合わないと悟ったので18ページまで読んだところで止めにした。ま、カバーデザインで気づくべきだったのだろう、私のチョンボだ、お子チャマ本だった、あぁあぁ、でもまぁハマる心配がなくなって良かったということで、次はやっぱり『フランス白粉の謎』。そういえば新刊の『スパイズ・ライフ』も気になってはいる。
ローマ帽子の謎 2005/1/29(土)
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『ローマ帽子の謎』読了。読みはじめにここで「少し読みかけたところ、活字や文体なんかが当時のまんまなので古臭さに慣れるまでが大変だったけれど、むしろその頃の独特の雰囲気が映画を見ているような気にさせてくれて実に楽しい。」と書いたのだけど、まさにその通りのまま最後まで読むことができた。謎解きの部分については中学時代に読んだ衝撃はなく、むしろ欠点だらけに感じたのは30数年後の現代社会の現実のミステリーの方がよっぽど奇奇怪怪であることの証明かもしれない。それにしてもこの小説が書かれた時代(1929)の黒人差別は相当なものだ。殺人の間接的な動機となっているその事実を、罪を裁く側の誰もが差別とは思っていなくて出世した犯人に実は黒人の血が少し入っていることでその地位も名誉も失うことを当然のこととしているのだ。もちろんこの偏見は今も変わらず社会の底に根付いているのだろう、それはアメリカという集団の永遠の汚点なのだ。次は同じく30数年前にお世話になったヴァン・ダインの中から『ベンスン家殺人事件』。実は図書館へいってみつくろってはみたものの田舎の区民図書館にある小説というのは30数年前のものなんてあるわけがなく、かといって最新人気本があるわけでもない。どれも中途半端なものばかりでがっかりだったのだ。
痕跡 2005/1/14(金)
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コーンウェルの『痕跡』読了。いつもながらスカーペッタ&マリーノ&ルーシーの関係が面白いけれどベントンがあまり好きじゃないのは嫉妬なんだろうか・・・次は懐かしのエラリー・クイーンシリーズ『ローマ帽子の謎』。少し読みかけたところ、活字や文体なんかが当時のまんまなので古臭さに慣れるまでが大変だったけれど、むしろその頃の独特の雰囲気が映画を見ているような気にさせてくれて実に楽しい。訳者(井上勇氏)の誤訳や意訳の苦労の跡など中学生の頃にはわかり得なかった部分も今は多く楽しめたりしている。今になって色々調べてみると、当時の私の読書はその殆どが井上さんの翻訳のおかげだったのだなあ、と感慨が深い。
爆魔 2004/12/29(水)
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『爆魔』読了。流石はフリーマントルだ、カッスラーの荒唐無稽系ヒーロー物語も気楽でいいけれど、ダニーロフのようなリアルなロシア民警も生臭くていい。このストーリーはあの9.11以前に構想され書き始められたらしいのだけれど、確かトム・クランシーも日本の旅客機が米国の国会議事堂へと自爆するという『日米開戦』を書いていたし、どうやらアメリカさんではそういう兆候はずっと以前からあったのかもしれない。続いては『痕跡』
by
パトリシア・コーンウェル。またまたグッド・タイミングで刊行されたので嬉しい。これがなければこの冬休みに図書館へ行って噂の『ダ・ヴィンチ・コード』とか『天使と悪魔』、『ダンテクラブ』を借りようかなあと思っていたのだけれど、見るからに重そうな単行本上下2冊というのは売る側(高い!あわせて\4000近いだなんて、美味いもんがいっぱい喰える!)の傲慢さが見えてイマイチ好きくないのだ。
ロマノフの幻を追え 2004/12/14(火)
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『ロマノフの幻を追え』読了。いつものように慣れた感覚で、そう吉本新喜劇のお決まり展開を楽しむように普通に味わった。でもこんなに早いペースで読んでいたのでは積ん読在庫が底をついてしまう。幸いにも新刊が出たので(『爆魔』
by フリーマントル)一時しのぎにはなったものの、このままでは次のお楽しみ本が見つからない。数年前のように「これ全部ください」と言って太宰の文庫を端から端まで大人買いするわけにもいかず、今更純文学だの日本人作家モノだの恋愛沙汰風だのはゴメンしてほしいものだし、う〜ん、どうしよう、シャーロックホームズでも読み返してみようか今度は大人の視点で・・・これからの老後の読書政策を左右しかねない重要な問題なのかもしれないぞこれは。
女文士 2004/12/1(水)
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『女文士』読了。う〜ん、何かとっても気分の悪くなる嫌悪感が延々と続いた。「浅ましく自堕落で料理も家事もできず尻軽で気配りもできないのだけれど美人でグラマーで色っぽくて且つ可愛くて純情で憎めない女」の悲劇なんて読んでいて面白いわけが・・・ところがこれがまた頁を繰る手が止まらないのだから林真理子の勝ちだ。もちろんヒロインの自堕落静枝とブサイク真理子とが重なってしまうために余計に嫌悪感が強くなるのだけれど、そこは流石の文筆家、ちゃんと引き込んで読ませてはくれるというわけだ。また、そうそうたる名前のオンパレードも、三谷さんが映画『笑の大学』に吾郎ちゃんを、ドラマ『新撰組』に慎吾ちゃんを使ったのと同じ理由、全くの客寄せパンダにしか思えないほどの軽薄なミーハーぶりで最初は嬉しがっていた私も途中からは虫酸が走るようになってきた。眞杉静枝という1955年に死んだ「忘れられた女流作家」から何か「C」のネタが見つかればと読んだのだけど、、、う〜ん、ちょっとなあ、、、ま、命日は6月29日なんだからまだ半年くらいは寝かせておいてみよう。。。次はカッスラーの『ロマノフの幻を追え』。やっぱこんなんの方が気楽でいいやね。
ハンマー・オブ・エデン 2004/11/24(水)
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ケン・フォレットの『ハンマー・オブ・エデン』読了。テロリスト?が人工的に地震を起こすといって脅迫する物語。舞台は1989年に大地震のあったサンフランシスコ。フォレットは英国生まれなので地震は未体験だそうで、サンフランシスコや神戸の地震の報道を見た後で地震発生のメカニズムを知り着想したらしい。フォレット好き+地震恐怖症の僕が読むにはもってこいのプロットだ。登場人物も個々に魅力的だったけれど全体のストーリーに比べて細部というか物語が進展していく局面でのわざとらしさというか安易な設定がイマイチ残念だった。それでもジュディは勇敢でスターは妖艶でメラニーはエッチだったし、ジュディの父親(ボー)は泉谷のハマリ役だぜ、とこの頃とみに泉谷の演技(米屋だった「愛し君へ」・浮浪者だった「人間の証明」・花屋だった「めだか」・そして食わず嫌い3連敗!)が大好きなヒロくんはニタニタしていたのでありました。次はちょいと逸れて『女文士』。少し前に眞杉静枝という作家について調べていた時に出会った林真理子の作品。ブサイクを売り物にしていた頃のコピーライター真理子は大嫌いだったけれど、この本は冷静に読んであげることにしようか・・・おお、つかみはOKだ。いきなり眞杉静枝の告別式で弔辞を読むのを嫌がっている高見順が登場かと思えば嘗て同棲していた武者小路実篤に借金を頼んだのに断られたとか・・・昭和30年という私が生れる僅か前の時代の文士たちが大集合だ。
シリウス・ファイル 2004/11/13(土)
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半身浴で毎日15分〜20分も読書時間が増えたのでペースが速くなった。内容は薄っぺらくてタイトルからしてシリウスとは何の関係もない例によって翻訳時点での詐欺行為だった。それでも近来になく楽しかったのは文体。ハメットやチャンドラーばりの語り口が軽快で素晴らしい。やはり文学とは文体である、という名言(?)は正しいのだ。こういう大人の男女の会話を味わいながら同時に平行して『電車男』をも楽しむというのは実に精神衛的に健全だ。そうそう『電車男』というのをまず書評で知ったので探していたら「男が後ろから撃たれるスレ 衛生兵を呼べ」という妙な名前のサイトを見つけた。こりゃあケッサクだ。書評の通り、抱腹絶倒の後から涙ボロボロの感動の嵐なのだ。2chの掲示板で実際に(?)やり取りされたものをまとめたんだそうな。ちょいと嘗ての「未来日記」を思い出してしまったけれど、掲示板愛用家なら楽しめること間違いなしの時代性満点の物語。本で読むよりサイトを読む方が臨場感っぽいっす。次は『ハンマー・オブ・エデン』・・・これまたこれで地震の話なのだ・・・
フランチェスコの暗号 2004/11/5(金)
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活字を使って印刷されたヨーロッパで最初の本格的な書物である「グーテンベルグ聖書」よりも価値があるとされる実在の奇書「ヒュプネロトマキア」の謎をめぐる、ちょいとヤヤコシイ系の物語。当然ルネサンス期についての記述が頻繁に登場するというアカデミックな部分も多いだけに散りばめられている何気ない一行がとても素敵だ。<ポールの言葉が勢いを増し、体の外の静寂と心の内の重圧がせめぎあってバランスを取っているかのように虚空に吐き出された。>という件はまるで詩の誕生に立ち会っているようだし、<もし僕たちがもとはひとつのものから爆発して、かなたの海にぽつんと浮かぶ粒子であるのなら、僕たちの孤独は科学に基づいていることになる。僕たちは年齢を加えるにしたがって孤独を増していくのだ。>なんてぇのはあの「スタンド・バイ・ミー」の10年後の成れの果てみたいで少し悲しい・・・ともかく4人の大学生とその卒論から派生していく事件と謎の物語は、心理学だの現象学だの存在論だのと今よりずっとアカデミックごっこしていた私の昔を思い出させてくれたのだった。次は『シリウス・ファイル』。も少し軽めのカッスラーにしようかとも思ったのだけどせっかくのアカデミカルな雰囲気が台無しなのでせめてこのくらいに。解説によるとチャーリー・マフィン&ジョージ・スマイリーとジェイムズ・ボンド&ダーク・ピットの中間くらいの主人公だというし、舞台は北アイルランド。テーマはもちろん独立運動。
おとなしいアメリカ人 2004/10/29(金)
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う〜ん、何とも後味の悪い小説だった。これほど胆汁の苦味のようなイヤァ〜な感じが口腔にへばりつく作品は初めてかもしれない。私より年齢の低い紳士淑女やお子ちゃま達にはお勧めしたくない。舞台はヴェトナム戦争直前のサイゴン。アメ公が自分だけの得のために戦争をおっぱじめたという意味で今頃この作品が再版(1955初版)されたのだろうが(グレアム・グリーン生誕100年記念だなんてぇーのはコジツケだ)、後味が悪いのはそういう部分ではなくて実は主人公の中に潜む闇は男なら誰もが抱え込んでいて加齢とともに必死に隠そうとしているはずなのに小説家が断りもなく白日の下に晒しやがってコラッ!洒落にならへんぞ、というような胆汁なのだ。嘗て私が女を欲しがったり手放したくなかったり或いは捨ててしまった時のそのイチイチをわしづかみにされて“どぉ落とし前つけてんの?”と問いただされたようなそんな気分なのだ。それにしてもこのタイトル。「おとなしいアメリカ人」。原題は[
The Quiet American ]なのだけど内容からしてどうも“おとなしい”という翻訳がピンとこないのは私だけだろうか。小説の中でこのアメリカ人は実に小五月蝿くてイヤなタイプの若造でおまけにテロリストときているのだ。quietなわけがない。ふうん、これ映画になってるのか。「愛の落日」というのか。こりゃまたこれでストレートで芸のないそのまんまのタイトルですこと。。。おっと、最後に、離婚に同意したイギリス人の奥様に乾杯!しよう。
I.ROBOT 2004/10/16(土)
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アシモフの「I,
ROBOT」を読み終えた。案外お気楽にスイスイ読めたのは私がSF小説にさほどの興味がないからだろう。そして興味のない私にもとってもわかりやすい内容だったためだろう。難しい概念や世界観や専門用語や造語は殆どなくて、そりゃまぁ50年も前に書かれた物なのだから21世紀を迎えている現在からはむしろそんなにSFっぽくもない。ただしSFに関心のなかった私が初めて知ったどうやら「その筋」では有名らしい【ロボット工学の3原則】というヤツはどうにも胡散臭いものだった。巻末の解説にも述べられていたが、結局この短編の連作はロボットを透かして人間の倫理のようなものが語られているわけで、3原則を守っているからといってロボットであるとは限らない、という考えてみれば実に単純な人間における世の中の常識を幼な子に教えて聞かせるという躾のようなものなのであるが、実は未だ嘗てSF小説界の誰もが言及しなかった(だろう)と思われる重大な事実があるのだ。それはSF(小説)の根源を揺るがしてしまいかねない危険な要素なのだけれど、つまりは「ロボット」という考え方、そして実現に向かっている行為そのものが既に「被差別物創出」なのだ。どんな美辞麗句で取り囲んだところで「被創造物」であるロボットは人間に隷属しているわけで、その点でロボットはミミズや蟻んこよりも下位に属さなければならないことになるのだ。そして例によって、例えば「宇宙人の想像図」に見られる人間の想像力の貧困というか自らの姿(外見)への妄信というか、ミミズよりも眼が明確な分だけ魚が、魚よりも手足っぽいものがある分だけ昆虫が、昆虫より両生類・爬虫類が、それより鳥が、鳥よりも体温が近いから哺乳類が、哺乳類の中でもその外見が近いから猿の類が「上位」に属しているという発想がロボットへの幼稚な愛着の根源になってしまっているのだろう。SONYの犬系やHONDAの人系の動く機械も例えば自動車やテレビも、実は人工物の組み合わせの可能性によるブツに過ぎないのにもかかわらず、2足歩行で動き出すや否や、人間の姿を真似て作られた金属の塊はテレビや南極2号とは全く別の、まるで敬意を表するべきものであるかのような扱いを受けるのには笑止千万である。嘗てあの鉄人28号派と鉄腕アトム派に大きく別れていた幼少時代、思えばあれはピピピピっというリモコンによって正太郎君の命ずるままに動く単純な破壊道具だった鉄人と、創造者(父親)である天馬博士さえ裏切って自由意志をもってしまった「人間よりも上位」のアトムとの、どちらが人間にとって奴隷的で安全で脅威ではなく楽しく明るく未来が便利になるのだろうというとっても傲慢な本音の晒し合いだったのではないかと赤面してしまうのである。人間の未来を便利にするために、作業を楽にするために、危険に晒されないために、将来的にロボットは発展していくのだろうが、そういう「代理物」であるということは「南極2号」的な側面もとっても重要になってくるはずで、更にはそのことと売春との違いをいったいどうやって定義づける気でいるのだろう、人種差別ではないという主張と3原則とやらの範囲の中で。。。次は格調高く(?)グレアム・グリーンを手にとってみようかしらん。
教皇暗殺 2004/10/2(土)
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トム・クランシーの『教皇暗殺』を読み終えた。全編通じて静かなトーンの大人のスパイ小説だった。ただ「事後」以降の急ぎすぎた展開に興ざめしたのと英国やソ連の政治・文化に対するアメ公のチョー傲慢な見下した態度には辟易した。これは多分トム・クランシーの本音の部分なのだろう。そして更に日本語訳の幼稚さと新潮社が4冊に分けて売るという暴挙がせっかくの良作を汚してしまっている。何ちゃら賞を拾った京極何とかいう人の超分厚い系も手首の腱鞘炎で賠償請求されそうだけれど、あれを敢えて4冊に分けて売上を水増しするだなんてチョーみっともないし。。。さてさてその4冊を読んでいる間に買い貯めたのが色々。グレアム・グリーン『The
Quiet American(おとなしいアメリカ人)』、アイザック・アシモフ『I,ROBOT(アイ・ロボット)』、ジョン・グリード『シリウス・ファイル』、クライブ・カッスラー『ロマノフの幻を追え』、ケン・フォレット『ハンマー・オブ・エデン』、イアン・コールドウェル&ダスティン・トマスン『フランチェスコの暗号』。う〜ん次はどれにしようかなあ。映画の「I,.ROBOT」は見にいけそうもないなあ。映画といえば何といっても『スウィングガールズ」だべ。これはぜひ映画館で見たいと思っている。
蒲団 2004/9/25(土)
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「C」の関連で田山花袋の『蒲団』という作品を読んだ。90分程で読み終えた後しばし呆然として思考回路がストップしたままだった。集中した仕事の後とかウォーキング直後の酸欠状態とか愛した人の突然の訃報を知った瞬間とか、何だかそんな感じの空白タイムが1時間ほども続いた。それくらいにショッキングな短編だった。「渠(かれ)」とはまさしく私自身だ、いや、世の全ての男の肉の内奥に燻ぶる‘どうしやうもなゐやうな闇’だ。男という性に生れついたものが必ず足を踏み入れる性欲地獄がそこには描かれていた。さすがに世に名を残す作家だけに文章は簡素で美しく京都弁や岡山弁もいやらしく取り入れてあってとっても読みやすいのに、実に不快な自己嫌悪に直面させられ続ける90分だった。何度も使用されていた「惑溺」という言葉が時に文学的で時に明治の時代を象徴しそして殆どの場合とても卑猥で春本のような響きを帯びていたのだ。『蒲団』という作品を習ったあれは確か中学生の時にこんなものを読んでいたら私はどう感じていたのだろうかと興味深い。その『蒲団』という題名からして実はそのまんまだったのだ。読む前の私は田山花袋=『蒲団』という国語の教科書からの知識だけで漠然と抱いていた作品のイメエジがあって、明治時代のどこか田舎の3世代の暮らしをほのぼのと描いている、晴天の中庭に空高く干してある蒲団を幸福の象徴としたようなそんな作品のはずだったのに、、、最後の最後で蒲団にあんなことを・・・夜着の襟にあんなことを・・・うう、身に覚えあるんだもんね、なのだった。
井伏鱒二全詩集 2004/7/21(水)
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岩波文庫から新刊で出ていた『井伏鱒二全詩集』を買った。前に住んでいた地の出身で文学館もできていたことと、太宰の盗作事件と、そして何よりも「全詩集」というのが珍しくて買ってみた。。。う〜ん、私は井伏鱒二の小説を読んだことがないけれど、厄除け詩集と題されたものを読む限りにおいては小説もまた読むに値する・・・のかどうかは・・・う〜ん、ま、お好みで、ということで。。。読んでいて思い出したのは6月に配信した河上肇氏の『わが詩』というやつだ。それにしても巻末の解説。いくら井伏氏が故人だとはいえ、ちぃ〜と褒め過ぎっす。
武蔵丸 2004/7/11(日)
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わお!これはいったいどういうことなんだ!あまりの不思議、あまりの奇縁、あまりの驚愕に震えてしまった。。。日記に書いた車谷長吉氏の『武蔵丸』。私は本当に車谷氏なんて全く知らなかったのだ。映画の「赤目四十八瀧心中未遂」も場所が懐かしい赤目の滝だから耳にはしていたけれどそれが直木賞作品で作家は車谷氏だなんて知るわけがなかった。きっかけは積読状態だった文庫本をパラパラと開いていて入っていた「今月の新刊」広告の中に“文士なんて、人間の屑である。”という一文を見つけて気になっただけなのだ。『武蔵丸』というタイトルにしたところで何の関心もなかったのに・・・ところがだ、本の帯に目を通して吃驚!・・・<平成11年7月9日、一匹の兜虫が小説家の家に来た。7月21日夜、恩師の評論家・江藤淳が自殺した。高齢で子供のない夫婦の悲劇だ、と思った。11月20日朝、兜虫が死んだ。その夜、小説家は40枚の作品を一気に書き上げる。江藤淳夫妻への追悼だと思った。それが「武蔵丸」である。>・・・・・・・・・な、ななな、なんなんだこれは!と無音のまま叫んでいた。背筋がゾクゾクしていた。30度もある熱帯夜にエアコンはまだつけず扇風機で我慢しているのに寒気が走った。我が家にもカブトムシがやって来ていて先日も掲示板でwebGFから♪おたくのは元気♪と様子してもらっていたところではないか。江藤淳氏の自死はかなりショックだったという記憶がまだ新しい。急いで「武蔵丸」を読んだ。短編6篇の5番目だったけれど一番に読んだ。20頁ほどであっという間だ。ふうん、武蔵丸というのは兜虫につけられた名前なのか。ああそうか、カブトムシは晩秋には死んでしまうんだったなあ。そんなことは思いもしていなかったけれど我が家のカブトムシ君(名前はまだない)も残り4〜5ヶ月の命なんだという事実に直面して、なんだか悲しくなってしまった。最後は涙で活字が曇っちまったぜ。ほお、車谷氏の嫁はんは高橋順子さんという詩人なのか。嫁はんが「兜虫の家」という詩まで書いているではないか。私もちょうど今「かぶとむ詩」の推敲中なのだ。うう、これがホンマの「虫の報せ」だ。
2004/8/9(月)
カブトムシ君が死んだよと妻が悲しい声で言ったのは23時30分少し前のことだった。土曜日は出かけていて帰るとすぐに晩餐の準備、入浴、アジア杯、泥酔だったし、昨日も尾道に出かけて帰宅したのが深夜近く。コンビニ肴で呑んでそのまま寝たのだった。そして今朝は昨日の疲れを残したまま仕事に精を出し、やっと22時頃にゼリーを補充してやった。その時はまだ枯れ葉に隠れていたので気づかなかったのだ。妻が、昨日の夜中に必死に脱走を試みていたのは死に場所を探していたのかなあ、出してやれば良かったなあ、と呟いたので泣きそうになった。ふうん、やっぱり悲しいものなんだ。先日聞いた叔父の訃報なんて太陽とイシガメだ(最近の月は安っぽくてスッポンは高級食材なもんで・・・)。明後日で丸2ヶ月になる時間を共に暮らしていると、例え昆虫相手でも情が湧く年齢になったんだろう。子供の頃にカブトムシが死んだといって悲しむなんて考えられなかった。武蔵丸を亡くした車谷氏も泣いたんだったなあ。車谷氏は確か線香をあげたんだった。妻が、明日ウォーキングに行ったら出会った場所に埋めてきてあげなさいと言ったのでとうとう泣いてしまった。それにしてもいったい何が抜け落ちてこんなにも軽くなってしまうのだろう。
城壁に手をかけた男 2004/8/13(金)
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『城壁に手をかけた男』
by
ブライアン・フリーマントル。これまた楽しみ。でもまずは車谷さんの短編を味わってからね。
………
これは早々に読み終え次は久しぶりのトム・クランシーで『教皇暗殺』。
「信義」「希望」「自愛」の3部作 2004/7/8(木)
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レン・デイトンの超長編大作最終3部作をやっと読み終えた。合計9冊の最後だし時間がかかりすぎたので少し間延び。入り組んだ筋書きと複雑な人間(スパイ)心理ゆえにとうとう感情移入できずじまいで残念だった。そんなことを割り引いてもラストシーンは少しセンチメンタルすきだような気がしてしまった。ところで巻末の解説を読んで新事実発覚。そして8冊目発行〜9冊目発行まで異常に期間が長かった理由が判明した。スパイ小説翻訳界の重鎮:田中融ニ氏のご功績に感謝して長いけれどここに引用させていただくことにする。「この作品の時制からちょうど10年後の1998年5月、これまでバーナード・サムソン・シリーズを手がけてきた田中融ニ氏が急逝された。制癌剤の服用を拒否した上での自死であったらしい。そしてその霊は今、お嬢さんの住むドイツ(サムソンの故国!)の墓地の本の形をしたお墓に眠っているという。(中略)「スパイ小説の詩人」レン・デイトンとバーナード・サムソン・シリーズの人気は、ひとえに「翻訳界の詩人」田中融ニ氏の格調高い名訳によるものだといっていい・・・」。。。
「信義」「希望」「自愛」の3部作 2004/4/24(土)
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レン・デイトンのマニアック3部作の完結編。3部作×3部作=9作品のうち8作品までは読んだのに最後がなかなか手に入らずに(ソ連崩壊後の時代がそうさせていた)長い間読めなかったのだ。ところがやっと手に入った頃には月日が流れ8作品のストーリーは忘れるは最初の6作品は古本屋に売り飛ばされるは次々と新しく楽しいものが出て来るはで結局読まずじまいだった「信義」「希望」「自愛」の3部作なのだ。近頃では古本屋でもネットでも手に入らない程の希少本となってしまい売り飛ばした6作品を読み返すことはできないけれど、そのあらすじがネットで読めたので、それでは読もうぜ完結編3部作「信義」から再び。ということで「信義」の解説から序文を引用させていただきます。。。「バーナード・サムソンが戻ってきた!時の設定は1987年の夏が秋に移行しようとする頃とあるから、ベルリンの壁の崩壊(1989.10)のほぼ2年前にあたる。本書はスパイ小説の巨匠レン・デイトンの『ベルリン・ゲーム』(1983)に始まり『スパイ・シンカー』(1990)に至る、SIS(イギリス秘密情報局)ドイツ課長補佐バーナード・サムソンを主人公とする2つの3部作の後を受けた新しい3部作の第1作である。」
エヴァーグレイズに消える 2004/4/23(金)
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T.J.マグレガーの『エヴァーグレイズに消える』読了。おなじみの連中が懐かしい顔を見せてくれるシリーズ物ではないのが残念だけど、いきなり「テスラ・コイル」で透明人間誕生だなんて楽しみにしていたら、全体的なプロットとそしてストーリー展開の荒唐無稽さにはちょいとガッカリ。けれども透明人間の実態?は面白かった・・・・実はヒロくん幼き頃より透明人間に憧れておりまして、もしも透明人間になれたらあんなこともこんなこともうひうひそんなことまでおいおいいくらなんでもそこまでは、とかなんとか想像を巡らせて金持ちになったりオナニーしたりしていたものだったのだけど・・(^^ゞ・・・まさか透明人間が透明人間になるために浴びる光を同時に浴びたもの以外は透明にはならないのだから、たとえば新しいパンツは見えるから古いのを何度も洗って使うんだとか、食べ物が喉を通って食道〜胃〜腸で消化されていく過程が丸見えでグロテスクなんだとか、だから腸の続きはいくら小説でも書けないらしいのに女性の生理については言及しているし、おお、なんだい、透明人間は透明なだけで壁とかをスルリと通り抜けは出来ないのかよお、おもろないぞ、とかさ。
ナイロビの蜂 2004/4/7(水)
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ル・カレの『ナイロビの蜂』。本のカバーや帯には“巨匠の到達点ともいうべき最高傑作”だとか“芳醇でエレガントな知的興奮を誘う”だとか宣伝してあるけれど私の読後感は「イマイチ」だった。長い冷戦期間に楽しませてもらったスパイ物の余韻を今も引きずっていて、ル・カレ=寒い国から+スマイリーなもんだからこの手の社会問題系はちと重過ぎてしまうのだ私には。その点次作は『Absolute
Friends』という2003年に書かれた作品で、“冷戦時代に闘った2人の元スパイがアメリカのイラク侵攻に巻き込まれる話”というのだから楽しみだ。早いとこ翻訳して出版してね。
BLOW
FLY 2004/3/7(日)
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おお、なんとご無沙汰のスカーペッタ先生だ。パトリシアの「BLOW FLY」。放題は黒蝿。ははは。蟻の次は蝿かよ。その次は蜂やし。
蟻3部作 2004/2/6(金)
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ようやく『蟻』を読み終えた。3部作全体を通したストーリーそのものよりも随所に挿入される「相対的かつ絶対的知の百科事典」に楽しいものが多くて読みごたえがあった。3部目の「蟻の革命」のメインテーマである“蟻と人間が集まって協力し合いながら新しいことに挑戦しよう”みたいなことの象徴である<1+1=3>という一見ありふれた「和の相乗効果」を見事に数式で証明して見せているのには驚いたのでここに写して残しておきたい。それは懐かしいこんな公式から始まっている。(a+b)x(a-b)=a2-ab+ba-b2・・・2乗の2が上付きに小さくならない・・・ご存知のようにこの式はこうなる。(a+b)x(a-b)=a2-b2 次にこれを左右とも(a-b)で割るのだ。そうすると
(a+b)x(a-b)/a-b=a2-b2/a-bとなる・・・分数なので/より左が分子、右が分母・・・左側を整理すると
(a+b)=a2-b2/a-bだ。ここでa=1.b=1.としてみるとこんな式になる。1+1=1-1/1-1。分数で分母と分子が同じ数の場合は1になるわけで、この場合だと=より左が1+1だから2.右が1となって、2=1という答えが導き出されてしまうのだ。そして更に左右両側に1を足すと3=2となる。それでこの2を(1+1)になおすとだ、あれまぁ〜、あららぁ〜、3=1+1になってしまうではないか。何でだろ?不思議だ。う〜ん、どうやらこの証明のミソは2ヶ所あるようだ。1つはaもbも1に設定したこと。そしてもう1つは<分数で分母と分子が同じ数の場合は1になる>のを利用して
1-1/1-1=1 つまり0/0、0割る0を1にしていることだ。しかしそれでも数字とメカに弱いタイプのヒロくんにはカラクリ不明なままなのでありました。←誰かオセーテ
シャングリラ病原体 2003/4/17(木)
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巨匠フリーマントルの『シャングリラ病原体(原題=Ice
Age)』を読み始めて思わず絶句。地球の温暖化によって北極の氷床が40年前に比べ約40%も薄くなっていて23000年前のマンモスが完全な形のまま現れたりしているというその事実の下にはマンモスのような巨大な哺乳類だけではなくて微細な生き物も当然含まれているわけで、人類がいまだ嘗て経験したことのないタイプのウィルスが再活動を始める可能性は高いのだ。南極やシベリアにある現代の謎「バイカル湖」が舞台のこの小説はまさしく今のSARS(新型肺炎)への警鐘だと思っていたら新聞に次のような記事が載っていた。「30〜40万年前の植物DNA抽出/欧州研究グループ シベリア凍土掘削」その結果として30〜40万年前の植物の他にマンモス・野牛・馬の組織が見つかり、その中から2〜3万年前のミトコンドリアDNAも抽出できたというのだ。おいおい、そんなことぉーしとるから永い凍眠から目覚めた細菌達がよぉーーーおまけにこの記事のすぐ隣りには・・・「新型肺炎 29日に緊急首脳会議 ASEAN 感染防止など協議」という大きな見出しがよぉーーー温暖化といえばヒマラヤのてっぺん付近の氷もかなり溶けているようで、今後は雪男っぽいものも続々と発見されるのではないか?ヒマラヤ?アジアの屋根!ま、まさか、SARSの発生源は中国のような・・・ま、まさかっ!ヒマラヤの氷が溶けて数万年前に謎のウィルスで死んだ雪男の冷凍遺体から復活した菌の胞子がふわりふわりと漂いながらモンスーンに乗っかって東方へと・・・おおっ!
魂のみなもとへ 2002/7/12(金)
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新聞の宗教面に哲学者(長谷川宏氏)が最近のベストセラーの恋愛小説について書いていた記事が面白かった。ちなみに長谷川氏は谷川俊太郎との共著『魂のみなもとへ』という本で知った人だけれど、この本はまだ「積ん読」の山の中に埋もれたままだ・・・で恋愛小説についてだが、1940年生まれの長谷川氏の言うところでは「過去の恋愛小説の名作といわれているものは殆どが恋愛の狂気性を描いているのに対して、昨今のそれは恋愛に穏やかさとか落ち着きとかの癒しを求めているように思える」というのだ。それは何よりもまず作家自身の恋愛へのスタンスであり、また「売れる」恋愛小説へのマーケティングの結果なのだろう。どっちにしても昔日の恋愛は熱く燃え盛り狂おしく非日常的で非常識で血や死の臭いが漂っているようなものがウケ、現代の恋愛はそういうドロドロは避けているということか?それは多分何も恋愛だけには限らない大正〜昭和中期と、それ以降の日本社会のあり方と密接なのだとは思うが、その「狂気の体験者」としてはちょいと寂しいのさ。
神々の指紋 2002/6/21(金)
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数年間ずっと“積ん読”状態だったグラハム・ハンコックの『神々の指紋』をやっとこさで読む気になったので紐解いてみたら・・・これがまた何とまあ初っ端から飛ばしてくれる。つかみはOK!てなもんだ。16世紀に転写されたと科学的に信じるに足る根拠のある世界地図に南極が書かれている。南極の発見は19世紀だ。しかも氷におおわれている部分の元々の大陸の輪郭は20世紀も半ばの技術でやっと測定できたものなのに、その地図には測定結果と近似した形が既に書かれていておまけにメルカトル図法ともクリソツなのだ・・・これは古代文明の起こりよりも更に数千年前(氷河期の前)に20世紀程度の文明をもった人々が南極で「暮らしていた」ということの証拠なのだ・・・ううっ、まだ最初の47ページまでだけなのにこんなにワクワクドキドキしていいのかい・・・という楽しい予感のする数日となりそうだ。
熱砂の絆/The sands of Sakkara 2002/5/29(水)
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『熱砂の絆/The sands of Sakkara』(グレン・ミード著)というスパイ小説を読んでいたらイタリアのスパイに関する件(くだり)に思わず笑ってしまった。
「イタリア人のスパイの居所を発見するのは簡単さ。町一番の美人のベッドの下を探せばいいんだ。」ははは。これはイギリスの情報部員がアメリカ人の主人公に話したことで、対してナチスのスパイは凄いんだぜ、ということの強調構文?みたいなものなのだ。
アクロイドを殺したのはだれか 2002/5/22(水)
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「アクロイド殺し」に対する、『アクロイドを殺したのはだれか』を読み終えて驚いた。というより、読み始めて即、驚いた。どうせ陽気で楽しく面白おかしくクリスティのトリックを解きほぐし真犯人を提案しているだけだろうと思っていたのに、なんと!この本は立派な精神分析の書籍なのだった。なもんで実に久しぶりに「如何にもそれ風に」翻訳された文体の日本語の学術書を読まされていたのだ、あれからずっと。そもそも著者のピエール・バイヤールという人はパリ第8大学の教授で「文学を精神分析に応用する『応用文学』の提唱者」らしいのだ。訳者も京都大学助教授で専門が「文学理論」という方。・・・文学理論っていったい・・・・そしてピエール・バイヤールの著書もアクロイドの他に様々で『ふたりのロマン・ガリ』とか『嘘つきのパラドックス――ラクロ論』、『フロイト直前のモーパッサン』、『主題外――プルーストと冗長性』などこの全てが邦訳されてはいないけれど著名な文学作品をもとに精神分析的な接近の仕方で主人公やストーリー、或いは作家へのアプローチを試みているのである。そんな中での「アクロイドを殺したのは誰か」・・・ひえぇぇぇぇぇぇっ!もー大変だったさ←読破するの←懐かしい専門語頻出←でも「真犯人」は予測通りで楽しかった(^^)/ けれどもこの本から感じたことは何も「犯人云々」ではなくて、文学作品を読む(理解・分析・判断)ということは100%主観の産物であり、文学で最重要であるとされている登場人物の人物造詣についてもその1/2は作者の筆力だが、残りの1/2は分析者(読者)のそれまでの人生が反映されるもので、文学とは書き手と読み手の関係、それはまるで精神分析学者と患者の関係のようなものの上に成立しているのである・・・・・・みたいなことが印象に残った。う〜ん、詩こそまさしくそういうものなんだと日頃感じていたところだしなあ、、、
アクロイド殺し 2002/5/11(土)
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30年以上ぶりにアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』を読み返してみた。←色々出版されているけれど今回は早川文庫にした。詩人、故田村隆一の訳だったからだ。なんでまた今頃、というのは、少し前に書店で『アクロイドを殺したのはだれか』という本を見つけたのがきっかけで、そういえばこの名作は当時中学生ながらもその結末に納得がいかなかったのを思い出したのだ。ところが当時「アガサ・クリスティー」なんかで話の合う連れなんか居るはずもなく、性欲や食欲、睡眠欲と同じくらい読書欲も旺盛だった私は読み終えると同時にもう次の作品(クイーンだったかヴァンダインか、それともクロフツか、あるいは再びクリスティーだっか)へと手を伸ばしたのだった。30数年後、あの未消化な感覚を思い出した私は当時の孤立状態とは違ってさっそくインターネットで色々とさぐってみると「アクロイド殺し」に対する疑問や批判はもう超有名らしく様々な書籍やサイトがあることを知って愕然としたのであった。なんや、ワシだけと違うんや。それやったら30年前に即、疑問を形にしていれば今頃は著名な批評家かなんかに・・・ということで今日から読み始めるこの『アクロイドを殺したのはだれか』(ピエール・バイヤール著/大浦康介訳)という本、胸がときめくほどに楽しみな1冊なのである。これを契機に、小学生の高学年くらいから読み進めた不朽の名作たち、ミステリーの古典たちを再読していくのも老後の時間つぶしには至福のひとときになるかもしれない。
風穴をあける 2002/1/31(木)
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今日は午後いっぱいをジュンク堂広島店で至福の時を過ごした。販促系のビジネス専門書を探すというのが表向きの理由で(目的に叶う書籍はなかった・・・)、実は暇つぶしが本当のところなのだが、なかなか有意義な1日ではあった。途中、休憩に入った書店内のカフェでエスプレッソをダブルで飲みながら購入した谷川俊太郎のエッセイ『風穴をあける』をひもといていると何故か私の知り合いにいる珍しい名前の男、風穴クンを思い出したりして・・・そのまんまやろ
タイムライン 2002/1/24(木)
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朝起きたら咽喉が痛くて、風邪らしいので終日ベッドにいた。おかげで積ん読状態になっていたマイクル・クライトンの単行本『タイム・ライン』上下2冊を一気に読むことができた。タイムトラベル物。う〜ん、楽しかった。
世界がもし100人の村だったら 2002/1/4(木)
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『世界がもし100人の村だったら』という本を買った。何やらEメール界を賑わしていたようなのだが私には初耳だった。<世界がもし100人の村だったら20人は栄養がじゅうぶんではなく1人は死にそうなほどででも15人は太り過ぎ>なのだそうだ。例のテロを契機とした何やら意味ありげで何もなさそな、そういえばあの映画、何だったかなあ、一日一膳みたいなヤツ、そうそう『ペイ・フォワード』みたいなそんな臭いのする現象のようだ。それをまとめて本にした池田なんとかさんの商才はスゴイなあ。
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