| 豊臣秀吉(とよとみひでよし) 戦国時代の武将として、織田信長や徳川家康と並び非常に人気のある秀吉ですが、1592年7月19日、佐賀にいた秀吉が母の病を聞き急遽大阪へ帰る途中、関門海峡の赤間関大迫門にて秀吉が乗った舟が航行中座礁した際、のちに長府藩祖主となる毛利秀元(ひでもと)が救出したのす。 また、1587年(天正15年)九州征伐の途上、忌宮神社(長府)にて参拝されています。 |
| 豊永長吉(とよながちょうきち) 長府藩士。長府報國隊士。殖産興業家。1831年2月18日長府にて生まれ。1911年(明治44年)7月23日病死。 |
| 豊浦懐(とよらかい) 1728年(享保13年)長府に生まれます。豊浦懐は筆名と思われますが、本名などはわかっていません。老子の研究家で1781年〜88年の間、下総の中惟子敬(なかいしけい)が営んでいた塾の賓師として招かれ老子を講じます。 著書に「老子道徳経妄言」があります。 |
| 中山侍従忠光卿 1845年4月13日生まれ。1863年4月2日亡命し長府に入りますが、1864年11月8日長府藩俗論派林郡平らの指図により暗殺されます。 |
| 原田準二 長府藩士。長府報國隊都督。1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の発起人の一人でもあります。 |
| 繁沢豊城(はんざわほうじょう) 1732年(享保17年)に長府藩の医者上領伯仙(かみりょうはくせん)の子として生まれ24才の時、萩藩の儒臣繁沢規直(しげさわのりなお)の養子となります。 60才の時に萩本藩の藩校明倫館の学頭になります。1806年死去。 |
| 伏見宮博恭王殿下(ふしみのみやひろやすおうでんか) 1934年(昭和9年)3月14日、軍令部総長元師海軍大将大勲位功四級伏見宮博恭王殿下が海軍志願兵の募集状況視察のため、呉市から空路呉鎭第1号水上飛行機にて午後3時30分呉を離水、4時55分長府へ着水されました。 伏見宮博恭王殿下の来関により、青年の志気は大いに昂揚したといいます。現在、伏見宮博恭王殿下上陸の碑が長府外浦町水族館前バス停に建っています。 |
| 平井温故(ひらいおんこ) 長府藩士熊野家に生まれますが、同じ藩の平井家の養子となります。長府藩4代藩主元朝(もととも)に儒臣として仕えます。また、長府の歴史をまとめた「豊府志略」を作成しています。1734年に死去。 |
| 福原和勝 集童場門下生。長府報國隊士。弘化4年生まれ。西南戦争にて負傷し1877年(明治9年)3月22日死去。 |
| 穂田元清 毛利元就の子。長府藩初代藩主の毛利秀元の父。 |
| 松岡道遠(まつおかどうえん) 1763年(宝暦13年)長府藩士津村長五郎の子として生まれ、松岡家の養子となります。医学を永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)、小田享叔(おだこうしゅく)に学び、成人後江戸に出て開業します。眼科・内科に長じ名医として評判馬されました。 のちに長府藩11代藩主毛利元義の侍医になります。 尚、長府藩の儒臣として活躍した小田南がい(おだなんがい)は松岡道遠の二男です。 |
| 三吉周亮 長府藩家老。1866年6月26日桂縫殿に代わり長府報國隊総督となる。明治36年6月1日病死。 |
| 和智格 1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の発起人の一人。 |
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