長府ゆかりの人物

長府藩士

(みよししんぞう)

三 吉 慎 蔵

 1831年(天保2年)10月11日長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれ、安政四年(1857)三吉十蔵の養子に迎えられました。文武両道に秀で、藩主の信任厚い慎蔵は、1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の監督となります。また、山口在藩役や東豊浦郡代などを歴任し、慶応元年(1865)には永代馬廻格に遇せられました。
 慶応2年正月、慎蔵は印藤聿の紹介で坂本龍馬と初めて対面し、藩命を受けて上京、薩長同盟締結直後の同月24日夜、潜伏中の寺田屋で龍馬とともに遭難し、以後龍馬と慎蔵の関係は親密なものとなりました。また、慎蔵は龍馬のみならず、西郷隆盛や中岡慎太郎など明治維新の実現に多大な功績を残した人々とも交流を重ねています。また、龍馬暗殺の悲報を龍馬の妻お龍へこの慎蔵が伝えたと言われています。

 維新後慎蔵は、明治の元勲たちと交流を続けましたが、自ら高位高官を望むことなく、長府毛利家の家扶として亡くなる数日前まで出務し、1901
年(明治34年)2月16日病死しました。墓は功山寺にあります。
 *尚、平成13年(2001年)は三吉慎蔵没後百年を記念し、長府博物館で企画展「三吉慎蔵と坂本龍馬」が開催されました。
 

三吉慎蔵没後100年特別寄稿(平成13年)

三吉慎蔵のこと

直木賞作家 古川 薫

 三吉慎蔵のことを知る人は意外にすくない。長府に住んでいても、三吉慎蔵の名を聞いて「ああ、あの侍か」とうなずく人はまれであろう。歴史は風化していくから、それも仕方がない。でも記録だけは残しておきたいものだ。
 
下関教育委員会発行『下関の人物』にも記載がない。大和書房『山口県百科事典』は、県下の歴史上の人物をかなり詳しく取り上げているが、それからも三吉慎蔵の名は落ちている。大変残念でならない。

乃木さんの槍の兄弟子

 さて、その三吉慎蔵は長府藩士である。天保2年(1831)、長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれた。幼時、田辺家、ついで三吉家の養子となった。
 中村安積について宝蔵院流の槍をならった。藩内きっての槍のつかい手だった。乃木希典も少年のころ中村安積について槍をならっているから、この道では乃木さんの兄弟子ということになる。
 
しかし、慎蔵は乃木さんより18も年上だから、両者の接触はないままだった。慎蔵は一世代前の人物で、乃木さんよりも少し早いころの維新動乱期に活躍した長府藩士である。
 
坂本龍馬が下関に出入りしはじめたのは、文久年間からで、同2年(1862)土佐を脱藩したときは、真先に下関の白石正一郎を訪ねている。また薩長連合の画策にあたってはむろん下関が謀議の場所となったし、その後もしばしばやってきた。つごう約10回ぐらい来関している。
 
三吉慎蔵を坂本龍馬に引き合わせたのは長府藩士印藤肇(いんどうはじめ)で、それは慶応2年(1866)が明けたばかりのころ坂本龍馬の仲介で薩長連合の話が煮詰まる直前だった。


坂本竜馬とともに活躍
 時局が重大な方向に動いていることを知った長府藩では、三吉慎蔵に京都の探索を命じた。そこで慎蔵は京都に急ぐ龍馬と一緒に下関を出発したのだっだ。

 二人は伏見の船宿寺田屋に入り、龍馬は1人で京都の薩摩屋敷に行き、1月23日に戻って、慎蔵に西郷・桂会談の結果を教えてやった。翌24日夜、伏見奉行配下の襲撃を受けたのは、二人の話がはずんでいる頃である。
 慎蔵は得意の槍をふるって戦い、龍馬はピストルを発射して応戦、二人をたおした。しかし、横から斬りつけてきた敵の刀を龍馬がピストルでうけとめ、そのとき右手の親指から人さし指の根元をざっくりと斬られてしまった。

 龍馬と慎蔵は、別の階段から路地にのがれ、夜道を走って川ばたの材木小屋をみつけてそこに潜んだ。

 負傷した龍馬をそこに残して、慎蔵は薩摩藩邸にうまく走りこんだ。おどろいた薩摩の藩士たちが、材木小屋にかけつけ、無事龍馬を救出した。危険を冒して救援を求めた慎蔵は、龍馬の命の恩人といってもよいだろう。

報國隊軍艦として奮戦
 薩摩の軍艦胡蝶丸は、3月5日に大阪を出港して、薩摩にむかった。その船には龍馬と慎蔵、そして龍馬と結婚したばかりのお竜も乗っている。有名な坂本龍馬とお竜の日本人初の新婚旅行である。慎蔵は下関で下船し、長府藩に京都の様子を報告した。
 その年の6月、第二次長州征伐の幕軍と長州軍との戦い、つまり四境戦争が始まる。長府藩の報國隊は奇兵隊と力を合わせ、高杉晋作の指揮下で小倉口の幕軍と戦った。慎蔵は報國隊の軍監として奮戦、幕軍を撃破した。

慎蔵の墓は功山寺に
 慶応3年(1867)9月、坂本龍馬はオランダ人から買いつけたライフル銃千3百丁をつんだ震天丸に乗り長崎から土佐にむかう途中、下関に寄港した。下関の廻船問屋伊藤家に、竜馬は妻お竜をあずけていた。
 
「まさかのときにはお竜と妹の君枝のことを頼む」と龍馬は三吉慎蔵に依頼して、下関を出港、土佐に小銃をおろして京都にむかった。「まさかのとき」は本当のことになってしまった。龍馬は11月15日夜、京都の隠れ家で暗殺されたのだ。
 
長府にいた慎三がその知らせを受け取ったのは12月に入ってからである。伊藤家にいるお竜にその悲報をとどけるのも慎蔵のつらい務めだった。龍馬との約束通り、お竜・君枝姉妹を長府の自宅に引き取り翌慶応4年(1868)3月、高知の坂本家に送った。
 
慶応4年は明治元年である。維新後の三吉慎蔵は、豊浦藩権大参事となるが、その後、北白川家の家令を勤め、明治23年(1890)に辞任して郷里の長府に帰った。以後は悠々自適して明治34年(1901)2月、71歳で他界した。
 
三吉慎蔵の墓は、長府功山寺の国宝仏殿の真裏にあたる三吉家の墓地にある。また慎蔵が住んだ屋敷は、現在の下関市長府南之町・松岡医院の位置がそれである。

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